東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 群馬 > 記事一覧 > 9月の記事一覧 > 記事

ここから本文

【群馬】

異郷の地で救護尽くす 日中戦争元従軍看護婦が証言

戦地での体験を話す村沢絹子さん=高崎市で

写真

 「戦闘があった日は、死んだ人も息のある人も一緒にトラックで物のように運ばれてきた」。高崎市の村沢絹子さん(89)は日中戦争の末期、旧日本陸軍の従軍看護婦として中国山西省・運城の病院にいた。「傷付いた兵隊さんのため、お国のため」。そんな思いから、異郷の地で傷病者の看護にひたすら尽くした当時を回想した。 (大沢令)

 旧京ケ島村(現在の高崎市)で八人きょうだいの四女として育った。父は元近衛兵で厳格だった。

 太平洋戦争が始まり、特攻隊員をたたえる勇ましいニュースが連日のように流れるようになった。村沢さんは「自分も戦地に行って国のために奉公したい」と考えるようになった。

 産婆(助産師)に憧れ、看護婦の資格も取得していたが、親の反対を押し切って陸軍の従軍看護婦になった。出征する兵士のような見送りを受け、一九四四年九月に山口県の下関から海を渡った。十七歳の時だった。

 目的地を明かされないまま釜山に到着、その後運城の兵站(へいたん)病院に入った。最前線で負傷した兵士に応急措置をし、設備が充実した後方の病院に移送する役割を担った。

 内科と外科があり、軍医が三人、衛生兵が五十人だった。従軍看護婦は日本赤十字関係が二十人、陸軍関係が十人いた。ベッドが土の上にじかに置かれ、靴のまま勤務した。

 戦闘があった日はけがをした兵士が何十人も運ばれてきた。砲弾などで手足を負傷したり、内臓が破裂したりした人もいた。手術室はなく、包帯や薬品は不足していた。傷口を洗って消毒したり、止血したりすることが精いっぱいだった。一晩中遺体の処置をして、担架で病院外の空き地に運び続けたこともあった。

 同僚が過労などで倒れ亡くなるとシーツに包み、兵士とは別の空き地で火葬した。髪の毛からジリジリと燃えていった。立ち会った仲間は数人だけだった。手を合わせながら「次は自分の番かも」という不安がよぎったが、「お国のために尽くしたのだから」と悲しみを心に宿すことはなかった。

 村沢さんは「私だけではなく、みんなの精神もおかしくなっていたのでしょう」と振り返る。

 過労による貧血で何日も意識がもうろうとした状態になり、気付くと薄暗い部屋のベッドに白衣のまま寝ていたこともあった。

 終戦を迎え、「中国人に仕返しをされるかもしれない」と不安を抱いた。病院で雑役として働いていた中国人の男たちの態度が変わったように思え、恐怖を感じた。

 引き揚げる際は中国共産党八路軍からの襲撃に備え、女性には軍服が渡された。村沢さんも髪の毛を短くし、戦闘帽をかぶってゲートルをまいた。引き揚げを待つ間、収容所で医療を手伝った。釜山港を出発し、福岡県の博多に着いたのは終戦翌年の四六年四月だった。

       ◇

 村沢さんの体験は、旧群馬町教育長の鈴木越夫さん=高崎市金古町=がまとめた「戦時下に生きた青少年の体験記(第三集)〜戦後七十年の証言『生の声』」に収録されている。問い合わせは、鈴木さん=電027(373)2777=へ。

 

この記事を印刷する

PR情報