白石晩年の書簡 269
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作成日時 : 2010/08/03 16:15
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次に享保六年の八月九日付と思われる白石の澹泊宛の書簡の一部を紹介しようと思う。
ちなみに、全集本の「新安手簡」では、編集者によって冒頭に日付が注記されているが、年次は時に干支で示される場合もあるものの、内容の細かい検討によって推定する以外にはない。荒川久寿男『新井白石の学問思想の研究』に収録の「澹泊と白石――新安手簡年次考――」がほとんど唯一の信頼できる研究である。なお、全集本の底本となった内閣文庫本も立原翠軒の収録編纂本の写本だが、書簡独特の冒頭や末尾の挨拶部分などは削除されて、中心部分のみが残された実質的には抜粋と呼ぶべきものも多く、書簡の持つ人間臭がいくらか消えているだけ魅力も薄くなっている。
第一項は皇朝十二銭に関する澹泊の精しい答への謝辞で、内容は略すが、後半部に若干の感懐を述べているのが目を引く。
「……すべて一事の事に候とも、未聞未見のことをも承りも見も仕り候はこれにすぎ候楽(たのしみ)なき事に候。しかるに毎々御庇蔭(ひいん)にて愚者の得是在り候事、謝し尽しがたき仕合にて候。もとより浅陋(せんろう 浅く狭い)の質、之に加へ晩学の事、殊には壮年の日まで官遊東西心を用ひ候て、渉猟の暇などなき身に御座候処、存じかけざる事により前代遭遇(思いがけない前代将軍家宣公との出合い)の後には、又夫(それ)に付候事にて静ならぬ事のみに候ひき。数年以来投閑斯生の幸と存じ、人事を謝絶し旧業を修し候をたのしみ候へども、実に独学固陋、その上家書も乏しく、目前のことに候はむも知れ候はぬ事ども多々のみに候。其後とても毎事請問のこと候はんに、御厭棄これなく候はん事仰す所に候。」
「晩学」とは木下順庵の門に入ったのが遅かったことを指し、それまでもっぱら自分で書を読んで学問に努めたことをいうのだろう。壮年まで「官遊」、つまり浪人生活で、渡り奉公までもいとわずにひたすら食いつなぎに明け暮れ、思うようには勉学の暇がなかったことを述べている。一転して甲府藩の綱豊(後に将軍家宣)に仕え、その後将軍の顧問役として政治の世界に忙しく奔走した。今は静に学問を楽しんでいるが、独学の悲しさでいろいろご教示に預かることが多いので今後もよろしく、という趣旨である。
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