Before the rendezvous
twitterで連日のように妄想ツイートを繰り広げていたら、出来心で書いてみたくなってしまいました。
まさか、二次創作(しかもBL)に手を出す日が来るとは思いませんでした。
これを書くにあたって、連日twitterで遊んでくださる丹下部のみなさまに深く感謝の気持ちを捧げたいと思います。いつもありがとうございます!
いやいや、本当に、二次創作ってこんなに緊張するものなのですね。
どうか、お手柔らかに読んでくださいますよう……。
その日は、先週公開し始めた映画を観に行こうと約束した日だった。奥名の好きなアクション俳優が、オールスタントなしのアクションに挑戦した意欲作で、偶然、岩倉と一緒にいるときにその映画のコマーシャルを見ていたら、岩倉の方から誘ってきたのだ。
高校時代からの知己で、長年、奥名の想い人であった岩倉とは、つい先日、正式に恋人同士になった。こんなに長い間知り合っていたというのに、一緒に映画に行くのは今日が初めてだ。
本当は、仕事の後に一緒に行こうとしていたのだが、たまたまその日は奥名はシフトの都合で午後休み、対する岩倉は出張から帰ってくる日だというので、映画館で直接待ち合わせることになった。出社時、同僚の姫野に「なんだか浮かれてるみたいだけど、大丈夫?」と聞かれるくらいには、心踊っているらしい。
一度家に戻って着替えようとして、ふと睡魔に襲われて昼寝をしてしまった。起きたら結構な時間が経っていて、いそいそと着替え始めた。そういえば、恋人同士になってから初めて、一緒に出かける。デートか、と気付いて一人で赤面した。デートなら何を着ようかと散々悩んだ挙句、選ぶのが面倒になって、結局いつもの服装に落ち着く。映画館に出向けば、気持ちが急いていたせいなのか、待ち合わせ時間よりも随分と早くに着いてしまった。一通り新作映画のポスターなんかを眺めてみたが、まだまだ時間がある。ここでじっと岩倉を待ってもいいのだが、コーヒーでも飲みに行くかと外に出た。本当は、熱燗でも飲みたいところだが、映画の後にきっと岩倉と飲むから今はぐっと我慢だ。
人通りの多い道を抜けて、商店街の方へと向かう。仕事が終わって帰路につく人や、これから飲みに出かけるサラリーマン、夜の仕事に向かうキラキラとした人たちでごった返している中を歩いていると、携帯を見ながら自転車を運転している高校生がふらふらと奥名の方に向かってきた。避けようと横に足を踏み出した途端、ちょうどそこを通りかかっていたスーツ姿の青年にぶつかってしまった。
「すみません!」
「あ、いえ。大丈夫です」
相手は、そう言いながらもふらふらとよろけてしまったので、慌てて奥名は手を差し伸べる。肘のあたりを掴んで立ち上がらせると、青年の細い腕に驚かされた。
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫で……」
青年は弱々しく微笑もうとしたが、最後まで言い切ることはできなかった。雑多な商店街であっても奥名の耳に届くくらいの腹の音が、青年の言葉を遮る。たちまち耳まで真っ赤にした青年は、奥名に肘を掴まれたまま、小さく、大丈夫ですからと呟いた。
「腹減ってるの?」
「……」
奥名が尋ねるが、青年は赤面したまま口を噤んだままだ。ふと目を青年から外せば、暖かそうなオレンジ色の光をこぼす居酒屋が目に入った。急に、奥名も空腹を意識する。
まあ、まだ待ち合わせまで時間あるし。
映画の後、ごはん行こうって言ってなかったしな。
「なあ。ぶつかりついでに、飯でもおごるよ。ちょうど俺も腹が減ったなって思ってさ。良かったら」
山中で母とはぐれて震える子鹿の目で見上げてくる青年は、よく見れば、奥名の上司が好きそうな美人だった。色素が薄く、背は奥名よりも少し低いくらいなのに、全体的に華奢だ。さっき掴んだ肘もそうだったが、骨が細いのかもしれない。
子鹿のような瞳の美人は、空腹を満たす誘いと、他人である奥名に対する警戒の間を行ったり来たりしているようだった。別にやましいところはないと証明しようと、奥名は笑ってみせた。功を奏したかどうかは分からないが、とりあえず食欲に勝る欲求はないということだけは確かなようだ。
青年と連れ立って入った居酒屋は、昼は定食屋、夕方からは居酒屋、夜は呑み屋といった風体の場所で、奥名の思った通り、のれんをくぐって室内に入った瞬間、出汁の良い匂いが鼻腔を刺激した。
こじんまりとした店だが、客入りは上々のようだ。唯一空いていた隅っこの座敷席を案内されて、靴を脱いで畳の上の座布団にあぐらをかいた。青年は几帳面に靴を脱いでから、隣の奥名の靴もそろえてくれる。背広を脱いで、ハンガーにかけようとしたようだが、ハンガーが見当たらずきょろきょろとしていた。
「すいませーん。おばちゃん、ハンガーある?」
片手を挙げて、カウンターに立つ女主人に声をかける。ぞんざいな、でも決して非友好的ではない仕草で、女主人が奥名の後ろを指差した。振り返れば、安っぽいプラスチックのハンガーがかかっている。取って青年に差し出すと、青年は消え入りそうな声で、ありがとうございますと述べた。ハンガーフックが奥名の後ろにしかないので、そこにかける。
「なんか食べれないものとか、ある?」
聞くと、ちょこんと正座した青年は首を左右に振る。
「飲める? てか、飲みたい?」
「あ、あんまり……」
「そっか。じゃ、ウーロン茶にする?」
首肯。
お通しが運ばれてきたので、そのタイミングで奥名は適当に料理数品とウーロン茶、それに生ビールを頼む。頼んでから、そういえば岩倉に会うまで我慢しようとしていたんだったと思い出すが、頼んでしまったのだから仕方がない。別に岩倉と飲む約束をしていたわけでもなく、まだ待ち合わせまで時間があるのだから、映画が終わる頃には酒も抜けているだろうと楽観的に考えた。
お通しに枝豆、飲み物がそろったところで乾杯をする。青年は枝豆をもぐもぐと口に運びながら、ウーロン茶の半分ほどを飲み干し息をついた。喉も渇いていたらしい。
「ごめんな、無理やり付き合ってもらう形になっちゃって。えっと……」
そこまで言ってからようやく、青年の名前を知らないことに気がついた。不自然に黙った奥名に気づいた青年は、同じことに思い至ったらしい。居住まいをただすと、
「深津です」
「深津くん。あと、さっきはごめんね。ぶつかって。俺は、奥名」
「いえ……。俺こそ、なんかすみません。みっともないところを見せてしまって」
「いいよいいよ。腹が減るのは、誰だって同じだよ」
笑い飛ばして、ビールを胃袋に流し入れる。泡が喉を刺激するのが心地よかった。すぐに空になったグラスを掲げて、おかわりを口にする。見れば、深津のウーロン茶も空になっていた。
「深津くん、おかわりは?」
「あ、いえ、そんな。もう、大丈夫ですから」
「遠慮しなくてもいいって。お酒は? 飲まないの?」
「その、あ、あんまり、飲んだことなくて……」
「じゃあ、日本酒ちょびっと試してみる? 飲めなかったら、俺が残り飲むから」
遠慮がちに深津が頷くのを見て、奥名は熱燗とお猪口二つを注文した。
熱々のおでんが運ばれてきて、二人仲良く芥子をつけた大根をつつきあいながら日本酒を飲んでいるうちに、深津はリラックスしてきたようだった。興味深そうに店内を眺めてながら、
「こういうとこ、俺、あんまり来たことないんです」
「へえ。そうなの? 深津くん、お坊ちゃんとかそういうの?」
「全然! 違います! その対極というか……。学生時代は、勉強とバイトばっかりで、遊ぶような時間もなくて……」
「バイトしてたんだ。俺も、大学時代はバイトで忙しかったかも。どこでバイトしてたの?」
「花屋で……」
「似合うねー」
「奥名さんは、どこでバイトされてたんですか?」
「俺? 俺は飲食店オンリーだよ。まかないがあるところが良かったんだよね。学生時代は、今よりもずっと食欲があったから」
「あ、俺も夜は飲食店でした。まかないってすごい助かりますよね」
「そうそう! やっぱ食わないとダメじゃん、人間って」
「俺もそう思います」
話に花を咲かせている間に、深津はどんどんと酒を飲んでいる。いつの間にか手酌を覚えてしまっていた。あんまり飲んだことがないというのは本当らしく、そのでたらめなペース配分に付き合っているうちに、奥名もだんだんと酔いが回ってくる。酒の力は偉大で、初対面同士だというのに、だんだんと積日の友のような感覚に陥ってくる。
「深津くん、ダイエットとかしてんの? えらく細いけど」
おおよそ初対面の相手には尋ねないであろうプライベートな質問をぶつけると、深津はぷりぷりと怒りながら答える。
「違いますよ! 節約しなくちゃいけない理由があるんですよ」
「え、なんでなんで?」
「詳しくは言えないんですけど、とにかく下着を新調しなくちゃいけなくて」
「は? 下着?」
「それも、ただの下着じゃないんです。高いやつじゃないと」
「高いって、いくらくらいすんの?」
「この間買ったやつは、一枚二千五百円もしました……」
「まじかよ。高っ!」
想像していた以上の値段が出てきて、手にしたお猪口を落としそうになった。奥名の反応を、深津は嬉しそうに見つめると、バシバシと怒りに任せてテーブルを叩いた。そんなことをしても可愛く見えるのは、深津が相当の美人だからだろう。いつも職場で美人を見慣れている奥名でも、深津の整った容姿には目を奪われる。
「でしょう? 高すぎじゃないですか?」
「高いよー。パンツ一枚で、コンビニ弁当がいくつも買えるじゃん」
「そうなんですよ。でも俺の周り、そんなやつばっかりなんで」
「一枚二千五百円のパンツ履いてるような?」
「それか、それ以上の……」
「深津くん、大変だね。どっかの会社? 外資?」
「いえ、公務員です」
「あ、そうなんだ。俺もだよ。厚労省、っていっても今は本省勤務じゃないんだけど」
言ってから、言い過ぎたかと思ったが、口にしてしまったのだから仕方がない。お猪口の中身をぐいと飲み干し、新たに注ごうと熱燗を傾けたが雫がほんの数滴落ちてきただけだった。すかさず、女主人に追加の注文をする。
「俺もです」
「え? 深津くんのも頼んどいたよ」
「いや、そうじゃなくて。俺も、その、外務省勤務なんです」
「まじで? すごい偶然だな」
そうか、外務省にはこんな美人がいるのか。神子主幹が知ったら、ヘッドハンティングに行きそうだなと思いながら、奥名は牛すじの煮込みをつついた。
「……良かったです」
底の方に沈んだ生姜を箸ですくい上げるのに集中していたら、深津がそんなことを呟いた。何が? と顔を上げれば、酒のせいなのかそれ以外の何かのせいか、潤んだ瞳をした深津が目の前に座っていた。だらりとしたあぐらをかいている奥名と違って、随分と酔いが回っているらしい今でも、深津はきちんと正座をしている。その繊細な肩を少し丸めて、今にも泣きそうな瞳を伏せている様は、鬱憤のたまったサラリーマン男性たちのダミ声が飛び交うこの店では、ゴリラに囲まれたウサギのようだ。長い睫毛が、天井からの照明で頬に影を落としていた。
「何て言ったらいいのか、わかんないんですけど……。俺の周り、本当に腹がたつくらいボンボンばっかりで、その中で俺一人だけ庶民って感じで。何で俺だけ、こんな平凡なんだろうって思ったり、してて。それで……。あ! 違います、違いますよ! 奥名さんが平凡だって言いたいんじゃなくて!」
こんな綺麗な顔しておいて、平凡だなんてよく言えるなあと見つめていただけなのだが、深津は勘違いをしたらしい。必死で両手をぶんぶんと胸の前で振りながら弁解する様は、奥名を、弟ができたような気分にさせる。
「そんなこと、思ってないから大丈夫。でも、深津くんのその感覚、なんとなく分かるかも」
「本当ですか!?」
テーブルから乗り出さん勢いで、深津が背筋を伸ばした。外務省ともなると、超弩級のお坊ちゃんが勢ぞろいしているらしい。深津の置かれた状況にいくばくかの同情を感じながら、奥名は、テーブルに到着した新しい徳利の中身を深津のお猪口と自分のそれへと注いだ。
「うん。俺の場合は、ボンボンっていうより、奇人変人って感じだけど」
笑って日本酒を呷るが、脳裏には、先日の神子主幹の発明したパイテックスから引き起こされた諸々の事件が走馬灯のようによぎる。
「常識が全然通じない人とかがいっぱいいて、配属された直後とか、結構戸惑った」
「奥名さんもですか? 俺もです。ていうか、俺は、まだ戸惑うことが多いです」
「まあ、いいんじゃないか? 別に戸惑ったりしてても。仕事は、こなせてるんだろ?」
「それは、一応……」
「じゃあ、いいじゃん。退屈で死にそうになる職場よりマシだって」
「…………」
あっけらかんと笑って、エイヒレの炙りに七味マヨネーズをつけて頬張る。深津は、小さなお猪口を両手で握って、何やら思いつめた顔で酒に反射する自分の顔を見ているみたいだった。やおら顔を上げると、
「奥名さんってすごいですね」
「え、何が?」
「俺は、そうやって、まあいっかって思えないから……」
「ああ……」
あなたはそうやって、いつもいつも、何でもかんでもまあいいかと流す癖をなんとかしてください、と苦言を呈していた、顔に傷のある男性を思い出して奥名は苦笑する。パタパタと片手を上下に倒して、もう片方の手を後ろに置いて更にだらりとした姿勢になると、
「まあ、性格だしね。深津くんは、深津くんのままでいいんじゃない?」
と、適当なことを口にした。すると、「俺のままで……!」と想像していた以上に琴線に響いてしまったらしく、感銘を受けた表情で深津は大きく頷いている。
「いや、だからさ」
さすがに、純真無垢そうな年下の青年に適当なことを言い過ぎたかと思い、もう少しまともなことを言おうとしたときだった。
物心ついてからずっと、アクション俳優を見てきて目の肥えた奥名の、いわば筋肉アンテナともいうべき触覚が刺激される。ちょうど、大柄な男が店に入ってくるところだった。のれんをくぐるのにも、入り口の天井にぶつからないように頭を傾げて屈まないといけないほどの長身。たぶん、200cmくらいはあるのではないだろうか。のれんで顔が見えないが、その下、黒いスーツに包まれた体は、奥名の好みだった。相手の顔が見えないことをいいことに、じろじろとその美味しそうな、もとい鍛え上げられた体を見回す。
店内に入ってきた男は、ようやく首を伸ばして直立した。精悍な顔立ちに、年齢にそぐわないいぶし銀な雰囲気。寡黙だが鋭い視線を店内にくまなく行き渡らせるその顔には、左の額から左頬の上あたりにまでの傷跡がある。決して睨みつけているわけでもないのに、男が目線をやった先にいたサラリーマンたちは、一様にすくみあがって口を閉ざした。
がやがやと人の声で覆われていた店内が、一瞬、水を打ったかのように静かになる。その瞬間、まるで見計らったかのように、奥名の口から驚きの声が漏れる。
「え? あれ? 岩倉?」
決して大きくないその呟きは、しかし、静かな店内にあっては十二分に通る声であり、それに反応した男——岩倉圭祐その人——は真っ直ぐに奥名の座っている座敷席へと向かってきた。座敷には上がらず、立ったままで奥名の隣に腰だけを下ろす。先ほどまでは感じなかったのに、ガタイの良い岩倉がそこにいるだけで、天井が下がってきたみたいな圧迫感を感じた。深津も、目を丸くして岩倉を見つめている。
「奥名さん。あなた、映画観るんじゃなかったんですか」
開口一番、ため息交じりにそう言われた。む、と口を尖らさせながらも腕時計を見れば、待ち合わせ時間をとっくに過ぎていた。
「うわ、もうこんな時間だったのか」
「携帯は」
「え?」
「携帯は、お持ちじゃないんですか」
「いや、持ってるけど」
「なら、どうして出ないんですか」
「お前、俺に電話してくれたの?」
「はい。割と何度も」
「まじ? でも、一回も携帯なんて鳴ってないし……あれ?」
いつも入れているはずの尻ポケットに手をやるが、携帯はそこにはなく、あたりを探して漸く、上着のポケットに入れていたことを思い出した。きちんとハンガーにかけられた深津の背広とは違い、奥名は私服だったこともあり、適当に丸めて隅っこに置いた上着から携帯を取り出す。確かに、岩倉からの着信はあったようだった。ただし、着信だけでなく、メールもSNSメッセージもだが。ついでに言えば、着信は20回を記録していた。
「電話かけすぎだろ、お前」
「出られない奥名さんが悪いのでは?」
「しょうがないだろ、上着のポケットに入ってて気づかなかったんだから」
半ばやけくそに声を上げれば、岩倉はこれ見よがしに大きな嘆息をついてみせる。息を吸った瞬間に胸筋が上下するのが服の上からでも見てとれて、奥名は岩倉の恨みがましい視線もおかまいなしに、スーツに隠された筋肉を思って目を細める。
「そもそも、映画に興味を示されたのはあなたじゃなかったんですか」
「悪い、つい忘れてて」
「忘れてて?」
「あ、違うからな! お前のことを忘れたって意味じゃなくて、その、なんだ、深津くんとの会話が弾んでて、それで……」
そこでようやく深津の存在に気づいたらしい岩倉は、口を真一文字に引き締めて、にこりともせずに会釈をしてみせる。つられてぺこりとお辞儀をした深津はさしずめ、狼に睨まれるバンビか。
「ああ。えっと、こちら、深津くん。外務省勤務なんだって。深津くん、こっちは岩倉。俺と同じ省勤務なんだけど、部署違い」
「岩倉圭祐です」
「あ……ふ、深津秀一です」
改めて挨拶をしあう二人を横目に、奥名は日本酒を流し込んだ。ついさっき新しい熱燗が届いたばかりだと思っていたのに、もう空だ。徳利を振り女主人に声をかけると、靴を脱いで奥名の隣に陣取った岩倉が、やれやれと首を振る。そんな岩倉を、深津が興味深そうに見つめているので、
「どうした?」
「いえ、何か、同僚に似てるなって思って……」
「口うるさいところが?」
「いや、なんでしょう。ドーベルマンっぽいところ?」
「はははは! ドーベルマン! たしかに、岩倉はドーベルマンっぽいな」
たしかに岩倉のようなドーベルマンを見かけたことがある。すっくと立ち上がった姿。まっすぐに伸びた四本の脚、ピンと立った耳、凛とした横顔。そう考えると、深津の比喩は言い得て妙で、奥名は笑いながら岩倉の背中に手をかけた。手のひらから伝わる岩倉の体温と筋肉の質感が、酔って思考速度が遅くなった脳に、研究所での諸々を思い出させる。
「そういう奥名さんは、酒くさいですよ」
「うるさい」
真顔でそんなことを言ってくる恋人に怒っていると、深津はくすりと微笑した。
「仲良いんですね」
何の含みもないその言い方に、彼は、奥名と岩倉がただの友情関係にあるのだと思われていると察する。奥名にしては歯切れの悪い調子で、
「一応、恋人同士だから……」
と返せば、すぐにその恋人本人が、
「一応?」
と、既に鋭い眼光を更に研ぎ澄まさせて、こちらを睨めつけてくる。隣に座っているだけなのに威圧感を覚えるのは、体の厚みが違うからなのか。
「だから! そういう意味で言ったんじゃないって」
「あなたは、何事につけ雑なんですよ、対応が」
「なんだよそれ」
公衆の面前でも説教してくるのは、岩倉の悪い癖だ。決して奥名はぼーっとしているわけでもないし、警戒心がないわけでもないと自己分析しているのに、なぜか岩倉は信じてくれない。声をかけられる回数や頻度で言えば、確実に岩倉の方が多いはずなのに、どうしてか奥名は外を歩けばすぐにナンパされるような男だと思われている。過保護なのだ。
その甲斐甲斐しさを嬉しく思う自分がいるのも、事実だが。
「言いたいことを言い合えるのって、いいですね」
「どうしたんだ? 職場での悩み?」
深津は、綺麗に箸を扱う。おでんの大根を切るときも、里芋の煮込みを取るときも、食材を丁寧に扱っていた。きっと、そういうしつけを受けてきたんだろう。箸を置くときでさえ、音を立てずにそっと揃えて、深津はため息をついた。
「悩みってほどじゃないんですが……。素直になれたらな、と思ったりすることはあります」
「そうだな、思ってるだけじゃ伝わらないこととかも、あるしな」
ちらりと岩倉の横顔を盗み見る。彼が自分のことを想ってくれていたなんて、つい先日まで気づかなかった。あれだけ学生時代は一緒にいたというのに。一世一代の告白は、冗談だと思われていたし。
「でもさ。素直になるって、そんな難しく考えることもないんじゃないか? 回りくどく考えないで、自分の直感とかに従ってさ。そういうのを続けていけば、自然に言いたいことを真っ直ぐに言えるようになるんじゃない? って、全然根拠はないんだけど」
「やっぱり適当じゃないですか」
「岩倉はうるさい! 黙ってろ」
「でも、素直になっても、分かり合えないかもしれないです」
「え、なんで?」
「何ていうか……俺とは真反対というか、対極にあるやつなんです、そいつ。俺とは、全然違う」
「違うからって、分かり合えないわけではないと思います」
ぼそりと岩倉が言う。もっとも、深いバリトンはどれだけ小さく囁いても、音は確実に響いて相手に聞こえるのだが。耳元で囁かれた数々の言葉が、フラッシュバックする。
「この人は」
岩倉は、奥名に一度顔を向けて示すと、深津に再度向き直る。
「俺とは全然違う性格の持ち主で、正直、どうやったらそんなに適当に、大雑把に、ぽやぽやしたままで生きていられるのだろうと不思議に思うことが多々ありますが」
「おい、言い方!」
「でも、だからといって、それが理由でこの人を理解できないだとか、理解したくないと思うような原因にはなりません」
スーツに身を包んで、滔々と語る岩倉は、まるで作戦内容をレクチャーする軍人のようだ。つられて居住まいをさっきよりも正した深津は、真剣な表情で頷いている。きっと脳内でメモを取っていることだろう。
「なので、そのままのご自分で当たってみたら、意外とそこに壁がなかったことが分かるかもしれません。……出過ぎた真似をしました」
「いえ! すごい参考になりました。ありがとうございます」
往年の映画俳優T倉健のように粛々と頭をさげる岩倉に、はにかんだ微笑みを浮かべながら礼を述べる深津。そして、その横で日本酒を飲み続ける奥名。
商店街でよろめいた時とは違って、すっきりとした表情になると、深津は立ち上がった。いや、正確には立ち上がろうとした。日本酒は足にくると言う。よろけそうになって、両手をテーブルについて膝立ちになると、すみませんと謝った。
「大丈夫、深津くん?」
「は、はい……。お二人の邪魔になるので、もう失礼しようと思ったんですが」
「結構飲んだもんな。付き合ってくれて、ありがとう」
「いえ」
「とはいえ、そのまんまじゃ帰れなくない?」
大丈夫です、と深津は口にするが、どう贔屓目にみても大丈夫そうではない。楽観的な(岩倉に言わせればぽやぽやしている)奥名でさえそう思うのだから、相当だろう。それでも健気に、お二人の邪魔になるわけには、とか、岩倉さんにもアドバイスをいただき、などと殊勝なことを言っている深津だ。
「そういえば……」
思い立って、上着のポケットから財布を取り出し、中を探した。目当てのものを見つけて、その小さな錠剤が包まれたパウチを深津に差し出す。
「これ。あっという間に酔いが覚める薬。うちの上司が作って、所員に絶対持ってろって配ってるんだ」
「何対策ですか」
岩倉が微かに眉間にしわを寄せる。
「飲み会の後とか? 滅多にないけど、接待の後とかで研究所に戻って仕事しなくちゃいけないときとかにさ、酔っ払っているとダメだろ?」
「副作用はないんですか」
「ないよ。って主幹は言ってた」
錠剤を受け取るべきが逡巡している深津に、岩倉が一度頷く。
「薬の効果は保証されています。副作用がないのだったら、服用しても大丈夫なはずです」
「あ、じゃあ……、いただいてもいいですか?」
おずおずと、色素の薄いほっそりとした手が伸びる。きちんと切り揃えられた爪が印象的だった。女主人に頼んだ水で錠剤を服用した深津は、改めて奥名に向き合うと
「えっと、今日は本当にありがとうございました」
と深々と頭を下げた。
「いいよ、そんな。元はといえば俺がぶつかったのが悪いんだし」
じろりと岩倉の視線を感じるが、敢えて無視を決め込む。どうせまた後で、ちくちくと事情を聞かれるに違いない。
「深津くんこそ、仕事帰りで疲れてる中、付き合ってくれてありがとうな。楽しかった」
「……も、です」
「え?」
「俺も、です。こんな風に人とごはんを食べることが、最近はなかったから。その……。ありがとうございました」
「うん。じゃあ、また一緒に飯でも食べようよ」
ぱあっと顔が輝くが、すぐに迷惑はかけられないとでも思ったのか、しゅんと俯く。伏し目できょろきょろと視線をさまよわせながら、
「ご、ご迷惑でなかったら」
と可愛いことを言うので、奥名は破顔する。
「迷惑だったら、こんなに一緒に飲まないって」
「は、はい……」
「あ、岩倉。深津くんの背広取ってあげて」
いそいそと帰り支度を始めた深津は、背広を見たまま固まっている。奥名の言葉に返事もなく立ち上がった岩倉は、そのガタイに似合わない繊細な手つきでハンガーから背広を取ると、深津に差し出した。謝辞とを共に受け取り、背広を着て、何か言いたそうにしている深津に、奥名は笑顔を向ける。
「始めに言った通り。ここは、俺のおごりな」
「でも……」
「いいって、いいって。パンツ分は浮いたろ?」
「パンツ?」
「岩倉は、気にするな。俺らの秘密の会話だから。な」
遠慮がちに、でも微笑んで首肯すると、深津は「これ以上は、本当にお二人の邪魔になりますので」と立ち上がった。
「またなー」
「はい。失礼します」
さすが神子主幹の薬だ。即効性もあるらしい。さきほどよろけていた人物とは思えないほど、しゃんとしている。靴も履いて、奥名と岩倉に向き直ると、お辞儀をした。サラサラの髪が重力に引かれて、深津の顔を覆う。
「大丈夫そうだな」
伸びた背筋に、迷いのない足取りで店を後にした深津の後ろ姿を見て、奥名は安堵の笑みを浮かべた。
「映画って、もう間に合わなそうか?」
背広を脱ごうともしない岩倉に尋ねれば、
「全力疾走すれば間に合います」
しれっと返された。
「走るのは嫌だな。こんだけ食べて飲んでしちゃったから」
「じゃあ、俺が奥名さんを抱えて走りましょうか」
「目立つだろ、そんなことしたら。ただでさえ、俺もお前もでかいんだから」
「途中から観るおつもりですか?」
「んー……」
お猪口に酒を足して、岩倉に勧めながら、奥名は邪気なく微笑んだ。
「映画は、俺ひとりでも行けるから、どっちでもいいんだ」
「じゃあどうして、映画を観に行こうと誘ったときに断られなかったんですか」
「だってさ、仕事帰りのお前と待ち合わせして映画に行くなんて、まんまデートじゃん。楽しいに決まってるだろ」
酒を一息で飲み干すと、岩倉は真顔で、
「あなた、それわざとやってるんですか?」
と聞いてきた。何の話をされているのか、皆目見当もつかない。
「? 何の話だよ。だからさ、俺としては、こうやってお前に会えたから、もうそれでいいんだ」
満足そうに、ひひひ、と笑えば、岩倉は盛大にため息をつく。手酌でお猪口をいっぱいにすると、また一息に飲み干してしまう。
「そういやさ」
「なんですか」
「お前、よく俺がここにいるって分かったな。待ち合わせ場所から微妙に離れてるだろ。どうやって見つけたんだ?」
「……知りたいんですか?」
「う。い、いや、いい。なんか、知らない方がいい気がする」
岩倉が三杯目の酒を飲もうとお猪口を手にした。その腕を自分の方に寄せて、わざと酒を横取りしてやる。半分ほど飲んで、岩倉の顔を見上げた。酒のせいで、視界がふわふわとぼやけている。
「なんにせよ、迎えにきてくれて、ありがとな」
素直に礼を言っただけなのに、岩倉は渋い顔で舌打ちをすると、
「あなた、今晩覚悟しておいてくださいね」
などと言う。またしても何の話をされているのか分からなかったが、まあそんなことは小事だ。日本酒の甘い匂いが、岩倉からもする。きっと今は、二人とも同じ匂いをまとっている。それに大変満足して、奥名は笑って頷いた。
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