白石晩年の書簡 140
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作成日時 : 2009/09/03 21:41
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ここで書誌的な注釈を少し加えておきたい。全集所収の「新復手簡」(白石から復庵に宛てた書簡)の原本の相当数が、現在東京国立博物館に巻子本として所蔵されており、一方、「新佐手簡」(白石から洞巌に宛てた書簡)の原本の大部分が仙台市博物館に、これも巻子本として所蔵されている。前者については、森原章『新井白石研究論考』に、原本と全集本の照合結果が簡単に記されているが、後者については、仙台市博物館に移される前には伊達家の所蔵で非公開のためか、まだどこにも研究が公表されていないようだ。東博所蔵の分は資料館で写真判による閲覧が可能で、仙台市博物館でも現在はマイクロフィルム閲覧はできるようになっていると思う。(*15年ほど前に私が訪れた時には、まだマイクロ化ができていなかった。その後まもなくマイクロ化が実現し、私自身は博物館側の特別なはからいによってマイクロフィルムからのコピーを入手できた。)
他の室鳩巣宛や安積澹泊宛、また土肥新川宛のものは原本が散逸したらしく、ごく少数が諸所に分散所蔵されていることしかわからない。したがって、全集本のかなりずさんなテクストを信頼できる形にもどす手段がほとんどないわけである。ただし、安積澹泊宛の「新安手簡」については、その後同志社大学所蔵の貴重書文庫の中に立原杏所自筆の写本で、書簡の配列は事項別に並べ替えてあるが、一字一句も文字遣いをゆるがせにしない信頼できる(と思われる)テクストが存在し、しかもデジタル貴重本として公開になっていることがわかった。本ブログに引用の部分に関してはできるだけこれにより補訂を行うつもりである。
白石は青壮年時代にもかなり多くの書簡を書いていたはずだが、それらも大半は散逸を免れていない。全集にはその時期のものはほとんど収録されていないから、改めて探索することはほとんど不可能に近いだろう。このような現状が新規の全集を編纂することの一つの障害にもなっているのだろうかと、私は推測している。
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