イギリス、フランス、そして、日本の放送のあり方
坂元章
今回の調査研究結果の簡単なまとめとして、イギリスとフランスの放送事情の中で、とくに印象的であったものを挙げて、若干の考察を加えたい。
印象に残ったものとして、次の4つがある。1)
第1に、イギリスやフランスでは、日本に比べて、放送に対して行政による強い規制があることである。これは、テレビ放送は公共サービスであるという根強い考え方によるものであろう。実際に、これらの国では民放の歴史は新しい。いずれにしても、両国には、放送を規制するためのいろいろなシステムが見られる。もし、日本の放送についても、もっと規制が必要であるという合意が生まれるのであれば、そのときには、これらのシステムは、規制の具体的な手段を考えるうえでの参考になるものと考えられる。例えば、イギリスでは、独立行政機関ITCによる日常的な番組チェックと懲罰、法定による第3者苦情処理機関BSCの存在、ITCやBSCによる苦情内容と評決の公開、放送時間帯の制限などのシステムがあり、一方、フランスでは、独立行政機関CSAによる強い番組統制、政治的公平性の規定、レイティングシステム、自国文化の保護規定などがあるが、これらはその対象となりうるものであろう。
印象に残ったものの2つ目は、とくにイギリスで感じたものであるが、さまざまなものについて、明示性ないしは公開性が行き届いていることであった。例えば、ITCやBSCの番組基準は、長文のものであり、なぜ、それぞれの基準が必要であるのかが丁寧に書かれている。放送局がプロダクションに番組制作を発注する際に提出する企画書もまた、詳細に書かれたもののようである。ITCやBSCは、放送局に対する苦情とそれに関する審議の内容を公開している。ITCが放送局に懲罰を与えた場合、その決定の過程は詳しく記述され、公開される。チャンネル4が公に配布しているパンフレットには、社長や重役の年収までが記載されている。日本の状況は、これと隔たりがあると思われるが、どうであろうか。
3つ目は、データ重視の姿勢である。イギリスやフランスでは、ITC、BSC、CSAなどの監督機関も、放送事業者も、どちらも調査を盛んに行っている。とくに注目されたのは、イギリスのBBCやチャンネル4では、学校と日常的に接触し、番組に対するフィードバックを得る教育専門スタッフを少なからず雇用しており、その情報を教育番組の制作に生かしていることであった。こうした教育専門スタッフのシステムは、日本では見られないものであろう。フランスのF2でも、視聴者に番組を制作段階で視聴させ、その結果を番組制作に生かしているようであった。
4つ目は、スタッフの専門性を大事にしている点である。チャンネル4のアシュトン氏の前職は、中学校の教員であった。また、上述したように、BBCやチャンネル4は、教育専門スタッフを雇用しているが、そのスタッフも、教員の経験があるなど専門性を持っている。ITCのモス氏やタウラー氏、BSCのハーブレーブ氏は、元大学教員など、テレビ放送の研究者である。このように、教育の専門家が教育番組の制作を行い、また、テレビ放送の研究面での専門家がテレビ放送の監督を行っている。日本においては、教育番組を制作スタッフには、教育経験のない人が多いであろうし、また、テレビ放送の監督を行っているのは、管理公務員ということになろう。しかも、日本の組織では、配置換えが頻繁に起こるので、専門性はさらに低くなると考えられる。
こうした明示性ないしは公開性、データ重視の姿勢、専門性の尊重はいずれも、明確な論理でもって物事を進めようとする、イギリスやフランスの文化的な基盤に結びついているものであろう。そうした文化の中では、自分の行動で他人に影響を与えようとする場合に、どうしても、きちんとした論理で説得できる必要がある。そのためには、論点をきちんと明示しなければならないし、その根拠としてのデータも必要になってくる。また、専門的な背景がなければ、説得力は低くなってしまう。
こうした文化に対して、日本の文化は、明確な論理ではなく、人間関係などの調和を重視したものであると言われてきた。こうした違いが西欧世界の人々とのトラブルをたびたび生んできたことはよく指摘されるところである。
しかし、近年では、日本も、西欧世界のように、論理を重視する社会に変わりつつあるように見える。もし、そうであれば、すでにそうした文化的背景が定着しているイギリスやフランスの放送のあり方は、日本の放送のあり方を考えるうえで有効なものであろう。
もちろん、それぞれの国には、それぞれの事情があり、その文化やシステムはその国とって適応的なものであるかもしれない。無批判に他国のシステムを受け入れるべきでないこともよく指摘される。しかし、いずれにしても、参考にすることは意義深いことである。そこには、日本にとっても意味あるアイディアがあるかもしれないからである。もっとも無意味なのは、最初から無意味であると考えて見向きもしないことである。
註
1)本稿の執筆にあたっては、調査派遣された村澤氏、浅田氏との議論を大いに参考にしている。ただし、文責は坂元にある。
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