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六月の幕『遣らずの雨』
これは、−彼ら−の物語です。
だから、−誰か−が語るべきなのです。
理屈や動機なんてありません。
この人知れず起きていた−誰か−の生き様が貴方の手にとって読まれるならば、それが、若者たちの描く、生きる残響だと言い残すことができるのです。
願わくば、多くの糸がゆっくりと解けてゆくように、それらの真意を持って、夏の果てへと至ることを、お祈りします。
六月の幕『遣らずの雨』
序章『東雲』
夏の空には、遥かに続く積乱雲と、深みを帯びた碧色が映し出されている。雨が止んでから、どれくらい過ぎたのだろうか。夏の始まりを誰が告げたのかもわからぬまま、季節は蟬時雨へと移り変わってしまった。そんな、陽炎さえも愛おしくなるほどに降り続けたあの梅雨の日々に、誰が夏を宣告したのだろうか。この田舎に旅人が訪れたからだろうか。それとも、ある中学生が思春期に終止符を打とうとしたからだろうか。いや、もしくは、叶えられぬ夢に、どこかの若者が泣き崩れたからだろうか。
一章『誰でもない誰か』
誰でもない誰かに見守られた町。とある街からしばらく山々を経た所に、その田舎町は存在する。閉鎖的かと問われれば否定はできない。だが、人口の増減に波が無く、長らく遠い隣町とも友好的だ。517人の老若男女は統合されたひとつの学校に、小学生と中学生を56人、何時間もかけてバスで隣町まで行く高校生や大学生が17人ほどいる。それ以外は両親世代か子を持たない同世代、もしくはそのまた更に上の代へと続いている。人口は大して変わることも無くここまできたが、100年も前には、隣町の商店街で売られる果物やら野菜やらはすべてこの町で実ったものだったそうだ。その頃は、今の倍以上の人々が血気盛んに暮らしていたというから驚きだ。そんな、日本にならよくある山々に隠れたこの町にも、周囲よりも少し早めの梅雨が到来していた。
二章『旅の終着地点』
じんめりした湿気と晴れているはずなのに、にわか雨のような香りを漂わせる中、トランクケースをリュックのように背負った見慣れぬ女性が、この町の境界線を前にゆっくりと深呼吸していた。
「田舎なら、こんな梅雨ですらいい匂いがするんだ。やっぱ東京とは違うな」
前髪をくくって三つ編みカチューシャと束にして額を露わにしたその顔は、物静かな雰囲気もあれば、活発的な瞳を持ち合わせる不思議な女性だった。町の境界には何故か石でできた大きな鳥居があった。これをくぐれば町に入ったことになるのだろうか。肩につかないくらいのショートヘアが、僅かにそよぐ追い風に揺られる。彼女はゆっくりとまぶたを閉じると、その鳥居を一歩またいだのだった。
三章『流転風景』
プラットホームに特有のベルが鳴り、乗車口前で並ぶ人々が顔を上げ始める。ゆっくりと入ってきた新幹線を眺めながら、眼鏡をかけ直した青年が地面に置いていた大きなリュックを手に持った。太り気味のせいか、腹と後ろに背負うリュックとのバランスがいい。最後尾から乗り込もうとした時、その青年は自分を呼び止める声に振り返った。プラットホームの階段を駆け上ってきた中年の男に、青年はオヤジとつぶやく。どうやら父親らしいその男は、手にしていたハンドバッグを青年に投げるとやや遠くから叫んだ。
「今日行く事連絡してるのか?」
雑に投げ渡されたバッグを、青年は掴み直すと答えた。
「まだだよ。どっちにしろ高校以来だ。覚えていなくてもそれでいいよ。これアレだろ?いいって言ったのによ」
息を整えた中年がとにかく持っていけと言っているようだったので、青年はベルの鳴る音が消えた事に気がつくと、手を振りつつ車内に乗り込んだ。
「つまらない物も、場所を変えれば価値がつく時だってあるんだ。よろしく言っといてくれ」
車窓ごしに頷いた青年は、新幹線が動き始めたのを確認すると、手を振るのを止めた。中年の男の姿は次第に遠くなって消えていく。移り変わる都会の景色を目で追いながら、青年は壁にもたれかけ、ハンドバッグを握りしめた。
四章『女王蜂』
「梅雨ってまだ終わんないのー?」
「いやまだっしょ、つか髪めんどくせーんだけど、こいつの髪さ、この季節にサラサラとかあり得なくね〜?」
「近くに雨漏りバケツみたいなのあったくね?アレぶっ掛けよーよ」
中学校側の校舎の裏で、幾人かの男女を交えた中学生グループが、1人の男子中学生を中心にして輪になっている。同級生らが時折ゴミ袋を置き場に出しに来るが、誰も止めようとはしない。ましてや仲裁に入ろうなどと考えもしないだろう。それがただの喧嘩やら言い合いやらで済むのなら、まだマシな方だった。囲まれた男子の方は何も言わずにただうつむいたままだ。これが初めてでは無いのだろう。悔しさの滲む拳をわずかに握りしめる。その周りに佇む連中の1人がどこからか水の入ったバケツを持ってきて、勢いよくその男子にかけた。冷ややかな笑い声が聞こえる中、グループのリーダー格のような男子が、横に連れ添う女子に話しかけた。
「これくらいで気がすんだろ?大石」
大石と呼ばれた黒髪の女子は、切り揃えられた前髪で、大きな瞳を隠しつつニコニコ笑いながら、まるで友達と放課後を楽しんだかのようにずぶ濡れの男子に話しかけた。
「今日もホント楽しかったね?また遊ぼうね!」
ケラケラと笑う大石につられて周りの若者たちもが、さも楽しそうに笑い始める。輪の中に座り込んだ男子はといえば、びしょ濡れになった服を少し絞り終えると、よろけて立ち上がり自分のカバンを持ち直してとぼとぼと裏門へ歩き始めた。大石はグループ内のハデな連中たちとは違って、大人しそうな、外見も普通の女の子そのものだ。だが、彼女の名前は、多分校内でも有名なのだろう。通りがかりの中学生や小学生は、その場を避けるように、放課後の帰途についていた。
五章『時計仕掛けの隙間』
古めかしい瓦屋根の家が立ち並ぶここ垣根通りには、今日ものどかに時の流れに身を委ねた店が所々に立ち並んでいる。呉服屋、蕎麦屋、クリーニング屋、散髪屋、居酒屋、文房具屋。要所要所に未だ時代の名残を漂わせるこの通りは、この町の中心に沿って続いており、人の賑わいも、祭りの時には盛んだ。だが、こんな平日の昼間にはまるで人はいない。活気が無いようで、夕方になればある程度の賑わいを見せるのだが、そんな事を予想にできないほど、今は静かな通りと化している。そうした通りの中に、ある一軒の茶屋があった。
「それでね、結局ダメになったっていうか、もう最悪なんだようちの母さんってば」
漫画の世界から飛び出してきたかのような高い声が聞こえてくる。茶葉入れの壺を畳の上で転がしながら、ポニーテールに髪をくくった女性が、そんな愚痴をこぼしながら茶屋の中にある椅子に足を乗せたまま土間の縁側に寝転がっていた。
「それ以来まだお許しは来ないんだ?」
しわがれた声がやけに楽しそうに返す。髪を団子にくくり化粧もせず老婆は扇子を手に外の雲行きを眺めていた。
「夏菜子ちゃんのお母さんは、夏菜子ちゃんが生まれる前から、そういう性格だったさ。懐かしいねぇ」
「生まれついた性格かぁ。あたしもこんな大人になるのかなぁ、ってもう今年で20歳ですらなくなるんだよね。あぁ高校生活に戻りたーい」
声も立てずに笑う老婆に、夏菜子ちゃんと呼ばれた女性は茶屋の壁にある大きな時計の時間を見ると急用を思い出したのか、デニムのショートパンツを引っ張り直すと壺を立ててから老婆にまたねと別れを告げて、サンダルを履き、小走りで通りへ出て行った。夏菜子の姿が消えるまで手を軽く振っていた老婆は、彼女の足音が聞こえなくなると、さてさてと言いながら立ち上がり、土間の奥の方で茶葉の仕込みを始める事にした。
六章『滲んだ汗の裏』
町の通りから少し離れた所には、小さなトレーニングジムがある。町でここを使う者と言えば大会出場の決まった野球チームのエースか、地元の消防署の面々か、彼ら2人くらいだ。横並びに置かれたダンベルを交互に持ち上げながら、長髪の青年と短髪の青年は互いを見ることもなく、手前に映る鏡の向こうの自分に意識を集中させている。途切れ途切れの荒い息が上がり、男だけのジム空間で異様な雰囲気を醸し出していた。はたから見れば、あまり目に優しい光景ではないだろう。いや見る者の性癖にもよるが。時間がたまたま重なっており、挨拶程度の言葉しか彼らの間では交られていない。しかし、だからと言って彼らが不仲なのかと言えば、誰もそのようには捉えることはないはずだ。いや、捉えていても良いのだろうか、そんなことはあるまい。
「今日も蒸し暑いっすね」
はじめに言葉をかけたのは長髪の青年だった。鍛えられた体は互いに同等と言っても過言ではなく、まるで同じ時期に鍛え始めたかのように、彼らの体はうりふたつだった。
「雨の翌日ほど、やる気のない筋トレはねぇよな」
初めての会話にしては、普段通りの、まるで適当な会話が友人の間でふと始まったかのような、そんな切り出しだった。2人は顔を見合わせると、互いに滲んだ汗を眺めてから、少しだけニヤついた。
七章『翌朝の出来事』
「梅雨なんてクソ食らえだ」
壊れた扇風機に粗大ゴミと書いた張り紙を貼ってから、腕をまくった男性がゴミ置場で腰を伸ばしながらつぶやいていた。誰かに問うたわけではなかったが、まぁ誰かではなくても呟きたくなった一言だった。
「梅雨だって甘い匂いがしていいじゃないですか」
だが、そんなたわいも無い言葉に返事をする者がいるとは予想にもしていなかったようで、男性は少ししわの出てきた顔を仰天させて後ろに振り返った。そんな挙動不審な振り向き顏にヘラヘラ笑いながら立っていたのは、町でも見たことのないトランクケースを背負った女性だった。
「すみません驚かせちゃいましたね。失礼ですが、桃園民宿舎って何処かわかります?」
元気に尋ねられた男性は気を取り直すと、笑いながらついてきなと言いつつ歩き始めた。女性は呑気に当たりを見回しながらその男性について行き始めたのだった。涼風が梅雨の湿気を吹き飛ばすかのように、颯然とそよいでいた。
八章『奇妙なふたり』
蒸し暑い外の世界とは反対に、少々冷房の効き過ぎなとある部屋で、ロングストレートに髪を綺麗に整えた女性がノートパソコンの前に座り込みながら呆れ顔と同時に黙り続けていたが、ようやくその沈黙を破る一言が叫び出された。
「ネット繋がらんのかい‼︎」
天井を仰ぐように金切り声を出したその女性はやや眼前のノートパソコンに突っ込むかのように手を差し出していた。そこへドタバタとどこからともなく聞こえてきた騒々しい足音に女性はこれまた呆れ気味に振り返った。そこへバンとドアを勢いよく開けて入ってきたのは、警察帽を雑に被った背の高い1人の男だった。ひょろっとしたその男はゼイゼイと息を整えながら未だにそこに佇む女性に、ようやくの思いで声を発した。
「て、てめぇ、そこで叫び声が聞こえたから、またヒステリー引き起こしたのかと思ったぞ!おい真央、聞いてんのか」
そんな警察官とは思えぬ身体能力の無さにため息を吐きながら真央と呼ばれた女性は、ネット回線に表示が皆無なまま置き去りにされてるノートパソコンをたたむとその警察官に差し出した。
「おっさん、これ返すね、てか鑑別所以来まともなパソコンいじってないわ」
せっかく綺麗にとかれた後ろ髪をワシャワシャとしながら真央はだいたいさぁと文句をこぼし始めたていた。そんな今日も始まるふたりのコントに、塀を越えた隣近所の老人が、まるで親子ねぇと和むように笑っていることは、ふたりの知るところではないだろう。
九章『夜明け前の』
暗い夜の高速を走り続けていると、秒刻みに電柱が過ぎ去っていく。目で追う間もなく、いつか見た景色に似たかの如く、そんな呆然とした空間を眺めながら、ボーイッシュな髪型をした女性が、ようやくぼやけたその視界を現実だと認識したのであった。
「ねぇ沙織起きた?」
どこからか友達の声が聞こえてくる。暗い座席の中で辺りを見回した沙織は、ふたつ後ろの通路側の席に体育座りをしてスマホをいじる声の主を見つけた。
「起きてたの?朝早いからしっかり寝てね」
そう言いながらも何故か1度目が覚めてしまうとしばらくは眠れなくなることを知っていた沙織は、少しだけ窓側に腰を移してから、夜行バスからの車窓の景色を眺めることにしていた。ほんの隙間だけカーテンを開くと、真っ暗な深夜のバス内よりも少しだけ明るい外の世界が見える。トンネルを通る回数は随分と多くなった。
「もう近いのかな」
懐かしむように、儚げに夜空を見上げながら、沙織はただただ、思いの果てでうずくまっていた。
十章『新しい住まい』
ダンボール箱の山々に囲まれながら次々と運ばれてくる荷物にある女性は笑いながらため息をつく。
「にしても今日は客が多い!」
そう言いながら笑顔で荷物を運びに来たのは梅雨の時期にもかかわらずすでに焼けた肌をする青年だった。女性は彼からそれを受け取りつつ聞いた。
「旅する劇団だっけ?私みたいな引っ越し以外に他にもやって来られる方々がいるの?」
汗を拭いながら青年は女性の持った荷物をにわかに支えつつ答えた。
「はい、劇団については俺もよくわかんないんすけどね。涼さん以外にもウチの民宿で一泊だけ滞在される方が来られるそうなんですよ、なんでも職業が女優さんだとかで。もう町内会が黙ってないっすよね〜」
涼は笑いながらガムテープを剥がしつつ中にある下着類にギョっと驚いて背中で隠しつつ青年に向かって叫んでいた。
「ちょ!ギョ!いや、関根くん!こっち見ないで!これはアウトなやつだから!」
チラッとだけみえてしまった青年こと関根は顔を真っ赤に変貌させつつスミマセンと謝りながら次の荷物を取りにかけて行った。
十一章『南星』
風が吹いている。誰かを待つ影がそよ風に揺られた気がした。刹那、何もなかった空に光が差し、反射的に見上げた深い鏡の向こう側で、星が舞っていた。永遠なんてものに価値はあるのだろうか?誰かが言った。喜べる時間も悲しめる時間も、永遠に続きはしない。だから、価値があるのだと。そんな事は誰だってどこかで気づいているに違いなかった。一匹の蝉が鳴き始めたのはいつからだろうか?その蝉に続くようにいつしか、雨雲は消え去っていく。照りつける太陽が誇りを取り戻すとき、大地がどれほど揺れ動くことか。物語には常にY字路だ。誰にも決められない自分だけの生き様がそこにはある。季節が移り変わる瞬間も、一匹の蝉が鳴き始める瞬間も、必ずそこには選択という決定路がある。自身の物語に気づくはずもない彼らの、これまでの道のりとこれからの道のりが、いつしかどこかで決定路となって繋がりあう時、その時こそ、我々は価値というものを実感できるのだろう。
十二章『一泊限りで』
「遠いところ遥々。どうぞ、さ」
トランクケースを背負った女性の前に、丁寧な手つきで出迎えたのは、身なりを整えた白髪の老婆と、その娘と思われる50代の女性だった。後ろに立っていた腕まくりの中年は、じゃ自分はこれでなと言いながら連れてきた客にウインクした。すると出迎えてくださった2人の女性が、イワ君も今日は寄って来なよぉ、と話しかけている。どうやらこの町は本当にネットワークが張り巡らされているらしい。イワ君と呼ばれた中年の姿が消えると同時にニコニコと笑いながらトランクケースを背負ったままの女性は2人に深々とお辞儀をすると言った。
「この度は一泊限りではございますが何卒、よろしくお願いします」
それに瞬時に応えるかのように2人の女性があらやだと笑いつつ身だしなみを整えてからしっかりとお辞儀を返した。
「松岡さんね、ご予約は随分と前から承ってますよ〜。狭いところですが、実家に戻ったように使ってもらって構いませんからね。松岡さんだから、まっちゃんかな??」
身だしなみがしっかりしているにも関わらず何故か親しみのわくその女性たちに松岡ははい!と元気よく答えた。じんめりとした部屋の中はどこも梅雨の時期は変わらないが、それでも、松岡には懐かしく思えるほど、桃園民宿舎に借りた新しい自分の部屋を気に入ったのであった。
十三章『群像路線』
いつからだろう。気がつけば、電車から見える景色は灰色から緑色へと変わっていた。新幹線を降りてから青年は見た目にそぐわぬ軽やかな足取りで階段を駆け上ると、ローカル線に乗り換えた。それからというもの向かい合う席に1人座りながら、青年はのんびりと流れ行く風景に目を移し、夢うつつに時間を過ごしていた。
「切符を御拝見してもよろしいですか?」
野太い声が聞こえてから青年は驚きつつ目を覚ました。今の時代においてまだ切符の拝見などがあるのかとやや感心しながら青年は胸ポケットからパスケースを取り出し、その中から切符を出して車掌に手渡した。
「あっちはこの時期が一番蒸し暑いですよ」
苦笑い気味に青年はそうなんですかなどとトボけつつ印の押されたその切符を眺めていた。喧騒としたあのビル群の街並みからはまるで世界が変わったかのように、窓を開けると、そこには青臭く前日の雨で独特の香りを漂わせる何かがあった。青年は目を細めると、その空間を堪能した。いったいどれくらいの年月が経ったのだろうか。いや、どれだけの物語を読み終えたのだろうか。ふと、臨場感という次元を超えた不思議な浮遊感を青年は感じていた。にしても蒸し暑い。そう言いながら気だるげに汗を拭うと、窓を全開にした。遠くの空で雨雲が唸っていた。
十四章『巣穴の綻び』
知らないうちに、だろうか。ふと気がつけば、息を荒げて自分は走っていた。ゼェゼェと追い込みをかけられるように、肺には空気が届いていないようにさえ感じる。喚き立てるわけでもなく、少年はちぎれんばかりに鞄を振り回しながら走っていた。ああ、どうして、誰も気がつかないんだろうか。びしょ濡れの制服はいつの間にか乾いている。不思議と涙は出ないのに、どうしてここまで我武者羅な気持ちになってしまうのだろうか。少年は北東に位置するあざみ野中学校から走り続けて橋を渡り、延々と続く田んぼ道を息を切らしながら走った。その脳裏から離れない彼女の微笑を、少年は恐怖とも捉えず、憎しみにも捉えず、ただその顔に潜む闇を、憂いていた。遠くの家の前で手を振る少女がいたが、気にもしなかった。どこまで自分勝手になれば気がすむのだ。少年は自身が疲れているということさえ忘れてていわみ野へ瓦屋根の町通りに入っていった。汗の雫がやたら目に入る。少年は目を拭おうとするが、まるで泣いているとも思われかねないその動作を気にして、何も手は出さなかった。角を曲がって次の小さな裏通りをかけて行く。この辺りの地域でも珍しく石でできた塀を飛び越え少年は、降り立った芝生をゆっくりとしゃがみつつ歩き始めた。裏口から入れば、いつ自分が来たかさえもわからないだろう。少年はすっかり乾いた制服を上だけ脱ぐと、芝生から小池の小さな石畳の通路を通り抜けようとしていた。ふと口から滑るように、少年は小さな声でつぶやいていた。
「それでも好きだったんだよな」
それは幻聴か、はたまた少年が正気を失ったか、というはずはなかった。だから、誰にも聞こえないからと、ふと呟かれた言葉に過ぎなかった。だからこそ、少年はその一言を一生、悔やむこととなった。
「若いねぇ、孝大くんは」
「どぅわぁ!!」
思わず踏み外した先には、間の抜けた鯉の面と池があった。裏口前にある小さな庭で、その年一番の水しぶきが上がった。
十五章『茶屋の主は語る』
「それで、先程かけて行った女性は?」
梅雨も明けぬ蒸し暑いこの夕方に、熱湯をカップ麺に注ぎ込みながら、客はにじむ汗を拭きつつ老婆に問うた。
「夏菜子ちゃんかえ?ああ、そうさねぇ、生まれも育ちもこのいわみ野のお嬢ちゃんよ。都会に憧れちゅうことはよう知っとるけ、けんど、この町が大好きなんやろねぇ。20歳を過ぎてもまだあの元気は消えてないわ。なんえ、惚れよんけ?」
ニンマリと笑って聞いてきた婆さんに客は苦笑しながら手を振った。
「まさか、よりによって旭婆さんほどの人間から聞く質問じゃないですよ。それにしても20歳を過ぎてるんですねぇ。まだ中学生か高校生にすら見えますよ。働いているようにも見えませんし」
客の呟きに旭婆さんと言われた老婆は、音もなく笑い終えると、若いんだろうねぇ、まだ模索中さね、と時計を眺めつつ語っていた。客もまんざら興味がなくも無いようで遠くを見つめていた。そんなのどかな茶屋からの風景を眺めていると、どこからともなくかけてくる足音が聞こえてきた。客がおやとつぶやく間もなく茶屋の前の通りを、勢いよく走り去っていく少年の姿があった。
「何事ですかね?この町はやたら走る若者が多い」
客の笑い気味の質問に旭は、あれさね、と答えていた。
「若いって、走らずには耐えられないものが、幾度となくあるんだろうねぇ」
ふと気がついたように客は聞き返した。
「なるほど、ところで旭婆さんって一体いつからこの町に来てるんですか?噂じゃこの町の住人で旭婆さんを知らない人はいないんだとか、まぁこの自分もあまり詳しい者ではないんで、言えたもんじゃありませんが」
旭はその言葉をゆっくりとうなづいて聞き終えると、茶葉を仕込む手を止めてから、口を開いたのだった。
「まずは、この町にかつてあった言い伝えから、だろうさね」
十六章『色違いの人間』
あざみ野は町外れのトレーニングジムに、2人の男が並ぶようにしてベンチに座っていた。珍しく消防署の連中のいないこのジム空間では、にわかに新鮮な空気がある。タオルで汗を拭いながら短髪の青年が長髪の青年に話しかけた。
「君たしか、いわ高の子だったよね?」
少々猫背気味な長髪の青年は、その高校名を聞いて驚いたようにうなづいた。
「知ってんすか?いわみ野高校を?」
聞き返された短髪の青年は少し思い出すかのような表情を作ってから答えた。
「もちろん。この町の北東にあるあざみ野小学校とあざみ野中学校、そして南西にある、いわみ野小学校と、いわみ野高校。今ではいわみ野の学校はすべて廃校になり、小学生たちは、あざ小に統合されたんだよな。けれど、いわ高の生徒は、だいぶ遠い隣町に行かなきゃならなかったんだよな」
随分とペラペラ出てくるこの町の学校話に長髪の青年はにわかに苦笑いをするかのように相槌を打って返していた。
「この町に新しい人が1年ほど前引っ越されてきたのは知ってましたが、すげぇじゃないすか。俺も少し忘れかけてたところでしたよ、岡本さん、でしたっけ?」
互いに笑い終えると、長髪の青年は短髪の青年に話しかけた。
「ああそうだ。よろしくな、と言ってももう顔見知り過ぎるけどな」
「ですね、すみません。自分のことは裕翔って言いますんで、よろしくお願いします」
2人の1年間続いた無言のジム生活が、なんとなしに始まった会話によってようやく終わりを迎えたことは、ここでしか語られない事実である。
十七章『客のまにまに』
「いいのにそこまでしなくてもう、旅疲れもあるだろうし」
台所の方から奥さんの声が聞こえていたが、そんなことを松岡は気にしていなかった。むしろそんな疲れなど無く、ようやく始まったこの田舎での新生活に終始ニコニコしながら、桃園民宿舎の手伝いをこなしていた。
「これで終わりです!手間かけちゃってすみません!って奥さんこのおそうめんいただいていんですか?息子さんの分も残しておかないと」
いいのいいのお腹すいたでしょうに、食べたい時に食べておきなさい、どうせ孝大が帰ってきたら食べてしまうからねと笑顔でご褒美をくださる奥さんに感謝しながら松岡は氷の入ったそうめんとつゆを両手に少し部屋から離れた一階の縁側に持って行った。長らくの夢だった本物の縁側に無言でギャァと興奮する松岡は、夏の風物詩たる風景そのものだった。そうして、縁側に座り込むとなんだか梅雨の空も悪くないと思い始める。不思議と風は涼しく、地面はにわかではあるが、乾き始めていた。もう少しで、この梅雨が終われば、夏がくるのだろか?そう考えながら松岡はのんびりとした空間で、広い縁側で箸を手にした、その時だった。落ち着いた庭の片隅でゴソゴソと物陰から出てくる影があった。その影は風景に溶け込む松岡に気がつかないせいか、裏口から入ろうという魂胆らしい。その影が唐突にボソリと呟いた。
「それでも好きだったんだよなあ」
笑えるのを堪えようとしながら、松岡はそれでも何か不思議な独り言のような気がした。気がしたために、とうとう声をかけてしまっていた。
「若いねぇ、孝大くんは」
突如としてその陰である、この桃園民宿舎の息子である孝大は、高らかに庭の池に飛び込んでいた。大きな水しぶきが、虹を作り上げていた。
十八章『守り神』
中央鑑別所からの出所は、彼女にとってのリセットされた空間だった。一時期、世間を騒がせた怪盗集団に、彼女はいた。奇怪な犯罪を起こす彼らの砦は、ネットワークにおける彼女の存在が不可欠だったのだ。だが、法の前においては、どんな正義も意味をなさないことは、承知の上だった。彼女は綺麗に整えられた前髪を少し風間になびかせながらふと、少しだけ過去を思い出していた。正しいと思えることが、なぜ悲劇を生むのだろうか。遠くの空に、見たこともない雨雲が迫っていた。
「今週にかけてが最後だろうな」
同じ方角を見上げていた警察官が気だるげに呟く。ふんとそっぽを向きながらも隣で歩き続ける彼女はそれとなく返してみた。
「赤城のおっさんはさ、いつまで私の監視を続けるつもり?ほっといたって何もしないってもうわかったでしょ」
後ろ髪が長いのに、乱れていないのが不思議だと、この町唯一の正規交番勤務である赤城は考えながら、自転車を押しつつ答えた。
「何もしない?バカ言うな。一体どんだけデカイ社会現象巻きおこしときながら、どの口が言えてんだよ。俺がこの町を守る、そんだけの仕事だ」
「守るって、それこそバカでしょ。守ったって泣く子はいるし、行方不明者だっていないはずないじゃん。第一さ、こんな小さな町なら、私だって普通に住めるの。もう誰も私の過去を知る人はいない、おっさん以外はね」
「ここは辺鄙な町だ。人も少ないし、事件すら聞きやしない。簡素なのに何故かみんな恵まれて暮らしている不思議な町なんだよ、ある意味では、この町の秘密さえ知れば、俺は守り神になれるかもな?」
冗談にもない事を言うペテン師に、彼女は笑いもせずにサイテーの守り神とだけ返しておいた。風向きが変わらないのは、何かが迫っている予感でしかない。赤城の武勇伝を受け流しながら、彼女はただ空だけを見つめていた。
「ところでおっさん、なんであざみ野に行きたいだけなのについてくんの?変態」
この町の南西に位置するこの町一の田舎であるいわみ野から歩いてあざみ野に向かう彼女は、嫌味を含めて赤城に聞いた。
「先週も言っただろ、今年もこの町で町内会の催し事があるって。それがな、今年は演劇なんだとよ、町の守り神としてここはしっかり手伝いに行こうと思ってな。どうだ、お前さんも来ないか?」
「行くはずないでしょ、だいたい去年そんなものあったけ?どうでもいいけど私は巻き込まないでね、いつだったかホワイトクリスマスイベントとかバカ騒ぎして、神楽さんとこの大木を飾るって言い出して私が骨を折る羽目になったのよ」
2人の会話が聞こえてくると、町を行き交う住人はひとまずは安心して見守っていた。それがこの町が今日も平和であることの象徴のようなものだという事を当人たちが知ることは、今のところ皆無であろう。守り神の正体は未だ彼らの知るところではないのだ。
十九章『旅する脚本家』
バスが到着するのは、その日の早朝の予定だった。が、沙織たちは昨晩の大雨により、土砂崩れが起きた地方を避けて遠回りをすることとなってしまったのだった。それにより大幅な時間がとられた一行は夕方になってようやくこの町にたどり着いたのである。荷物を運びに町中から僅かだが若者が集まってきてくれていた。沙織は町内会の方々に挨拶に出向くため1人町役場まで歩いていた。
「しばらくは帰れない…か、梅雨さえ終われば盛大にこの夏が味わえるってのに、にしても蒸し暑っ」
ひとり呟くことしかできずにただ歩いていた沙織はそこで、誰かが向こうから手を振っている事に気付いた。だが、ふり返すのも変であり、そもそも自分ではない誰かに手を振っているのだろうと、後ろを振り返りさえしたものの、沙織の後ろには人影も見当たらず、どうしても、気になって仕方ない。思わず手を振ってみようとも思ったが、そこまできて別の誰かであったとなればこれもまた居心地が悪い、というよりかは羞恥心が勝ってしまうときた。沙織は、ヤケになって無視を貫き通す事にしておいた。それにしても不思議な町だと沙織は感じていた。対して大きな町ではないにもかかわらず、割り増し、人の活気様は盛んだ。高校卒業以来、演劇の道を進んでは様々な町を見てきたが、未だ自然体で付き合ってくれる町の住民などあまりいなかったからだ。沙織は気を持ち直すと、今後の予定について考える事にしたのだった。
二十章『揺れる風鈴は』
「ねぇ関根くんはさ、兄弟はいないの?」
リビングに散らばる段ボール用紙を片付けながら、関根は涼の言葉に少しだけ手を止めた。そんな姿を見た涼はすぐに話題を変えようとしたが、関根はいますよと元気に答えた。
「弟がひとり。まぁあんまり会わないんで、気の合う兄弟ではないんですけどね。そんなこと言うなら、涼さんこそ、いそうですよ?」
私が?と不意をつかれた涼は、荷物を地面に置くと少しだけ考えながら口を開くのだった。
「もともと私のお父さんはね、私のお母さんと結婚する前後に、他の2人の女性と結婚しててね、3人目の女性には結婚以前から亡くした夫の子供がいたんだけど、自分の子供はいなくてね、はじめに結婚した女性には3人姉妹がいたんだ。そしてね、ここからが不思議な巡り合わせになっていくの」
楽しそうに話し始めた涼の、綺麗に整えられたショートへアを眺めながら、関根は自分の作業の手を止めてその話を聞き始めた。彼女がこの家に今日引っ越してきてから、随分と長い時間を関根は涼と過ごしていた。彼女がここに来てはじめにこの家の窓に飾った風鈴が、涼しい音を奏で続けていることが、唯一の救いだったか、弟の話を伏せながらも、関根はただただ笑顔で話し始めたこれまでに、吸い込まれるように聞き入っていった。部屋が違うのに、向こうからは時折、風鈴がチリンチリンと音を響かせていた。
二十一章『北風』
雨粒が紫陽花の花びらをつたっていく。カタツムリがのびのびと目を伸ばし、灰色の空を追うようにして向きを変えていく。寒いかぜが吹き始めていた。あの蒸し暑い湿気に囚われたような空気がどこからともなくやってくる風にかき消されてゆくようだ。けれど、そんな伝言は誰からも聞いてない。誰から聞かずとも、どこかでわかっている。そんな気がした。町に息づく時間が羽を伸ばしている。記憶のない、時のないこの山々の中で、人々の言葉がひとつになる時、この町の選んだ答えが、未来を決めてゆくのだ。影に身を潜める存在が風に身を委ねるとき、ようやく、世界の目はさめる。
二十二章『梅雨の住居人』
雨雲が遠くに見える仁乃山を覆い始めている頃、乾いたタオルを手渡されてもなお、孝大は黙っていた。松岡はのんびりと、縁側でくつろぎ、孝大のいる部屋へはまだ行かないことにしていた。氷の音がして振り返ると、カランコロンと冷えたお茶を手に奥さんがごめんねぇとやって来たのだった。松岡は礼を言いながら話しかけた。
「孝大くんは、いつも裏口から?」
笑いながら奥さんは答えてくれた。
「まさか!けどね〜、こんな町にもガラの悪いヤンチャな子たちがいてね。多分、孝大も、今は闘ってるんだろうね」
「奥さんはご存知なのに、いいんですか?」
「ふふ、まぁ少し変な親かもしれないけど、私たちは子供の世界を大切にしたいと思ってるの。それって、もう私たちが忘れていった何かじゃないのかなって…あ、まだまっちゃんは若いわよね!」
「いえいえ〜私もなかなかですよ?しょっちゅう育ての親と理解しあえずに喧嘩ばかり。だから、親には親の、子供には子供の考え方と世界があるんだろうなぁって、何気なく思ってたりしました」
2人の会話はずっと続いていた。ほんの少しだけ、遠くの空に黒い雲が見えた。松岡は雨だなと予感している。奥さんはというと、孝大の話をそっちのけで女優について話しかけてきていた。松岡の本業が女優であることは、もはや町内の周知の事実なのだろう。松岡は改めてそのネットワークの素早さにやや驚きつつも、気分転換となるこの旅で自分を変えようとしていたのだった。
二十三章『雨、そうそう』
豪雨の中、列車が走り続けていた。雨の日ほど、室内の雰囲気が何故か楽しく思えてしまうものだ。太り気味の青年は持参していた大きなサンドウィッチをたいらげると車窓に打ち付ける大きな雨粒を眺めていた。一粒の雨が降りたった刹那、すべては、一瞬だった。先ほどまでうんと晴れ渡っていた空は何かを境とするかの如く大雨に変容していたのだ。眠気をこらえきれずに眠っていた青年はというとその雨音に眠気が飛んでいき、気がつくと間食にとリュックの中にある食べ物全てに手をつけていた。車窓の向こう側には雨霧によってほんの先まで見渡すことができなくなっている。青年は随分と降ってるなぁと呟きながら水を飲み干した。車内はどんよりしてはいたが、どこからともなくくる冷房に救われていた。
「どこまでおいきで?」
しわがれた声が聞こえ、青年は通路をはさんだ隣の向い席に座る老人に軽く会釈してから答えた。
「終着までですよ。そこからは山越えのバスにね。お爺さんは?」
「ならワシと同じやの。終着駅に孫達が待っとるけ。この辺りの人間か?」
「いやいやまさか。夜明けから都市を出て新幹線やら特急やらを経てようやく昼の今に至りますよ」
苦笑しながら説明する青年に老人もゆっくりと笑い返していた。
「里帰りかえ?」
不意に突かれた設問に青年は、少しだけ笑うのを止めると向い席を眺めながら答えた。
「里帰り…になるんですかねぇ。元々はある町に住んでたんですけどね?高校が遠くにある別の町に統合されて、友達も先生も散り散りになってしまったんですよ。今日はその町に向かってるところなんです」
老人はしっかりと頷きながら、青年の話に見を傾けていた。車窓の向こうには大粒の雨がいつまでも振り続けていた。
二十四章『まぶたの裏に』
「馬鹿野郎!何やってるんだ!」
「離してよ考大くん!もう何も変えられないのなら、今こうするしかないの!」
「そんなことしても傷つくのは大石じゃないか!」
乱れ合う二人の体が互いを牽制する。止めようすれば必ずどこからか手が出ては、我武者羅な喧嘩のように互いの服をつかみ合い必死に睨み合う。ともに小柄な体型の大石と考大は、双方の力にまだ差の出ていない年頃のせいか、未だ決着のつかぬ決闘となっていた。だが、考大の右腕がサッと大石の持っていた包丁を奪っために形勢は一気に逆転となった…はずだった。
「あんたたち、何やってんの…?」
顔貌を蒼白にした二人が振り返った先には一人の女性が闇夜に立っていた。沈黙が残酷なまでに長く続く。大石が腰を抜かして地面に崩れながら呟いた。
「…お母さん」
考大は思わず叫ぶかのように飛び跳ねるとベッドの上から上半身を起こした。落ち着いて!とベッド横で松岡と関根が背中をさすってくれている。何が起きていた?ゼイゼイと息が荒いのが自分でもわかる。現状把握にしばらく時間がかかった。悪夢だ…。
「かなりうなされてたよ?考大くん」
土砂降りの雨が窓を打ち付ける中、前日一泊限りでここ桃園民宿舎へやって来たはずの女優こと松岡が、心配そうに考大の顔を見つめていた。その隣ではこの民宿舎でお手伝いさんとして働いてくれている高校三年生の関根も同じような表情を浮かべている。
「だ、大丈夫です。すみません」
考大は頭を抱えるように額に手をおいた。よほどの悪夢だったのか、あまり覚えてはいないが、額には汗がしたたるように吹き出していた。関根が薬とお茶を取りに行くと、松岡は考大のベッドの足元に座り込み、ゆっくりときいてきた。
「悪夢、だよね…。ずっとそうなの?」
考大はいいえと首を振りそうになり、うつむいてしまった。この町には、見えない空気ばかりが漂っていて、生きた心地がしない。それはあえて誰もが言わずに日々を暮らしているからに過ぎなかった。だから、見ず知らずの他人に、考大は口を開くことにしたのだった。
「…もう五年も前の出来事です」
二十五章『老婆と神隠し』
旭は坦々と語り始めていた。客が時折頷きながらその話に耳を傾ける。
「というわけで、元々この町は2つになど別れとらんかった。いわみ野とあざみ野に分けられるようになったのは、ほんの十数年前に過ぎないんやね。私が生まれた頃は野原ですらなく、小さな山々に囲まれた村でしかなかった。それもまた時の流れによって多くの物語が受け継がれていき、今に至るんじゃ。産婆としてまだこの町の役に立てとるんわ、彼らのおかげでもある」
なるほど、と客はゆっくり嚙み砕くように答えるとしばらく黙っていた。旭は懐かしいさねぇと呟いている。客はそういえばと問いた。
「そういえば、はじめに話してくださった物言わぬ人影とは、やっぱ遠くにしか現れないんですよね?」
「私らはやはり近寄ることはできなかった。いわゆるこの町の神様と呼ばれる原因だったろうさね」
「神様…か、そんな人影がこの町に古くからある言い伝えとどう捉えられてるんですか?」
「この町には、外側の世界とつながる線を持っていない。電車は通らない。バスは町内バスのみで、この町につなげてくれるバス会社などは当にいなくなった。外側行きの整備された道路なんてものは昔からない。そんなこの町に唯一どんな世代においても共通するのはその人影が私らの中に紛れて、すべての人々を見守ってくれているってことさね。地脈も、縁結びも、人知れず姿を人に変え、何気なく歩いている。出会った人間は遠目にしかわからないだろうけど、その姿を見た後に、忘れた頃になんとなく思い出すそうじゃ、ああ、あれが神様だったのだと。人影様だったのだと、な」
客は納得するように頷き、遠くの空に見える雨雲を横目で見ていた。
「遠目にしかわからない、けれどわかってしまう。もしかすると、その人影…つまり神様は、案外近くにいるかもしれないということになりますよね、不思議な話です。これまで、様々な言い伝えやらを聞いてきましたが、身近にいる神様とは初めてですよ」
「上川さんとこの息子さんだろ?あんたもここに戻ってきて1年になるんだから、こんな老いぼれとではなく、同じ若者たちと時間を過ごしんさい」
わかってますよと笑いながら上川は答えていた。
「それじゃ自分はこれくらいで、去ったと思ってはいたが、どうやらそろそろ大雨になりそうなんでね。色々と聞かしていただいてありがとうございました。旭婆さんも身体に気をつけてね、それと、俺が話した夢もまたしっかり報告しますんで」
「わぁってるよ、楽しみさね」
ゴロゴロと雷が聞こえ始めた町の中を青年がゆっくりと消えていった。その背中を見送り終えた旭は茶屋の戸を閉めるとすっかり冷え切ったお茶を飲み干した。
「この町の人間が…取ることのできなかった責任を、取りに来たのかね…」
二十六章『結んで開く』
岡本はジム仲間である裕翔と別れてから1人ジムに残って着替えていた。まだ昼前であってやけに腹が減っている。そんな事を悟ったかのように胃が鳴った。窓がバンバンと風で音を立てているのは、もしかすると雨の前兆のような気がする。岡本はそう考えながらむさ苦しい部屋を出ようとした、が、まだ部屋の隅で1人ベンチプレスを続けている男がいたため、鍵だけ残しておきますよと、言い去ろうとしたが、それは止められることとなった。1年も前から自分や裕翔と同じように通い続けているその青年が、かなり変わっていたからだ。
「気がつかないうちに見違えたよ」
岡本は感嘆しつつ口を開いた。それを自分のことと認識したのか、ベンチプレスをゆっくり下げ終えた青年がいやいやと汗を拭いながら立ち上がる。
「岡本さんがそれを言いますか?俺なんてまだまだですよ」
「いや、俺たちも続けてるが、まさか同じ部屋で黙って続けてた君は凄いよ、その変化が。あれから1年も経つんだな」
そうなんですかねぇと褒められたことを気にしてか半分ニヤついている青年を見ながら、岡本はそういえば何故この青年は1年ほど前に、この町へ来たのかと疑問に思った。それを悟ったのか、青年は岡本に言った。
「岡本さん、自分今から旭婆さんの茶屋に用事があるんで、そこまで一緒に帰りませんか?」
二十七章『言わ猿』
「ねえ!一泊する女優さんって来たの⁉︎」
バンと盛大に音を立てて玄関から走りこんできた夏菜子に、美しく着物を着込んだ祖母がメっと叱りを入れてる。
「あなた今日一日中どこほっつき歩いていたのよ!母さんと喧嘩中だからってね、店のお手伝いを関根くんだけに任せてぶらぶら外に出るのはダメよ!」
「えーっと、小夜川のあざみ野河川敷で岩場さんとこのお孫さんたちと遊んでから、昼からは旭婆ちゃんとこでのんびりして、そんでから泊まりに来る女優さん思い出したから、お迎えに行こうと仁乃神社の向こうにある鳥居まで行ってきたんだけどね、ずっと待っても来ないからもうこっちに来てるんだって気づいて急いで走ってきた‼︎」
ペラペラと語られる早口言葉のような今日一日の出来事を祖母は、はぁとため息まじりにそちらにおられるからご挨拶に行きなさいとだけ言っておいた。
バンと盛大に開かれた襖がにわかに危ない音を立て広い縁側と繋がった広間の静寂を打ち破った。ここ桃園民宿舎の奥さんである自分の母親が祖母のような諦め混じりのため息を吐いていた。だが、その横にはどこか懐かしい可愛さを持つ女性が足を崩してこちらにややビビりつつ笑っていた。
「あなたが私と同い年の女優さん⁉︎」
「松岡です、よろしくね夏菜子ちゃん」
気のせいだろうか、夏菜子は何かの声と重なり頭痛のような痛みが一瞬だけ襲った。一瞬…だけだったはずだ。そんなことはどうでもよく、夏菜子は呑気にスゲェ本物か!と叫びながらさっそく自分のシャツにサインを求めていた。苦笑い気味に松岡が私有名じゃないよ?と呟きながら結局サインしていた。そんな光景に、奥さんはどこなしに感慨深い眼差しで見つめ続けていた、が、ポタリと手に落ちてきた雫にふと上を向いた。
「あら、雨ね」
松岡はいよいよかとだけ呟くとサイン入りのシャツを見ながらえくぼを作る夏菜子を横目で見つつ、長い旅になっちゃうかもねと、心の中で囁いた。
二十八章『豪雨のご挨拶』
大粒の雨がひとしきり降り続ける土砂道を2人の影が走っていた。片方のズボンは当に泥まみれで洗濯するのにも躊躇うほどの汚れ様だが、片方はというとサンダルにミニスカートだったためか被害はひどくなかった。
「こんなの聞いてないんだけど!」
走りながら真央は大声で横にいる町交番の赤城に怒り混じりに聞いた。だが赤城も今回は黙っていられないようで大声で怒鳴り返すように返答した。
「知るか!こっちが聞きてぇよ!というか大雨すぎて前が見えないぞこれ!今どこだ!」
「はぁ⁉︎この町の中央交番が何言ってんのよ!この町の地理くらい覚えててよ!」
罵声混じりに飛び交う会話が続く中、真央は走り続けている一瞬、何かとすれ違った気がした。ふと立ち止まり大雨の中、数メートル先まで見えない砂利道に消えていったはずの何かを眺める。
「今の何…?…影」
「おい急に立ち止まるな!…どうした?」
ザアザア降りの灰色の世界で、2人はどこでもないどこかを探していた。そんな2人の耳に走っていた方向から人の声が聞こてきたことは今になって思えば幸いだったと思う。
「あ、ちょ!誰かいるよ!ユッコ!聞かなきゃ!」
とも思ったが、大して喜べる状況でもないようだった。どうやら向こう側にいる人間たちも現在の位置を把握できていないようだった。躊躇いがちに真央は赤城と灰色の世界の向こうに歩いて行った。すると、なんとそこには傘をさしてこっちに手を振る何十人もの人々がいたのだった。
「あんたら、誰?」
真央が仰々しく問いかけた。すると幾人かがこちらにやってきて第一声を放った。
「私たち、今回の町内会での催し事に参加させていただく演劇の劇団です。本当に申し訳ないのですが、団長である沙織って子が行方不明で、挙句にこの土砂降りで私たちもこの駐車場から動けない状態なんです!」
何はともあれ、あ、ここ駐車場なんだ、と真央と赤城は安心していた。ここは既にあざみ野だった。
二十九章『霧の向こうに』
「昨日で大雨は去ったんじゃないの⁈」
誰もいない土砂降りの雨の中を行方不明者として扱われている沙織がくしゃみをしながら走っていた。先ほどまで普通の住宅街を進んでいたはずなのに今ではほんの数メートル先も見えない灰色の世界に変わっている。蒸し暑いこともあって軽い格好でいた沙織は自身を恨んでいた。なんたる寒さ。太陽も陰りを指すと気温が一気に下がったようだ。駄目だ、本当に迷ったかも。そう沙織は呟きながら、とりあえずはどこか雨宿りできる場所を探し当ててそこに入る事にした。シャッターの閉じられたどこかの店の屋根の下で、ずぶ濡れの服を絞りながら沙織は今更ながらに地面がアスファルトの道ではなくなっている事に気づく。あぁあ、止むまでは道もわかんないや。圏外表示の携帯をぱかっと閉じた沙織は深くため息を吐く。だが、同時に少し離れた屋根下の端からも同じため息が聞こえた。若干ビクッと驚きつつ沙織は見えない雨霧の向こうにいるはずの人影に、聞こえるくらいの声で話しかけた。
「あの…?雨、酷いですよね…」
酷いのはそのコミュ力の無さだと沙織は自分にツッコミを入れていた。だが案外向こう側からは野太くしっかりした男声が聞こえてきた。
「あれ、誰かおられたんですね。気づかずにすみません」
「あいえ、あの、申し訳ないんですが、こっちには来ない方が個人的には嬉しいです、えと…服が」
そう言って沙織は自身の大雨によって下着がもはや透けてしまったシャツを見ながら顔を赤くしつつ、こちらにやってきてくれようとした男性を止めた。男性の方はというと事情をなんとなしに察したのかすみませんとだけ言って元いた位置へ戻ってくれたようだった。それだけ言ってもなんだか気まずい雰囲気しかない沙織は一生懸命記憶を辿りつつもう一度同じことを言った。
「あの、雨が…やっぱ酷いですよね…?」
やっぱコミュ力ねーよ私。
「ええ確かに。大雨は去ったと俺も知り合いから聞いていたんですけどね、自分の勘が当たってしまったっぽいです」
うるさいくらいの豪雨の中、見えない雨霧の壁に、2人がのんびりと会話を始める。向こうの声は大雨のせいかやたら途切れ途切れにしか聞こえなかったが、言いたいことは伝わっていた。沙織は誰とも知らぬ向こう側の存在がいるという事にどこか安心してぼーっと外を見つめていた。
三十章『車中温、上昇中』
ワイパーが千切れんばかりに左右へ水を弾き飛ばしている、が、そんな事を気に留めずに大粒の雨がフロントガラスを打ち付けていた。
「こんな事までしていただいてすみません」
「いいのいいの!第一こんな土砂降りでまともに傘一本じゃ帰れないっしょ。関根くんには今日引っ越しを手伝ってもらった恩もあるしね〜、あ、ここ右折?」
「あはい、右折して次は左折で」
涼は数メートル先まで見えない雨霧を徐行で車を進ませていた。関根はチラッとだけ横目で涼を見る。容姿の端麗さとは裏腹にどこか妖艶すら感じられる瞳が、19歳の女性とは思えないほど美しく見えた。この人は呑気なのか、ただ悪魔のように優しいだけなのか、ひとつ歳が違うだけで、こんなにも差が出るものなのか?関根はなんとなしに自分の未熟さというかガキな部分を思い知ったような気がしてますます何も口に出せなかった。でも話さないとこの雰囲気は持ちようがない気もする。
「す、涼さんは、どうしてこの町で一人暮らしを始めたのですか?」
「うーん?あぁ、なんだろうね。思い入れがある町っていうのかな、けど両親もお姉ちゃんたちもこの町とは縁もないわけだし、ううん、お父さんか。不思議な夏を過ごしたことがある、って感じ?この町でね」
涼はいつもののんびりとした表情から少しだけ遠い目に変えて呟いた。ワイパーの音だけが激しく擦れる音が聞こえている。気のせいか、関根の緊張した心情のせいか、2人だけの車内は少し暑い。冷房が効いていないのか? はたまた効きすぎておかしくなったのか?
「お父さん、ですか?でももう随分と前にお亡くなりになったんじゃ?」
「それよりもずっと前のことよ、あれは、多分13年前だね。そうかぁ、もうそんなに…」
関根は、父親というキーワードで失言だという事に気づき、車が桃園民宿舎に着くまでそれ以上の深い入りはできなかった。この町の住人にはこの町に住み続ける理由が多い、そう思っただけだった。関根は心の優しい青年だ。やさぐれ、人を傷つけてばかりの愚弟とは違うとよく住人から言ってくださるが、そんな弟でも、関根にとっては立派な、けれど近づき難い弟であることに間違いはなかった。今しがた、運転席でのんびり他の話にふける女性に、そんな聞いてはいけない事を、自分が弟の話をされるような、そんな事をしてしまったような気がして、なんだか、情けなかった。
三十一章『西陽』
夕暮れと夕闇の隙間から西陽が差していた。どんなに時間がたっても、変わらない景色がある、そう思うとするならばその景色はまさしくこの瞬間であろう。人が行き交う世界も、人影ですら見当たらぬ世界でも、陽は昇り沈む。変わらぬものの価値と変わりゆくものの価値は等しく人間の奥深くに眠っているのだろう。雨がやまない日が続いても、彼らが求めるものを求め生きていくように。わけもなく涙を流す黄昏時に人がどこか寂しくなるように。それもそうだと誰かの呟きが聞こえた、気がした。なんだか、気がするって気持ち、寂しい。ああ、これが…かたわれ時…。誰そ彼、世界が…ぼやけていた。
三十二章『雨時々、紫陽花』
予想を超えた豪雨により、この町から出るための道路がもとより整備されていない獣道であることから、どうも土砂崩れが起きていたようで、地盤が緩いあいだはしばらくこの町からは出られないとのことだった。その先にあるバス停留所もどうやらこの1週間は運行を見合わせているようだ。松岡は事務所に連絡をいれるとこの際にと長期の休みを取ることにしたのであった。
「本当に申し訳ございません、自分も働くので何かあればどんどん言ってくださいね?」
やっぱりあなたは夏菜子とはえらく違うわぁ、こちらこそよ?ありがとう、と奥さんと旦那さんから言われながら、松岡はこの桃園民宿舎での帰宅未定の滞在を始めたのであった。
「とは言ったものの、特別覚えてくださっているのは、奥さんたちくらいなのかな…何も言うことはなかったけど」
豪雨の夕方から幾日かが経て翌朝にかけては色々あった。孝大が池に落ちたり、夏菜子に何枚ものシャツにサインを書かされたり、お手伝いさんの関根が見たこともない可愛らしいお嬢さんと玄関を開けてやってきたり。孝大に関しては、彼の過去とその悪夢にうなされる理由も、何となしに聞かせてもらった部分だけを読み取れば、それはトラウマだとしか言いようもなく、何だか知らないうちに時間が進み過ぎてしまった浦島太郎のような気分だった。朝よりは少し和らいだ雨の中を暑さ凌ぎに松岡は傘を片手に散歩していた。だが1人でいればいるほど考え事が増えそうな気がして面倒になってくる。気のせいか腹立たしくもなってきた。一泊だけこの町を見るだけだったはずが、逆に逃げられない状況の方が言葉としてあっているだろう。人間関係とか、優先順位とか、そういものを1度さらぴんに戻してから立て直してみたいが為にやってきた今回の旅だ。大粒の雫が道路脇に連なる紫陽花の花びらを伝っていた。松岡はふぅとため息のような息を吐きつつ呟いてみた。
「なんで雨の日は憂鬱になるのかなぁ…。こんなに空気がいい場所なのに…神様も意地悪だなぁ」
「あぁあぁあ!病まないったら止まない!病まなければ止むものも止まらなくなるでしょ!」
思わず声をあげて驚いた松岡の前に、1人の少女がケラケラと笑いながら立っていた。
「だ、誰?病んでるわけじゃないんだけど」
あれそうなの?と少女が、よほど見当違いだったのか意外そうに驚いている。いや意外そうな顔をされる筋合いはないんだけど…。その少女はどっかの女子高校生なのだろう。見たことのあるような無いようなごく普通のセーラー服を着て傘一本だけを手に紫陽花を見つめていた。容姿は昨晩の関根の横にいた女性とは違って美女というわけではないのだが、何故か懐かしい雰囲気を醸し出している。いや、どこにでもいそうで、案外素朴さで言えば可愛らしいというのだろうか、そんな女子だった。
「だってあまりにも病んでる顔してたよ?普段は活発的で元気な女性に限ってそんな裏面があったりするのって、やっぱ本当なんだね!」
「それはドラマの見過ぎよ。ていうか高校生なんでしょ?今日の学校は平常授業だって知り合いの方から聞いてるからね、サボってないで早く学校に行きなよ」
敬語使わない歳下って初めてだ…ていうか普段は活発って、同性のストーカーなんてこの町にいるの?やっぱ田舎のネットワークは計り知れないなと松岡は身に実感していた。閉塞的な世界においては、未だに未知の部分が多い。
「雨だもーん豪雨だもーん、今日は行きませーん。それよりお姉さん名前なんて言うの?」
「私?それは個人情報。言うわけない…って、この町じゃ意味ないのか。…松岡って言うの、よろしくね」
「…そうか!じゃぁ、まっちゃんだね」
なんか痛い…と松岡は頭の痛みを刹那に感じていた。不思議な痛みが走り去っていった気分だった。前を見るが、女子高校生はいつものように笑っているだけだ。
「こんな日に1人で。ねぇ、まっちゃんは何かあったの?」
気を取り直した松岡は、色とりどりの紫陽花を見渡しながら答えた。
「私ね、この町に一人旅で来たんだけど、実はこの町を選んだ事には、理由があったんだ」
女子高校生は、ゆっくり頷いて微笑んだ。
三十三章『遠い町の担任教師』
太り気味の眼鏡をかけた青年は、都市から新幹線とローカル線電車を乗り継ぐこと6時間、ようやく終着駅に着くと、話し相手になってくださった老人とも別れ、1人、とある母校にやって来ていた。
「あれ?上川くんじゃないの、久しいねぇ。もう19歳だ?」
職員室を覗いていた上川に、廊下の向こうから懐かしい担任が声をかけてくれた。
「米田先生、お久しぶりです。八月なんであと少しですよ」
ここは田舎、とは言っても生まれ育ったあの町とは違う。マンションだってあるし、ゲームセンターだってある。高層ビルなんかがあるわけではないが、それなりに会社や企業組合が物静かに鎮座している町だ。
「オヤジさんは元気にしてらっしゃるか?」
「すっかり都会人ですよ、けど色々相変わらずなところも残ってて大変です」
「それもまた父親だ。もうお前さんが卒業して半年になるんだな、上京した世界はどうだ?」
「人が多すぎてはじめはビビりまくってましたけどね、電車が何重にも交差して走っている光景なんて圧巻でしたよ、意外と慣れちまうもんでしたが」
「あの町唯一の高校が突然廃校になったんだ、当然受け入れ態勢の無かった周辺の町の高校やここの、お前さんたちへの扱いは酷かったな。それが4年前か…入学したてのお前さんが懐かしいよ」
「結局卒業までこの高校にいたのは俺だけでしたよね、馴染めないったらありゃしなかった。なんせこれから入学式、だったんすからね。俺たちの子供を持つ世代の親はほとんどが引っ越し騒ぎを起こして、そりゃもう夜逃げのような勢いでした」
「それは何度も聞いたよ。けどこうしてここにまた足を運んでくれたのも、やっぱ母校としての思い出になってくれたってことだろ?」
「あの町から来たガキなんて、どこのクラスでも浮いてましたけどね。そうだ、今日食事どうですか?」
「教え子に食事を誘われる日が来るとはな。近くに美味いラーメン屋があるぞ?」
三十四章『頼まれごと』
ただいまぁと言いながら帰宅する大石に、母親がおかえりなさいと笑顔で答えていた。姿が見えないあたり、キッチンで夕飯の支度でもしているのだろうか。
「今日は学校どうだった?」
「普通だったよ!」
ニコニコとしながら大石は何事もなかったかのように返した。梅雨の勢いは増す一方で、ここのところ大雨が続いている。孝大を見かけることなく過ぎていく毎日はなんとなく憂鬱だった。そんな事を考えながら自室に行こうと階段を上りかけた大石を母親が引き止める。
「あごめんね!ちょっと今手が離せないからお母さん行けないんだけど、お買い物頼まれてくれないかしら?」
「雨だよう…」
「お願いよ〜」
「はいはい」
雨日和の続くこの町には、先週までの蒸し暑さがどこかへ行ってしまったようで、外に出てみるとなんだか涼しい気持ちにはなりはしたものの、やはりこの大雨の中を歩くのはどうしても嫌だった。
「面倒なんだよクソババァが」
露骨な本音を呟きつつ、大石は黒い傘を片手にトボトボと近くのスーパーへと歩いていた。近くと言っても、ここあざみ野と向こうのいわみ野を繋ぐ垣根通りの外れにスーパーはあるものだから、なんせ道のりは遠いといったらありゃしなかった。このクソつまらない世界が一変してしまえばいいのにと大石は考えつつ、スーパーの玄関手前まで来て向こう側からやって来る影と目を合わしてしまったのである。
「…なんであんたがここにいんの?」
白い傘を、畳み掛けてこちらに気づいた孝大が失神するかのような目でこちらを見ている。
「か、買い物だよ…親に頼まれて」
偶然というものはやたら気味の悪い不確定要素だと大石は実感し、少し微笑んだ。
三十五章『独り言』
手を重ね合わせ、祈りを終えた夏菜子は、人知れずいわみ野の端に位置する小山の山頂でようやく目を開いた。雨なのに夏菜子の服はどこも濡れていない。今朝に比べて少しおさまりをみせていた雨は思いのほか小雨といこともあって、樹々の生い茂るこの森の中では比較的濡れる心配はないのだ。
「たまにここにきちゃうんだよなぁ。誰の命日とかわかんないけど、そうしとかなきゃいけない気がする」
ボソリと呟いてみるも、誰かに聞こえるわけでもなく、何故か夏菜子は性に合わずしんみりとしていた。ここは仁乃神社だ。古くから町の神社として祭られているようだが、町の人間が総出でここに来ることはない。気がついたら自分だけが気分がてらに寄っているようなものに過ぎない。それ以外にと言えばちょうど1年ほど前に見覚えのない太り気味な眼鏡の青年が何かを祈っていたくらいだ。他人のいないこの空間では夏菜子の弱音やら本音やらが時に身を委ねるように呟かれてゆく唯一の場所だ。遠くで鳥が鳴いている。風がそよぎ、小雨の雫が静かに葉の上を溢れ落ちていった。
「この町って何か抜けてるよね、そんな気がする。…時間、なのかな?それよりも母さんよ、旭婆ちゃんの言う通り仲直りはしてみたものの、結局言い分が変わらないんだもん、また喧嘩しちゃった…うーん、変わんないのは私、か。まっちゃんも旭婆ちゃんとおんなじこと言うもんね〜」
仁乃神社の御神体に向けられたものなのか、それともただの呟きなのか、夏菜子はどちらともつかぬ言い方で神社をしばらくのあいだ眺め続けていた。
三十六章『岡本という男』
「今日は雨でも降んのか?」
「いや、もう去ってるんじゃないですかね」
ジムからの帰り道、岡本は青年と話しながら垣根通りを歩いていた。ここでは古くから慣れ親しまれたこの町の商店街のようなところである。故に人もまばらだが通りを闊歩していた。
「そういえば聞きたかったんだが、上川くんはどうしてこの町に1人で引っ越してきたんだ?」
上川は苦笑気味にバイトのお金でも精一杯なんで、住んでると言うべきか、などと呟いていたが、どうしても答えを待っているような岡本の表情に質問返しをした。
「いやいや、そんなこと言うなら岡本さんはどうしてここに?去年はお互いあまりそういう所は話さない部分も多かったですもんね」
「そうか、確かにそうだったよな。…俺は物心がついた頃には親戚の育ての親に世話されて、普通の街に住んで、普通に恋をして、普通の学校生活を送ってたんだけどよ、ある日ひょんなことで生みの親のいた場所を知る機会があってな、何でもこの町で生まれてこの町で死んだって聞いたんだ。俺は当時から救急救命士になる事が夢だったから、せっかくなら両親の影の中で夢を追い続けて、必ず叶えて見せようってな、そうすれば…まぁ、親が死んだ理由なんて誰も教えちゃくれなかったが、2人の前に胸張って生きていけるんじゃないかとそう解釈して、しばらくは短大にいたが、それも退学してここにやってきたんだ」
岡本は歳上なはずなのに、その無邪気に夢を語る様を上川は、ずっと頷きながら見上げていた。どうやら、この町の人間は、いまだ岡本に対して、両親の死の真実を伝える気はないらしい。それでもどこか輝きにも似た強さを感じさせる岡本を、上川は感慨深く見つめ続けていた。そうだ、こんな人の夢を夢のままで終わらせないために、この町の夢も終わらせないために。自分がここにやってきた真意を語ることもなく、上川は岡本と別れると、旭の営む茶屋へと足を運んだのであった。
三十七章『町役場』
空になったティーカップを片手に、誰もいない部屋で、男は窓の向こうに映る雨粒を眺めていた。すると扉をノックする音が聞こえ、ゆっくりとそれが開かれると向こうから中年の女性が入ってきた。
「町長、建設課の今月の予算案についての件ですが、そろそろ期限迫ってますよ。先月から推してるので向こう側がうるさいったらありゃしないんですわ」
町長と呼ばれた男は、この町の管理を担う男のようだ。カップに茶葉とお湯を入れつつ町長はゆっくりと返した。
「神楽さんまぁ落ち着いて。その件は次の水曜の会議で発表するつもりですよ。連絡事項はそれぐらいですか?」
「ええまぁ…、あ、そういえばあまり見ない若い男の子が町長に面会を求めているんですが、よろしいですか?」
「あまり見ない?そんな町民はいないはずだが…うん、通してあげてください」
町長の、老けているように見えるもその姿勢は中年の男にしてはしっかりとしていて貫禄を感じさせていた。しばらくして、扉をノックする音が聞こえると、町長はどうぞと扉に向かって喋った。すると扉が開き、1人の青年が現れたのだった。
「確かに見ない顔だ。名前を聞いてもいいかね?それと要件も」
町長は茶葉を残したままカップに口をつけた。眼前では青年は左手に持った書類を町長のもとまで持ってくると、返答した。
「ご多忙の中失礼します。自分は、上川と申します。たたり年以来ですね…町長」
「っっ⁉︎⁉︎」
パリンという音がして、カップが床で砕け散った。手足が冷え、軽く震えている。町長はその瞳孔を広げると、上川と名乗った青年を見上げた。青年はそのまま続けた。
「今回は、この夏の…これまでの夏の、終わらせ方をお持ちいたしました」
雨が降りしきる梅雨の日々、安穏とした灰色の世界が広がり、終わりを見せるはずのないその刹那、54歳を迎えた町長という男は、この町の代表者として威厳を見せては…いなかった。どうしようもなく、どうしようもないほどに、ただただ、震えているばかりであったのだ。
三十八章『1人の気持ち』
あざみ野の西南に位置する小さな町内公会堂では、劇団員たちによる強化合宿と舞台上の演出テストが行われていた。大雨止まぬこの梅雨の真っ只中においても町の人々がポツリポツリと会堂内で作業の手伝いを始めるあたり、誰かが声でもかけてくれたのだろう。赤城は、真央が旭んとこの婆さんや町内会の面々と作業に勤しんでいる姿を横目に感慨深い気持ちになっていた。鑑別所では一言も喋らない奴だと思っていたものの、出所してからはみるみると物を言うようになった。パソコンがとにかく上手いようなので警察側からは厳重警戒されているほどのようだが、赤城はそうは思わなかった。真央自身は来たことは一度もなかったが、この町が亡き母親の故郷だったことから出所したしばらく後にここへやってきた。この町とは訳あって繋がりのあった赤城は彼女の世話係のような気持ちでこの町の出張交番勤務を請け負うようになったわけであったが、いつしかそれもこの町の計らいによって警察側から正式な勤務としてこの町に置かれるようになっていった。もちろん真央は嫌がってはいるようだが、なんとなしにお互いが、まともな話し相手になれているような気もして、そんな間柄を、赤城は過去を思い出しながら苦笑したのであった。しばらくして、1人そんな考え事にふけっていた赤城のもとに町役場から1人の役員が小走りにやって来た。
「あ、永野さんじゃないですか。先日の工事お疲れ様でしたね、どうかされたんですか?」
「赤城さん、大変なんだ。ここだけの話だから口外は避けてほしいんだが聞いてくれ」
「…わかりました」
永野と呼ばれた町役場の職員は小声になると赤城の耳元で囁いた。
「実はだな…13年前の記憶を持った青年がこの町に…1年近くも住んでいたんだ」
「?!」
「赤城さん、あんたも知ってると思うが、この地に住む町民のほとんどが、あの年に起きた全てを当時の世代の子供たちの記憶から、無理矢理忘れさせた。悔やんでいる者も中にはいるが、ようやくみんなが綺麗さっぱり忘れかけてるんだ、何も今更それを持ち上げる必要はないじゃないか。だから、その青年には特に注意してくれないか?あんたは警察だ、この町のために貢献してくれ」
「…13年前、ですか…。その、青年の名というのは?」
「…上川くんだ。上川先生の…息子さんだよ」
三十九章『ふたりの隙間』
気のせいだろうか、先ほどまで、あらん限りの勢いで地に打ち付けていた大雨の雫が、減ったような気がする。そんな沙織の考えを読み取ったかのように、未だ晴れぬ濃い雨霧の向こう側の男性が少しおさまりましたね、と語りかけてきた。
「ですよね、さっきまでと違う雨だ」
1時間以上前に降り始めた土砂降りの雨を避けて雨宿りをしていた沙織は、雨霧の向こう側にいるもう1人の見えない男性と、しばらくのあいだ、どうでもいい話で盛り上がった。互いの存在も、ここにいる理由も触れることはなかった。他人の間柄でそんなことは話さないだろうと沙織もわかっていたし、向こうもそんな礼儀のある人間でよかったと思っていた。お互いの呼び名を沙織がアルファベットのSで、向こう側の男性が同じくアルファベットのOにしたことも、ちょっと気に入っていた。この町は人がいるのかいないのか、いまいちわからないところが多い。けれど、この人はきっといい人なんだろうと沙織は思っていた。ついついそんな事を考えていたら、恋人の話題になった。
「私なんて、あまりいい恋愛したことありませんよ?そんなこと言うOさんは、どうだったんですか?絶対いるでしょ??」
「まさか、雨霧で見えないだけで、見た目が本当は凄くゴツい男なんですよ?…けどまぁいました、1人だけだけど、これが本当に凄くいい奴だったんですよ」
「あらら?やっぱりフラれたんですね?」
「そこで期待されんのは腑に落ちないけど?でも、Sさんのご期待に添えて、フられたんですよ」
「でも偶然!大丈夫ですよOさん?私も前に付き合っていた奴にフラれたんですねこれが」
「そうだったんですね!お互いフラれたコンビなんだ」
「なんですかそれ!一緒にしないでくださいよね〜、けど、そのフってきた奴がやっぱり、今思えば本当に、いい人だったんだなって感じます」
どこか似たり寄ったりなふたりの会話が終わりを迎えたのは、こうして大雨の勢いがおさまった頃だった。Oの方が予定があったらしく、今のうちに走って行くつもりのようだった。
「まだ止んではいないんで、気をつけてくださいね!」
「はい!というか変なアルファベットとか色々付き合わせていたしまって、すみません」
「楽しかったのに謝らないでくださいよ!あ、今度こそ待ち合わせしてみませんか??」
「Sさんが楽しかったならよかった、それいいですね!こんな雨霧のなかでの約束ですが…それじゃ明後日の15時にもう一度ここで、というのは?」
「わかりました、じゃこの雨霧での約束、忘れないでくださいね、Oさんって言いますから!」
「もちろんですよ、じゃその時には自分もSさんで呼びますからね」
男の影が少しだけ去っていく様子が見えた。相変わらず霧は濃く、ふたりはやはり、一度も顔を合わさずにその場から離れていったのであった。不思議な出会いというのもあるものだと沙織は考えながら、自分もこうしてはいられないと、町役場にではなく、一旦劇団員の乗ったバスのある方向へと着替えを取りにその屋根の外へ出て走り始めていった。
四十章『雲の切れ間に』
1週間以上続いた豪雨は、夕方頃に少しだけ穏やかな青空を見せていた。道という道に水溜りができており、ほのかに甘い香りがするのは気のせいではないだろうと、涼は考えつつ、いわみ野とあざみ野を分ける小夜川を上流に向かって歩いていた。ほとんど家から出られなかったこの豪雨のあいだは、引越しの荷物やら片づけやらが案外はかどったこともあって、今日に至るまでにはほぼ部屋のあらかたの作業は終わっていた。だが地元の天気予報いわく、この上を通る大きな雨雲は、あと1日だけ大雨を運んでくるらしい。涼はその前にと、池やら川やらを見比べるていきながら蛍を探していた。雨は止んだものの青空は雨雲の隙間からしか見えない。風が遠くで吹いているのがわかった。山々を撫でる風が、どこからともなく雨を運んでくるのだろうか。そのとき、ひとり佇んでその景色を見守る涼に声をかける者がいた。
「蛍ならまだいないんじゃない?」
大雑把に髪をポニーテールにしたその女性は涼と同じように小夜川の水面をにらみつつそう言った。驚いたように涼が返す。
「え、本当?この時期だって聞いたんだけどなぁ。あ、すみません、私先週からいわみ野に引っ越してきました、涼です。よろしくお願いします」
刹那、雲の切れ間から射し込む光が、眩しいほどに2人のあいだを去っていった。
「あぁ!もしかして関根くんが連れてきたっていう美人さんか!私いなかったもんねあの時。えと、桃園民宿舎の夏菜子!関根くんから聞いてたりした?」
「え!じゃあなたが夏菜子さんですね、失礼しました!」
なんで謝るのよ〜というか顔小さっと笑いながら返す夏菜子と話しつつ、涼は違和感を隠しきれていなかった。なんだろう。凄く遠いのに…少しだけ懐かしい気がした…。多分、気のせいだ。
「今日あたりはさっきまで小雨だったし、大雨で流された蛍たちも明日か明後日あたりには見れると思うけど、ちょっと上ってみよ?」
「でも、夏菜子さん用事とか大丈夫なのですか?」
「いいのいいの!何からしたらいいか将来のことにすら時間を持て余しちゃってる身分だし、今朝から仁乃神社でボーってしてるだけだったからさ!」
ふたりはそんな会話を続けながら、ゆっくりと川を上り始めていた。風の音だけが聞こえるこの町の季節はようやく幕を閉じようとしていた。涼は思い出しそうな何かを考えていたが、夏菜子の無邪気っぷりを見ているとなんだかどうでもよくなってきたわけで、蒸さ苦しかったあのどんよりとした空気がどこにもないことに少しだけ、虚しさを感じたのであった。
四十一章『梅雨蛍』
13年前にも、小夜川には蛍がいた。緑豊かなこの町の至る所に、儚く光る灯火が消えては現れていた。河川敷を走る子供たちにはそれが蛍であることを知っているはずもなく、何か凄い現象であるかのように天を仰ぐのであった。
「裕翔!これスゲェ光ってる!」
「かーくん知らないの?これ虫なんだぜ!」
まだ幼い上川と裕翔が呑気な会話をしていた。横で少し背の高いセーラー服を着た高校生らしき女の子が上川に囁く。
「上川くんこれが蛍だよ?」
「あ!じゃ絵本の虫だ…マキちゃんは何でも知ってら!」
「そりゃぁ頭がいい女の子だからね?」
得意気に胸を張る女子高生に小学校に入ったばかりの面々がちょっとだけ苦笑いしていた。そんな様子に釘をさすように夏菜子が口を開いた。
「でも、マキちゃん昨日かーくんのお母さんに叱られてたよ〜」
「あー夏菜子見てたの〜?上川先生はいつもああなのよねぇ…最近宿題全然出してないし…」
「マキちゃん私もまだ夏休みの宿題やってないから大丈夫!岡くんにやってもらえばいいよ!」
ひとりでケンケンパをしていた幼い松岡が、同じく幼い岡本をみてニヤニヤしながら口を挟んだ。
「聞こえてるよまっちゃん。僕は嫌だよ」
「岡くんに無理なら誰にしよっかなぁ〜」
裕翔があっと声を漏らし、女子高生にコソコソ話をするように手で口を隠しながら呟いた。
「マキちゃんには俺の兄ちゃんがいるじゃん!」
納得するかのように、上川や岡本、そして夏菜子や松岡らが頷きながらニヤニヤしていた。上川がやたら下手な口笛で煽っている。
「え、潤くん⁉︎やだ、ち、違うわよ!」
「違うくない!もうできてる!」
こら!と頭をグリグリされる裕翔を見ながら、上川はぼんやりと周りを浮遊する灯火を眺めていた。なんだか夏の始まりなのかなとだけ思ってしまったりする。夏の良さがいまいちわからない年頃だろうけど、この時確かに彼らは、少しだけ、夏の良さがわかった気がした。ぼんやりと梅雨明けの蛍を眺めながら空を仰いでいた上川が、ぽつりと呟いた。
「なんだか…花火みたいだ」
ふいに遠くの風が、樹々の葉を波立たせながら、やって来た。その瞬間が黄昏時を知らしめるかのように、全員がその空を見上げていた。
四十二章『記憶の存在意義』
交通手段を梅雨の嵐によって失い、桃園民宿舎にしばらく長居することとなった若手女優、松岡は、豪雨の夜からしばらくたったある雨の日に、学校をサボって町を徘徊していた女子高生に出くわし、それ以来ずっと紫陽花並び咲く道で、会話が続いていた。
「でもそれもさ、13年前の出来事だからね、記憶ってどこまでに価値があるのかって思うとね、やっぱムシャクシャするんだ」
ついさっき出会ったばかりの歳下にここまで話していた松岡は少しだけそんな自分に驚いていた。女子高生の方はというと先程までの浮かれ様とは違ってゆっくり頷きながら微笑んではずっと聞いてくれていた。ペラペラと言えてしまうのは、初対面だからなのだろうか、それとも…。
「まっちゃんみたいに落ち着いた雰囲気持った人でも、ムシャクシャすることもあるんだね」
「何よそれ、案外ここに来た時は、目的とか忘れてパーっと田舎に住み着きたいとか思ってたよ?はしゃいでたしね」
「目的、か。自分探しってわけでもなく、親探しでもなく?」
「そう、私は…、私が出逢い共に同じ時間を経て一生のかけがえのない存在となるはずだった人々の心を、奪いにきたのだからね」
雨が小雨になりかけていた。風が落ち着いているのは、ここではないどこかから吹きつつある証拠だろうか。松岡はふと思い出すと女子高生に聞いた。
「ごめん、そいや名前聞いてなかったよね」
セーラー服のスカートがそよ風でゆっくりと波を描いている。彼女はただのサボリ魔でーすと適当に返すと、小夜川の方角へと歩き始めた。はぁと溜め息をつきつつ松岡もとりあえずついていく。河川敷の方にはそこまで距離もなく、少しだけ坂を登ればもう水の流れる音が聞こえていた。昨日、ようやく雨が晴れた。最後にひと雨降るらしいと聞いていた翌日の今日は、のどかな小雨が続いていたが、どうもそれは、今ようやく終わりを迎えようとしているらしかった。
「梅雨が終わるって、どうゆうことか、まっちゃんわかる?」
透明のビニール傘と一緒に自分もクルクル回る彼女の姿を見ながら、松岡は少しだけ間を置いてから返した。
「蛍が…見れなくなるってこと?」
ふふっと笑いながら女子高生は坂を登り終えると、松岡よりも早く先を見据えていた。その先にはこの町をふたつに分ける大きな小夜川と、まばらではあったが、ちらほらと蛍が飛んでいた。静かに点滅を繰り返しながら、浮遊するそれはまるで、いつかの思い出のように…。松岡はハッと気づくと、それよりも早く記憶の断片が脳裏をよぎっていた。…梅雨…小夜川…蛍…女子高生…。
「ねぇ、あなたは…!」
後ろを振り返る松岡に、佇んだままの女子高生はえへへと笑いながら、さしていた傘をクルッと一回転させると、ゆっくりと閉じてから口を開いた。
「梅雨が終わるってことはね…本当の夏が、明日から、くるってことなんだよ?」
あぁ、そうだった。そういう言い方が、あの人の口癖だったからだ。雨は、もう止んでいた。けど何故だろう。なぜ雨が止んでいるのに、頬には雫がこぼれるのだろう。
「あ、あれ…?私…なんで涙を…?」
目元から頬を伝い、涙を溢れさして彼女を見つめていた松岡は、自分の涙に今気づいたようだった。雨雲がものすごい勢いで空を渡っていた。そうか…むさ苦しい季節なのに…終わると、案外寂しくなるものなんだ…。どうして泣いているのか、松岡にはわかっていた。わかっていたからこそ、理解できなかった。
「あれ?向こう側にいるのってさ、もしかしてまっちゃんとこの娘さんじゃない?」
いかにも他人行儀な言い方だったが、確かに向こう側にいたのは、夏菜子と、もう1人は関根が手伝いに行った家の美人さんだろう。
「会いに行こうよ〜」
こうして、走り出した彼女に引っ張られるように松岡も涙を拭いて橋へ向かった。まだ…今は考えないでおこう。そう、胸に秘めながら。
四十三章
前編『旅の結末』
「どれだけあの町からお前を守ったのか、お前にわかるのか?」
父親から幾度となく繰り返されたこの言葉の真意を、上川はまだ知らなかった。いや、これまでの記憶を欠かすことなく生きてきたからこそ、当然の環境に疑問を持ったことなどなかったからだ。自分の故郷で何があったのか、それくらいずっと覚えてここまできたのだ。生きてきたこの約20年間に、何の支障もなかった。だが、それでも知りたかった。
「蛍…か。結局見れなかったな、今年も…」
喧騒とした大都市に帰ってきた上川は、ぼんやりと、陽炎の向こうにそびえるビル群を眺めていた。暑い。でも、こんな暑さが夏だとは思えなかった。高校生活を支えてくれた米田教師と卒業以来に再会した上川は、あれから長い間これまでを振り返り、久しぶりに語り合った。だが、上川は結局、あの町へは足を踏み入れる勇気を持てずに帰ってきていた。踏み込んでしまえば、もう後戻りのできる世界ではないことだとどこかでわかっていたからだ。時間の問題だろうか?いいや、それはおそらく、上川の覚悟の問題だろう。だがそれでも、行かなければ始まらないことは百も承知だった。はぁと溜め息をつきながら歩く高層ビル群に狭められた人通りの多い道は、酷く上川を苦しめていた。ただ守られてばかりじゃ何も始まらないような気がしていた。あの町で起きた物語。あの町に住む親友。例え彼らが自分を赤の他人だと思い込んでいても、どうしようもなく、上川にとってはかけがえのない存在たちであること。伝えたいことが山ほどあった。けれども、近くの母校に行っただけで足はすくんでいた。すべての人間にとって、自分という存在が決して尊い命ではない事を、上川自身がよくわかっていたからだ。父親から預かったハンドバックを、強く握りしめた。行かねばならない。
「…もう一度、俺は、あの町に住もう」
そうしたら、かつて父親たちが成しえなかった約束を、目的を、夢を、実現することができるかもしれない。いや…しなければいけないんだ。その為に、俺はあの町へ行こうと決意したのだから。当然、父親からは何度も反対されるだろうとは予想している。それでも、上川の決意は、既に決まっていた。
「一生かけても、いや何生かけてもいい。それで俺たちの未来を変えられるなら、何度だって生きてやる」
その瞬間、数多の人間が行き交う街のなかに、たったひとりの青年の覚悟が生まれたのであった。
中編『とあるバス停にて』
バス停で立ち続けること2時間、母校の町にいても特に用のなかった上川は、リュックひとつ背負い、一日に3回しかこないバスを待ち続けていた。横にも1人の男性が立っていたが特に目立った様子もなくベンチに座っている。
「くそ、これは想定していなかったな、家の前のバス停なら10分に一本なのに…」
上川はうなだれながらリュックに重みを感じていた。父親から手渡されていたハンドバックはそのまま入れている。引っ越すと言っても自室がそこまで余計なものに埋め尽くされていなかった為、手間はかなりはぶかれていた。先に向かわせた荷物の整理よりも手間がかかったのは、父親との口論だった。勿論のこと、反対された。何よりもあの町を知っていたからこそ出てきた父親の意見は、筋も通っていたし、事実だったからだ。自分の気持ちを親に伝えるということがここまで身を狭くする思いだっとは思わなかった。なんせ親には親の思いやりがあることをこの歳にもなるとわかってしまうからだ。だが、気持ちは揺らぐことはなかった。上川にも行かねばならない理由があったからだ。一週間ほどして、長かった梅雨が終わろうとする頃、ようやくその決着はついた。父親はこれも何かの縁なのかもしれないとだけ呟くと、引越しの手続きを手伝ってくれたのであった。けれど、上川は胸を張って帰ってこようと決めていた。何と言われようとも、馬鹿にされようとも、何年かかるかわからないこれからの目的を果たす為、上川は腹をくくっていたのだ。
「とは言ったものの、これから始めるっつても、地道にやっていくしかないんだよな。資格なんて数年やそこらで取れるものでもないから」
だからこそ、米田教師という存在は大きかった。元担任に会いに行ったのにも、夢を語るだけでなくその実現に、ともに携わって欲しかったからだ。木材で作られたバス停の小屋には座布団が椅子に敷かれており、なかなかの居心地だった。上川は背をもたれながら、ふと自分の体に目をやりつつ呟いた。
「痩せないとな…まずは筋トレか?」
「まずは、ランニングだよ」
慌てて横を見ると、先ほどまで黙り込んで本を読んでいた男性がこっちを見て腹を指差していた。うるさい。だがごもっともだった。
「そうなりますね、ジムとか行かれてるんですか?」
上川は苦笑いしながら男性に語りかけた。
「少しだけだけどね、でも俺もまだ未熟だぞ?向こうの町に住み着く予定なんだが、もしかして君も旅行か何かかい?」
上川は少し驚きつつはい、と答えていた。極力人との関わりを避けていこうとは思っていたが、気が抜けていたようだ。
「そうか、じゃ一緒にジムにでも行かないか?かなりの田舎だけどジムがあるらしいし、時間があるときにやってみようよ、って言うのは野暮かな」
「実は…旅じゃないんですよ。自分も今日からあの町で住む予定の人間なんです」
向こうにいた男性は初めてニコッと笑顔を見せると安心したように今後の予定を教えてくれてた。こうなったら仕方がない。目的に一歩ずつ近づきながら、体力も鍛えていこうと上川は決めたのであった。
「ところで、君の名前は?」
「すみません遅くなりました。自分、上川って言います」
「上川くんだね、よろしく。俺は、岡本だ」
胸をえぐられたような気持ちだった。そんなはずはないと思いながら、上川は冷静を保ち、笑顔でよろしくお願いしますとだけ言っておいた。岡本、岡本…。岡くん…。思わず、涙が出そうだった。平静を保つことだけに集中していないと、何もかも溢れかえってしまいそうだった。わかっている。こんなところで、何もかも打ち明けられるはずはない、なぜなら、彼は、岡本は、上川の事を忘れている以前に、記憶から消されているからだ。
「お、バスが来たぞ上川くん」
ようやくやってきた小さなマイクロバスに乗り込み、ふたりは静かなバスの中でゆったりとこれからの生活費などについて語り合っていた。上川は次第にこれから起こりうる同じような現象を、しっかりと受け入れていこうと、考えたのであった。
後編『ふるさと』へ続く
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