ぜんぶ、心霊のせいだ。
ちょっと前のわたしはそう思ってた。自分の性欲が高まって、近しい人にモーションをかけてしまうのも、セックスしたいから会いたい、なんて思うのも、全部心霊のせいだって思ってた。わたしには色情霊がついているから仕方ない、なんて割り切ってた。
いや、そこ割り切るなよって言われそうだけど、わたしは自分で自分の欲望が押さえられない時がある。そういうときのわたしは、欲望を満たすためにまっすぐに、動く。
勢いもある。わたしが「セクロスサイヤ人」になっているときは、どうか近づかないであげてほしい。これたぶん病気。
今回の件についても、佳境のときに「わたしを精神病院に閉じ込めて!」と叫んだことがあった。だって自分を押さえられない。自分で自分をコントロールできないから。会ったらしたいし、会いたいし、そこに他の理由をつける必要なんてなかった。それこそが愛だと信じて疑わなかった。
愛が消えたんじゃない。わたしの中から立ちのぼる性欲がおさまったんだと思う。わたしはあの頃の自分の精神状態を思い出すことはできても、同じ気持ちにはなれない。熱にうかされた恋に冷めたといわれてしまえばそれまでなんだけど、どうもそういうわけでもない。
やっぱり、あの時期のわたしは何かトクベツな状態になっていたと思う。それは繁殖期だったのかもしれない。オスのにおいを強烈に放っているあの人に近づいたのも、本能だったのかもしれない。
オスを求めているときは、オスらしければオスらしいほど、いい。
やさしさよりも強さを。気づかいよりもわがままさを愛しいと思う(気遣いも嬉しかったけど)。力強く、生命力に満ち、未来を感じさせてくれるオスにわたしは発情した。欲望のすべてが泡のように空間を満たし、はじけていった。
わたしはもう、あの時期を経験することはないのかもしれない。繁殖もしないだろう。だからといって生きるのをやめるわけではないし、考えることもやめない。わたしの生活を「守りに入っている」と言うのはちょっと違う。恋愛の面で攻めていなくとも、別の意味で攻めてる。一生守りになんて入れないだろう。停滞の一時休止時間は作ることがあるけど。
あと、「守りに入る」のと「守るものがある」のは違う。
わたしには守るものがあるけど、人生守りになんて入れない。あ、違う。守りに入っても、結果として攻め続ける生き方しかできないっていう感じかな。
そんな感じ。
もうちょっと自分の思ってることをきちんと言葉にしてみようかと思いました。
感じ悪かったらごめんね。
それじゃあ、また明日!
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