被災、直後


 ネット保守にも苦言がある。被災直後の私の動きを述べる。私はまだ仕事中で、まさに陳情を受けていた。けたたましくなる携帯のアラート。数秒おいて、意味を知った私はドアの鍵を開けた。後輩には火元のチェックを命じ、建物内にいた者には屋外に出るように指示した。山もない広い駐車場であったため。屋外に出ると、防災無線より「おおじしんです」の連呼。ここで発生した災害の内容が地震であることを知る。

 揺れが来たのは、それから数秒後のことだ。建物の外壁と、周辺の高いもの(電柱など)を見据え、警戒。

 まず恐れたのは津波。この時点では、揺れが収まった直後であり震源もわからない。高いところに移動するように指示、この時点で嫁と子供に避難を指示する電話を入れる。理由は、家族の元には戻れないから。

 万が一の道路破損を想定しつつ、最短経路で市役所に。選挙が終わってまだ4日だが、私は市議会議員だ。委員会変えの前ゆえ、いまだ総務委員会の委員である。防災を管理する四階フロアに滑り込んだのは8分後。この時点で副市長は庁舎に来ていた。続いて職員がどんどん揃っていく。誰しも家族が家にいるはず、不安なはず。

画像はイメージです
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 このあたりで震源が熊本であること、日本海側であることが判明。また津波の危険がないことを知る。行橋市は海に面しており、まさに私の母校、地元は海の傍の漁村である。場合によっては高台に逃げるよう公用車を走らせる必要だってあったし、万が一そうなれば公用車を行って返すだけの時間的な余裕があるかを知る必要があった。議員に決定権があるわけではないが、人が足りないなら私が行くしかないと思っていた。日本海側であったため、それは行う必要がなかった。

 同時に行われていた調査は、漏水。水が漏れていないかのチェックのみならず、建物の損壊の把握もできる。浄水場と排水のメーターの動きを見れば、大きく破損している場合には数字でわかる。これが大きく変わっていた場合には(水道の破損のみならず)建物の破損も疑うべきだ。これも大丈夫だった。

 その次に市民からの電話対応、何か壊れたり水が道路から出ていた場合には通報が入る。逐次、入ってくる情報を聴きながら状況を把握。30分も経つころには、報道からの取材も入りはじめる。何か壊れませんでしたか?など。行橋市を守るという「自助」の目途がたつと、熊本の状況に気になってくる。市内の物資で送れる物がないか、向こうには何が必要だろうかと備蓄の確認も併行して行う。この時点までが一時間程度だろうか。

 私には小さな娘がいる。嫁のことも気になる。だけど帰れない。迷わず向かったのは、家ではなく庁舎だ。職員たちだって同じだ。不安がる家族を家において、庁舎にあがった。揃った議員も私だけではない。私のあとに来た議員は、すでに防災服に身をつつみ安全靴で来た。自衛隊だけじゃない、私たちだって公助の一部なのだというプライドがある。