2016-09-18
「聲の形」の鋭さと毒
薄い布で包んだ鋭利な刃物が首筋に当てられようとしている。
映画『聲の形』の切迫感をたとえるなら、こんな表現になるだろうか。物語の冒頭部からひどく没入的だ。西宮硝子のイジメられている様が息苦しかった。教師の対応に嫌な汗をかいた。そして、自分がもしあのクラスにいたらと考えて、心拍数が上がった。ディスコミュニケーションの説得性が嫌らしい。京都アニメーション得意の実写的レンズ選択と撮影による奥行きの効果。エッジの効いたカッティング。そして、ピンと張り詰めた「物質」としての音の緊張感。そのどれもが「伝わらないことを伝える」ために働いている。感情を乗せて、人間を描くために、機能している。
誤解を恐れず言うならば、山田尚子監督が以前口にしていた『哀しみのベラドンナ』と同種の映画かもしれないな、と思った。かつて『哀しみのベラドンナ』の山本暎一監督はどんなに抑圧され、疎外されても心があるかぎり(それが妄想であれ狂気であれ)人間は復興を果たすと信じて魔女の生涯をフィルムに収めた。『聲の形』にも同じことが言える。心の復興とその過程を描いたフィルムなのだ、と。
ただし、切っ先はとんでもなく鋭い。ありありと実在感を持って負の感情を写し取るということが、こんなにも恐ろしいものかと何度も身につまされた。とくに、主人公である石田将也と高校もクラスメイトになる川井みきの人物造形が自分には刺さった。川井みきは監督の言葉を借りれば、「生まれながらのシスター」なのだという。心の底から自分が悪いと思っていない。疑念がない。先天的に何かがずれている。コミュニケーションが取れていると信じている人間の扱いにくさや空虚さが翻ってリアリティになる。
全編通していえるのは、空回りの怖さ。一見、笑えるようでいて、なにひとつ笑えるものはなかったと気付かされる取り返しのつかなさ。白状すると、硝子が飛び降りるまで、硝子の母親が土下座をするまで、空回りに甘えて観ていた。表現に毒がある。真っ向から手話を作画する表現、撮影の表現、美術の表現、目移りしそうなくらい多くの表現が花の美しさだと見誤らせる。花火の振動を感じる硝子に、「耳が聴こえなくても音の振動は……」と感慨に耽っている場合ではなかった。その力のない笑みに隠された心の震えを読み取るべきだった。気付いたときにはもう遅い。ゆえに毒なのだ。
一方で、救いの表現もある。将也が病院を抜け出して、硝子といつものあの場所で出会う場面(走りの見覚え感!)。硝子の流す涙が色トレスで塗られていた。他人とはちがう、硝子に馴染んだ色の涙。夜間点滅(衝突防止)を繰り返す飛行機の環境音と合わさって生まれるのは、コミュニケーションという幻想。光の反射でたまたま色が変わって見えただけかもしれない。将也の主観的な錯覚かもしれない。しかし、彼の目にそう映ったことは偽りじゃないと訴えかける救済の涙。
本作の原作を自分はまだ読んでいない。だから、勘違いや気付いていない部分もあるだろう。けれど、それで良かったと思っている。奇襲を“味わう”秘訣は、油断していることだ。布で包まれた刃が本物だと知られていないこと。硝子が転校してきたとき、将也は彼女のことを何も知らなかった。補聴器の値段も、それが硝子にとってどのくらい大切なものかも。「同調」があった。そんな状態でえげつない山田尚子を味わえたことが、この映画を観た最大の収穫だったかもしれない。えげつない、は褒め言葉だ。
哀しみのベラドンナ [DVD] 長山藍子 日本コロムビア 2015-07-29 by G-Tools |