2009年3月束草での、お父様から顕進様への「そばにいなさい」の要請は、基元節を勝利に導くための最重要な内容だった。それを顕進様が拒否し、お父様のもとを放れてしまったので、それから語られ始めた「夜の神様、昼の神様」の新しい原理観と心情圏に触れることなく、摂理の核心を得られなくなった。顕進様に従った食口の方々は同様のようだ。
統一原理の太い幹を支えている心情の根っこがあることに気付けない。そして、真のお父様という太い幹の根っこは神様である。「夜の神様、昼の神様」について質問した亨進様は、真のお父様は個性真理体として人間100%であり、その生心に夜の神様が臨在されるので神様100%でもあると受け止めた。
これも理解できないだろう。理解できないどころか否定するだろう。神様と完璧に通じているお父様では、教権勢力に騙されて顕進様に対する人事や摂理指導を誤り、基盤を奪われるところだったと主張できなくなるからだ。
お父様は顕進様が離れて以降、原理の核心、神様の心情の核心へと迫られたのだ。お父様は顕進様に何を望んだのか?
それを、はっきりと見極めることのできる記事を、維新の名君さんは書いてくれたのだ。
記事「『お父様の伝統を継承する者』について想う」を全文取り上げさせていただく。
まさしく、お父様の伝統を継承するのは誰かということで、すべての食口の関心事であると思う。
**引用開始**
前回記事「「闘魂を継承する者」について想う」の続きです。
それではお父様の伝統は、いつ誰が最もよく引き継いでいけるのでしょうか?
それは、お父様が若い頃、まだ基盤もなく貧しかった頃から一緒に苦労された先輩家庭の方々がまず思い浮かびます。困難な状況や迫害の中でお父様とともに歩む中で実体で感じたお父様の愛、心情、精神力、神様への信仰等、本当に貴重な体験であったことと思います。
ご子女様では、ベルリンの壁の前で祈られた孝進様、その1年後にベルリンの壁が崩壊した出来事は忘れられません。興進様においては「あなた方はお父様のために命をかけられますか」と、お父様を守ることに命がけであったことを聞いています。
顕進様はお父様が激しく苦労されていた時代に共に苦労され、実体で歩まれ様々に摂理を進めてこれらました。神様の夢を本当に実現しようとされていたお父様のその心情、精神を実感として感じていたと思います。私は実体で顕進様にお会いして話を聞いてみるとそのことがよくわかりました。
先輩家庭ではやはり神山会長です。
初期の頃から導かれ、アメリカの開拓をされ、マジソン、ヤンキー、ワシントン大会を成功され、ダンベリーにお父様と一緒に入られその歩みを間近でご覧になられたのは神山会長しかいません。お父様晩年にもヨスや船の上でお父様と直接に接し歩まれ、本音で語られながら歩んでこられました。
日本では献金が活動の主流となり、教会では献金を出せる(持っている)婦人達が主流となってきました。責任者も婦人が献金の電話がけや携帯をいじっていれば摂理を進めていると勘違いしていました。お父様との外的な距離や組織における位置で人の評価や物事を見るようになってしまっていました。
そうした中で亨進様が登場され世界会長になられるわけですが、印象に残ったものをいくつかあげてみます。
まず敬礼の場面です。
仏教的な異様な雰囲気の中、だれかが太鼓をたたき分厚い座布団で敬礼をしている場面が映し出されました。(あの座布団では膝も痛くならないだろうと思いながら見ていました。)今にして思えば亨進様はこのように精誠をささげておられるというイメージ操作だったのかと思います。
聖霊治癒礼拝は苦痛で復興したためしはありませんでした。
礼拝の後、婦人部長などに「あの音楽はお父様が亡くなった後の讃美歌に聞こえる」と感想を述べたりしていました。
忘れもしないのが、亨進様がお父様の車椅子を押している場面です。当時は教会内で様々に責任者に無謀な訴訟はやめるように、顕進様は間違っていないと訴えていた時です。責任者は私に「誰がお父様の伝統を相続するのだ、(それは亨進様だ)。」と説得しようとします。私は、「車椅子を押しているだけでどうしてお父様の伝統が相続できるのか。」と疑問を呈していました。今となっては担がれた亨進様を追い出し、批判され信徒が流出してしまっているのですが、後の祭りです。その時に気づかないといけませんね。
もちろん晩年のお父様のお姿や歩み、み言葉からも私たちは学び相続すべき内容は多いと思います。
残されたみ言葉を実践、実体化していけるように、お父様のされた体験を疑似体験、心情復帰したどっていけるように歩んでいきたいものです。
最後に、私達1人1人も「お父様の伝統を継承する者」になっていかなければならないということは言うまでもありません。
神様の夢の実現を目指して。
**引用終了**
亨進様はお父様の車椅子を押すだけの、役立たずの子息として表現されている。聖霊治癒礼拝は苦痛であるばかりで、仏教的な礼拝も異様な雰囲気のイメージ操作にしか見えなかったということだ。
老いてボケはじめたお父様は、韓お母様や教権勢力にいいように操られて、摂理的基盤も資産財産もすべて教権勢力に奪われてしまおうとしている能無しメシヤにしか見えない。
その能無しメシヤを車椅子に乗せて、神様と原理からズレてしまった未子が押している。
みんな、そう思ったのだろう。
でも、食口の中に、真の親子の姿として映った方々がわずかでもいたのだ。だから、摂理は失われていない。新摂理が真の家庭の四大心情圏三大王権を核として芽吹いているのだ。
イエス様が十字架を背に担い歩まれる姿に似て、さげすまれる真の親子は、ひたすらに人類の救いのために隠密摂理を展開した。仏教的な礼拝も聖霊治癒礼拝も、それまでのお父様の気づき上げた全てのものがサタンに讒訴されたが故の重要なものだった。私たちはそれに気付くこともできなかったので、ただ人間的な知恵と判断でお父様と亨進様を見ていた。
八次元の心情世界を扱った記事で掲載した御言を再び引用する。
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天聖経 地上界と霊界 第三章霊界 6.霊界での知識と権力の使い道
では、神様がもっている多くの属性の中で、一番の中心は何でしょうか。情です。愛というものです。神様も生きるのに、愛が一番必要なのです。天国では、知識で暮らすのではありません。
皆さんは霊界を知らないからそうであって、霊界に行って知るということは、1週間以内にみな終わります。心を鏡のように見ることができる世界が霊界です。
霊界は、いくら優れて、いくら立派な知識人がいるとして、彼がもっている知識を1週間以内に凌駕し得る、直感の世界です。
心の光を通じて見るために、そこに関係している因縁の世界は、自動的に理解されるのです。それは、情の心情を通じて見てこそ、自分と相対的関係をもつとか、主体的関係をもつのであって、知識とか、神様の他の属性では駄目なのです。
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亨進様がお父様を乗せた車椅子を押している姿に、八次元の心情世界を感じられないだろうか。必ず、思いを馳せただけで感じ取る人がいるはずだ。心情の世界は理屈ではない。理論で説けるものではないのだ。直感の世界である。
アダムとエバの堕落以来、心情復帰のための蕩減復帰歴史が綴られてきた。その連綿と続き、少しずつ積み重ねられた心情復帰に、最終段階で統一食口が失敗したと、私は食口全員から責められるようなことを書いた。その失われた心情復帰の歴史を、蕩減復帰するために、家庭連合からボンネッコルを意味する統一教に名称変更した上で為された摂理であったのだ。
その最も尊い心情復帰のための教育を、お父様は誰に歩ませたのか、ということだ。顕進様は世界摂理を推進させるリーダーとしての実力を備えていた。でも、それだけでは神様が取れないのだ。だから顕進様を中心とするが、責任は亨進様が取るようにと、お父様は配慮された。誰の前に?神様の前に責任は亨進様が持つ。
ところが、顕進様はその実力からしか、お父様をも亨進様をも見ることができなかった。知識も、さらに実力さえ霊界では添えて能わるのだ。神様だけでは形成できない心情圏を備え、その心情から心の光を通して見ることができれば、すべてを理解できるのだ。霊界でも地上界でも、その心の光を通すことができた者こそ、真実と真理を見定めることができる。
お父様は生涯にわたる激戦の末に、ボロボロになった体をあずける車椅子を、本当は誰に押して欲しかったのだろうか。その時、お父様のために流す一粒の涙が、数千人、数万人の聴衆を前に、ワン・ファミリー・アンダー・ゴッドと叫ぶ声と、比べるべくもないものだと感じていただける人が、私は必ずいると信じる。
***このブログを訳が分からないと捨てずに、何度も何度も読んでくださっている方が居ることに、心より感謝します。***
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