(7)自分の判断が一切の基準か
宮田氏の著書や論文を読んでみると、氏の発想の根底にはいわゆる相対主義的な思考があるようである。例えば『牧口常三郎はカントを超えたか』で、氏は幸福観や価値観または真理の捉え方が個人や社会によってさまざまであるとして、次のように言う。
「宗教的信仰と功徳、法罰との因果関係を客観的に規定するためには、幸福観、価値観の多様性ということが障害になってくる。(中略)そこで多くの宗教社会学的調査がしているように、幸福、不幸というものが主観的なものであっても構わないということのほうが、より人間の生活実状に即している」(同書 143 ㌻)
「『永遠の真理』とは一つの理念ではあっても、現実にはそのような真理を所有しているわけではないという相対主義的な見解が大多数の哲学者の見解となっている。そのうえで、なお人々は『真偽』という用語を使用しているが、その使用はその人々が所属する文化的共同体が持つ常識的信念や大多数の学者たちの同意する学問的知識などを含む世界像に依存している」(同書 170 ㌻)
また、宮田氏は論文「『本尊問答抄』について」でもドイツの哲学者シュリックとヴィトゲンシュタインとの論争に触れ、氏自身の結論として「『人々が一致して』受け入れる倫理規範は実際には成立しないだろう」と述べている。
宮田氏は日蓮仏法における曼荼羅や方便品・寿量品の読誦についても相対主義的な立場から捉え、次のように言う。
「曼荼羅にも文化相対主義的問題はある。それは曼荼羅が大部分漢字で書かれているという問題である。漢字文化圏に所属する人々であれば、曼荼羅を見て、その普遍的な救済理念を知ることができるが、漢字文化圏に所属していない人々には、何が表現されているか全く分からない。(中略)仏教はもともと多言語主義だから、曼荼羅が聖別を必要としないのであれば、救済の普遍性のメッセージを伝達することができればよいのだから、曼荼羅も漢字で書かれる必要性はなくなるだろう。日蓮は方便品、寿量品の読誦を必要な修行と認めたが、それも何も漢字の経典を、日本語化した中国語式発音で読誦する必要もないだろう」(『本尊問答抄』について)
氏の発言は真理と価値の両面にわたっているので、いわゆる認識的相対主義と道徳的相対主義の両方を含む立場のようである。相対主義は、古代ギリシャのプロタゴラスが「人間は万物の尺度である」と主張したように、西洋・東洋を問わず大昔から存在した見方で、何もこと新しいものではない。ただ、1960 年代以降に台頭した「ポストモダン」の論調が相対主義的立場に立ったので、相対主義が一時的に流行したような時期もあったが、同時に厳しい批判も提起されており、相対主義の中身にもよるが、「相対主義的な見解が大多数の哲学者の見解となっている」というのは明らかな言い過ぎであろう。
何が正義か、何を価値とするかという判断基準が個人や社会によって多様であるというのは一面の真理だが、それを極端にまで押し進めると、「誰がどのような信念をもってをしようと全てそれは正しい」ということになり、「何をやってもよい」という無秩序、あるいは「全てはどうでもよい」という虚無主義に陥りかねない。自己と他者の間には何の共通性もなく、全く理解不能なエイリアン同士となり、力だけが解決の手段となる弱肉強食の「万人の万人に対する闘争」となる恐れがある。相対主義を突き詰めたら、ホロコーストや無差別テロさえをも倫理的に非難することが不可能となろう。実際、人類史においては他部族・他民族あるいは異教徒や異端者に対する大量虐殺は珍しいことではなかった。しかし、多くの悲惨を経験しながら、互いの差異を超えて共存する道を模索してきたのが人類の歴史であったはずである。
それは、個人や社会における多様性を踏まえながら、同じ人間として共通する基盤があることを発見していく営みであったともいえよう。どれほど文化や言語が異なっていても人間同士の意思疎通は可能であり、またホメロスや司馬遷などを思い起こすまでもなく、文化圏を全く異にする数千年前の文学作品であっても現代人が共感することができる。このような事実は、文化や人種・民族などの差異を超えて、人間が人間存在として共通普遍の基盤を共有していることを示している。第二次大戦後の世界人権宣言で結実した基本的人権の思想は、まさに人間の共通普遍の基盤が存在するという信念に立っている(一切の人権を否定して人種差別・性差別・奴隷制度の復活を公に主張することは、今日の世界においてはまともな議論とは受け入れられないだろう)。人間の持つ多様性と共通性の両面を見ていくのが中庸を得た在り方ではなかろうか。翻って相対主義的な思考は人間の共通性を軽視し、差異性のみを強調し過ぎる偏りがある。
20 世紀を代表する哲学者の一人カール・R・ポパーは相対主義的思考の危険性を指摘し、次のように厳しく断罪している。
「それ(大言壮語の、意味不明の言葉遣いの流儀を指す――引用者)は知的無責任というものです。それは、常識を、理性を破壊します。それは相対主義とよばれるような態度を可能とします。この態度は、あらゆるテーゼは知的には多かれ少なかれ同等に主張可能であるというテーゼを導きます。すべてが許されるのです。ですから相対主義のテーゼは、明らかにアナーキー、法の喪失状態、そして暴力の支配を導くのです」(『よりよき世界を求めて』301 ㌻)
「相対主義は、知識人たちが犯した数多くの犯罪のうちのひとつです。それは、理性に対する、そして人間性に対する裏切りです。ある種の哲学者たちは真理にかんする相対主義を説いていますが、それは、思うに、真理と確実性の観念を混同しているからなのです」(同書 19 ㌻)
人間の普遍性を直視することなくして人類に建設的な貢献をしていくことは不可能であろう。「ポストモダン」の思想が結局は批判に終始するだけで、何ら将来の展望を示すことができなかった原因もその辺にあるといえそうである。
人間の普遍性に関して、哲学者の竹田青嗣氏は「自由」こそが人間存在に共通する本質的な欲望であるとの洞察の上から次のように述べている。
「『自由』が人間的欲望の本質契機として存在する限り、人間社会は、長いスパンで見て、『自由の相互承認』を原則とする普遍的な『市民社会』の形成へと進んでゆくほかはない。ここに含まれる社会の理念は以下のようである。
どんな国家においても、また国家間においても、普遍暴力状態が制御され、政治と経済と文化における自由な承認ゲームの空間が確保されてゆくこと。このことによって、すべての人間が、宗教、信条、共同体的出自、言語、職業、その他の条件によって差別されず、つねに対等なプレーヤーとして承認しあうこと」(『人間の未来』266 ㌻)
普遍性といえば、一切衆生の成仏を標榜する仏教は、人間どころか全ての生命を貫く普遍性を強調する思想である。なかんずく天台大師が確立した一念三千の法理は、五陰世間・衆生世間・国土世間の三世間を含み、植物や岩石など通常は神経や意識を持っていないと考えられてきた非情の存在まで有情と共通の法理に貫かれているとする。三世間の「世間」とは差異・区別を意味する言葉であるから、要するに万物はそれぞれの差異を有しながら、同時に共通・普遍の法の当体であると見るのが一念三千の生命観である。ここに、多様性と普遍性の両面を包含する仏教の卓越性を見ることができよう。
宮田氏によれば、曼荼羅本尊もアルファベットやギリシャ文字、ペルシャ文字、ハングルなど、漢字以外の文字でしたためても差し支えないことになりそうだが、はたしてそうだろうか。曼荼羅が文化的共同体ごとに異なる文字で表された場合、人の流動性がますます活発化している今日、仕事等で世界各地を移動する人は移動するたびに異なる文字の曼荼羅を礼拝しなければならないケースも生ずるだろう。それでは本尊としての普遍性・統一性は全く失われてしまう(方便品・寿量品の読誦についても同様の問題が生ずる。各国語に翻訳されたもので読誦したのでは、国が異なる人同士が一緒に勤行することはできない。修行としての統一性はやはり尊重されるべきであろう)。
曼荼羅本尊は仏の生命そのものであり、妙楽大師が「たとい発心真実ならざる者も正境に縁すれば功徳なお多し」と述べているように、たとえ曼荼羅に記されている文字の意味が全く理解できない人でも、曼荼羅が仏の当体であることを信じて唱題に励むならば、曼荼羅本尊という正しい対境に縁することによって、感応妙の原理により、自身に内在する仏界の生命が触発されるであろう。そもそも曼荼羅に記されている文字は十界の衆生が南無妙法蓮華経に照らされて仏界所具の十界となっている姿を表すもので、礼拝者に対して一定のメッセージを伝達するためのものではない。その意味では曼荼羅に記された文字は論文や消息などの文字とは意義が異なると考えられる。曼荼羅本尊は漢字と梵字で記されているが、漢字や梵字の文化圏に限定された相対的なものではなく、「経王殿御返事」に「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ」(御書 1124 ㌻)とある通り、末法の本仏日蓮と一体不二である仏の当体そのものとして受け止めるべきであろう。
宮田氏の姿勢について、相対主義の問題と併せて気になるのは自己の主観的判断や嗜好を基準とする在り方である。例えば、一般の門下には開示しない教義を一部の限られた門下に教示することを宮田氏は「二重基準」「秘密主義」と規定し、「私としては二重基準を持った宗教者という日蓮像は好きではない」(『守護国家論』について)と述べている。氏がどのような嗜好性を持っても自由だが、宗教者の人間像や教義まで自分の好き嫌いを基準に判断するのは適切ではないだろう。
日蓮が「種脱相対」や「日蓮本仏義」などの内奥の教義を一般の信徒には開示せず、極めて少数の門下にしか示さなかったことは事実として認められる。その事実は他人の好き嫌いなどによって左右されるものではない。例えば種脱相対や曼荼羅本尊について教示した「観心本尊抄」を日蓮は富木常忍に与えたが、その「送状」には「此の書は難多く答少し未聞の事なれば人耳じ目もくを驚動す可きか、設たとい他見に及ぶとも三人四人坐を並べて之を読むこと勿なかれ」(同 255 ㌻)と、同抄を決して多くの人に読ませてはならないと厳しく戒めている。
日蓮が「宗教の五綱」について「行者仏法を弘むる用心を明さば、夫れ仏法をひろめんと・をもはんものは必ず五義を存して正法をひろむべし、五義とは一には教・二には機・三には時・四には国・五には仏法流布の前後なり」(同 453 ㌻)と述べている通り、仏法の弘通は、教理の内容はもちろん、相手の能力(機根)、時代や国土の状況などを総合的に勘案してなされるものであり、誰に対しても一律の内容が開示されるものではない。相手によって異なる教示がなされることにはそれだけの理由と周到な判断があるのであり、その多様な言語表現について「二重基準」「秘密主義」などと非難めいた言辞を弄すること自体が筋違いであり、自身の浅慮を示すものという他ない。「大智慧の者ならでは日蓮が弘通の法門分別しがたし」(「阿仏房尼御前御返事」、御書 1307 ㌻)の言葉を重く受け止めるべきであろう。
宮田氏が仏教の教義についても自身の主観的理解を基準に判断していることは氏の諸論文の随所にうかがえる。例えば、草木成仏についても氏は「非生物である草木が仏になる(=修行もなしで成仏できる)という神秘思想は全く理解できず、日蓮が魂を込めたから、曼荼羅本尊が仏の当体となるという神秘思想も理解できなかった」(SGI 各国の HPの教義紹介の差異について)と述べ、草木成仏の法理を神秘思想であるとして否定している。草木成仏とは、草木や岩石など、感情や意思を持たない存在と考えられてきた「非情」の存在も十界の当体として仏となりうるという法理であり、一念三千の要素である国土世間の概念と結びついている。
草木成仏は一念三千の法門の前提であり、日蓮自身も「観心本尊抄」で妙楽大師の「一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」の文を引いて確認している(御書 239 ㌻)。天台・妙楽・日蓮が一貫して維持してきた草木成仏の法理を神秘思想という一言で排除したならば、三世間の中の国土世間を否定することになって一念三千の法数が成就せず、「一念二千」になってしまう。宮田氏にとっては、天台・妙楽・日蓮が仏教の根本教義としてきた一念三千の法理よりも自身の主観的判断の方が上位に位置づけられている。
「私は合理主義者である」(日興の教学思想の諸問題〈2〉)として合理主義者を標榜する宮田氏は合理性を重視し、理性で当否を判断できない思想は神秘思想として排除する立場に立つようである。しかし、世界は理性で全て解明できているわけではなく、最先端の科学によっても未知の領域はいくらでもある。理性を重んずることは正しい態度だが(日蓮も「三証」の一つとして「理証」を挙げている)、同時に理性の限界を認識しておくことも重要である(ソクラテスの「無知の知」はその意味において理解することもできよう)。竜樹や天台の著述にある「言語道断・心行所滅」という言葉も世界を貫く真理が言語や人間精神の力では把握し表現できないことを示している。理性が判断できないものを全て拒絶するという理性至上主義でなく、人間の理性では把握できないものがあり、現在は正しい知識とされているものも絶対的なものではなく、未来には誤りとされて修正される可能性があることを認める謙虚さが必要ではなかろうか(ちなみに植物も 歴れっきとした生物であり、宮田氏が「非生物である草木」としているのは明らかな誤りである。また、氏は草木成仏について「修行もなしで成仏できる」こととしているが、自行化他にわたって唱題に励む仏道修行は人間のみがなしうることであり、人間以外の動物は行うことはできない。その点では動物も植物と同列である。氏は、仏性があるのは人間だけで、人間以外の動物には仏性はないとするのであろうか)。
最近のウイルス学の知見によれば生物と非生物の区別はあいまいになっており(生物と非生物を厳密に区別できない)、有情と非情の両者を包含して万物を生命の当体として把握しようとする一念三千の思想は、むしろ現代の学問からも支持されるものになっていると思われる。草木成仏の法理は現代の学問の方向性と合致しており、決して理解不能な神秘思想などではない。
各人の理解が判断の基準であるという相対主義的立場に立つ氏は、自分が理解できないものは全て排除し、否定しているようである。しかし法華経は、「仏の成就したまえる所は、第一希有け う難解の法なり。唯ただ仏と仏とのみ乃いまし能く諸法の実相を究尽したまえり」(法華経 108 ㌻)、「又た舎利弗に告ぐ 無漏不思議の 甚深微妙の法を 我れは今已に具え得たり 唯だ我れのみ是の相を知れり 十方の仏も亦た然なり」(同 111 ㌻)と説き、仏が悟達した甚深の法は仏のみが知り得るものであって、声聞・縁覚・菩薩などでは知り得ないものであるとしている。「言語道断・心行所滅」の言葉と同様、仏の悟った法は二乗などが用いる合理的判断力を超越したものであるとするのである。その故に仏法の領解は、智慧第一の舎利弗ですら自身の智慧ではなく法に対する信によって初めて可能になると説かれる(「以信得入」)。
それに対し、自分の理性的判断で理解できないものを全て神秘思想として否定する態度では罪障消滅(宿命転換)や人間革命、あるいは祈りの力ということも受け入れられないものとなるのではなかろうか。およそ宗教とは、妙法といい神というなど呼称は様々であるとしても、死後の問題を含めて、人智を超越した何ものかを信ずることに他ならない。それ故に、理性で判断できないものは全面的に排除するという単純浅薄な合理主義にとどまっていたのでは、結局のところ宗教を取り扱うことは不可能となろう。
現代人である以上、各自の合理的理解で物事を判断していくのは当然だが、同時に理性は万能ではなく、世界には理性の力では把握できない領域があり、また各自の判断が誤まったものとして常に修正される可能性があることを知らなければならない。その認識を持たず、自己の理解が常に正しいものとして自己の見解に固執し、他者からの批判を拒否して自分を特権的立場に置くことは一つの傲慢として否定されよう。仏教においては仏や師匠の教えよりも自分の判断を優先させる態度が顕著な禅宗に対し(「殺仏殺さつぶつさっ祖そ」〈臨済義玄〉という禅宗の言葉は象徴的である)、天台大師は『摩訶止観』で「謂い 己こ 均仏きんぶつ( 己おのれ、仏に均ひとしと謂おもう)」として厳しく破折した。自己の理解を一切の基準にする姿勢は、天台のこの批判に当たる恐れがあると思われる。