(5)釈迦仏像の礼拝を容認すべきか
宮田氏は公表されている論文「学問的研究と教団の教義ー創価学会の場合」では明言を避けているが、他の論文では明らかに釈迦仏像の造立・礼拝を認める場合もあり得るとする。例えば「日興の教学思想の諸問題(2)――思想編」で氏は次のように述べている。
「日蓮、日興の思想にあくまでも従うという原理主義を採用するならば、もし現在がまだ逆縁広布の時代だと判断すれば、曼荼羅本尊を主張するだろうし、もし現在が順縁広布の時代であると判断すれば、釈迦仏像本尊を許容するだろう」
氏の見解によるならば、順縁広布の時代と判断した場合には曼荼羅本尊に替えて釈迦の仏像を礼拝するという驚くべき事態が起こりうることになる。氏のこの見解は、正信会の大黒喜道の説を踏襲したものと思われるが、「逆縁広布=曼荼羅本尊、順縁広布=仏像本尊」という大黒の説は、「曾谷入殿殿許御書」にいう「一大秘法」は万年救護本尊に当たると主張するなど、極めて主観的な憶測に基づく、客観的根拠に欠けた見解で、荒唐無稽な「珍説」という他なく、一般に到底支持できるものではない。
翻って日蓮は本尊をどのように考えていたか。日蓮が門下に対して礼拝の対象である本尊として授与したものは曼荼羅本尊以外にない。門下が釈迦仏像を造立したことを容認した例は富木常忍と四条金吾夫妻だけで、日蓮が門下に対して釈迦仏像の造立を積極的に勧めたことは一切ない。日蓮が富木常忍と四条金吾夫妻の釈迦仏造立を容認したのは、本といえば絵像・木像の仏像であるという観念が支配的だった当時の社会通念を踏まえ、人々が阿弥陀如来や大日如来に傾いている中で釈迦仏像を造立することは他経に対して法華経を宣揚する権実相対の趣旨からは正しい方向であるとしたのであろう。もし日蓮が富木常忍らの釈迦仏像造立を厳しく破折したならば、法華経を信仰してきた彼らの信心そのものを破壊する恐れがあったと思われる。日蓮による釈迦仏像造立の容認は極めて例外的なことであり、文字曼荼羅が本尊であることが十分に理解できなかった当時の門下の機根を考慮しての化導であった。
日蓮は、伊豆流罪の時に地頭伊東八郎左衛門から贈られた釈迦の一体仏を随身仏として所持したが、それは日蓮自身の境地においてなされたことであり、門下に対して釈迦一体仏を本尊とするように教示したことは一切ない。日寛が「末法相応抄」で「吾が祖の観見の前には一体仏の当体全く是れ一念三千即自受用の本仏の故なり」(『六巻抄』172 ㌻)と述べていることが妥当であろう。
身延派の中興の祖とされる行学院日朝の「元祖化導記」によれば、日蓮は臨終の前日、それまで安置していた釈迦の一体仏を退け、曼荼羅本尊を掛けるよう指示したと伝えられる。そこにも文字曼荼羅を本尊とする日蓮の最終的な意志が示されているといえよう。また、日興の「宗祖御遷化記録」によれば、日蓮は臨終に先立ち、釈迦の一体仏を自身の墓所の傍らに置くよう遺言した。その処置においても釈迦仏像を門下が広く礼拝する本尊とするのではなく、日蓮を偲ぶためのものとして扱うべきであるとの意図をうかがうことができる。
日蓮は「観心本尊抄」で、本尊について次のように述べている。
「其の本尊の為 体ていたらく本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼
仏・多宝仏・釈尊の脇士きょうじ上行等の四菩薩・文殊弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣うんかく月げっ卿けいを見るが如く十方の諸仏は大地の上に処し給う迹仏迹土を表する故なり」(御書 247 ㌻)
ここに言う「塔中の妙法蓮華経」とは曼荼羅本尊の中央に大書されている「南無妙法蓮華経」を指し、その「左右に釈迦牟尼仏・多宝仏」とは「南無妙法蓮華経」の左右にしたためられている釈迦牟尼仏と多宝如来であることは明らかである。すなわち、この文はまさに曼荼羅本尊の「為 体ていたらく」すなわち相貌を述べたものに他ならない。
また日蓮は「本尊問答抄」で、「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」(同 365 ㌻)として「法華経の題目」すなわち南無妙法蓮華経を本尊とすべきであると教示し、さらに「問うて云く然らば汝云い何かんぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能 生のうしょうを以て本尊とするなり」(同 366 ㌻)として釈迦仏を本尊としない理由を明示している。
すなわち、釈迦を含めた諸仏は法華経から生み出された(所 生しょしょう)の存在に過ぎず、法
華経こそが諸仏を生み出した能生の存在であるから法華経を本尊とするのであるという。もちろん、ここでいう法華経とはテキストとしての法華経ではなく、法華経の題目すなわち南無妙法蓮華経を意味している。
日蓮は「観心本尊抄」の段階ではまだ含みのある表現を残していたが、「本尊問答抄」では釈迦仏を本尊としない立場を明示している(釈迦本仏義の否定)。この見地を踏まえるならば、「観心本尊抄」が曼荼羅本尊と釈迦仏像の両論併記であるという宮田氏の理解は日蓮の真意を読み誤ったものと言わなければならない。日蓮の具体の振る舞いに照らしても、また文献に示された教示に照らしても、日蓮仏法の本尊は曼荼羅本尊のみであり、釈迦仏の仏像を本尊とする教義は日蓮には存在しない。
「原殿御返事」に「日興一人本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき仁じんに相当って覚え候へば」(編年体御書 1733 ㌻)とあるように、自身こそが日蓮の教義を正しく継承しているとの自覚に立っていた日興は、当然のことながら曼荼羅本尊正意の立場を堅持し、生涯の最後まで日興門流の寺院に釈迦の仏像を造立することを絶対に許さなかった。日蓮の滅後、身延の地頭波木井実長が釈迦の仏像を造立して本尊としたことを日興は謗法と断じ、地頭の謗法が明確になった以上、身延にとどまっていたのでは日蓮の正義を保持することができないとして身延を離山している。この行動を見ても、日興が釈迦の仏像造立・礼拝を重大な仏法違背としたことが理解できよう。
日興の曼荼羅本尊正意の立場は「富士一跡門徒存知の事」および「五人所破抄」の次の文に明確に示されている。
「日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為なさず、唯ただ御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」(「富士一跡門徒存知の事」、御書 1606 ㌻)
「日興が云く、諸仏の荘厳同じと雖も印いん契げいに依つて異を弁ず如来の本迹は測り難し眷属
を以て之を知る、所以ゆえに小乗三蔵の教主は迦葉・阿難を脇士と為し伽耶がや始し成じょうの迹仏は普賢文殊左右に在り、此の外の一躰の形像豈あに頭陀の応身に非ずや、凡およそ円頓の学者は広く大綱を存して網目を事とせず 倩つらつら聖人出世の本懐を尋ぬれば源もと権実已過の化導を改め上行所伝の乗戒を弘めんが為なり、図する所の本尊は亦正像二千の間・一閻浮提の内未曾有の大漫荼羅なり、今に当つては迹化の教主・既に益無し況や哆哆婆和た ばわの拙仏をや、次に随身所持の俗難は只ただ是れ継子一旦の寵愛・月を待つ片時の螢光か、執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば 須すべからく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆることなかれ云云」(「五人所破抄」、同 1614 ㌻)
日興は、日蓮仏法の本尊はあくまでも曼荼羅本尊であることを前提にした上で、どうしても仏像を造立したいと仏像に執着する者が出た場合には、釈迦の一体仏ではなく、脇士に上行等の四菩薩を加えて造立することを条件に、例外的処置としてそれを認めている。これは、日蓮が富木常忍・四条金吾夫妻の釈迦仏像造立を例外的に容認したのと同様、門下の機根を鑑みた上での方便と理解すべきである。当時は本尊といえば絵像・木像の仏像と考える観念が強く、門下に対して仏像造立を全面的に禁止したのでは法華経の信心そのものが維持できない場合もありえたからである(四菩薩の造立を条件にしたことによって仏像の造立を抑制しようとしたとも考えられる)。
曼荼羅本尊正意の立場を堅持する日興に対し、宮田氏は「あまりにも曼荼羅本尊に執着しすぎ、釈迦仏像造立に消極的な日興の偏向であるとされても仕方がないだろう」(日興の教学思想の諸問題(2)――思想編)と批判している。釈迦仏像造立を認める宮田氏が日興を「あまりにも曼荼羅本尊に執着しすぎ」であり、「偏向」であると批判するのはもとより自由だが、しかしその姿勢は日蓮や日興よりも自己自身の判断を上位の基準とすることになっていないだろうか。それは「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」との仏法の基本的な戒めに違背するものとならないだろうか。
日蓮と日興が文字曼荼羅を本尊としたのは仏法上の深い必然性があったが故と解せられる(文字曼荼羅でなければ本尊を礼拝する人間を含めた十界の衆生が妙法に包摂されること、また南無妙法蓮華経と日蓮が一体不二であるという人法一箇の法理を表し得ない)。日蓮仏法について考察していくのであるならば、自分の考えを判断基準にして裁断するのではなく、日蓮、日興の言葉に謙虚に耳を傾ける在り方がもう少しあってもよいのではないかと思われる。
(6)学説が確かな根拠になりうるか
宮田氏の諸論文を読んでいて気になるのは、氏が学術的であることを至上価値と考え、学問の世界で認められている学説を判断の基準にしているように見受けられることである。例えば、身延派の学者による「御義口伝」偽作説に対して日蓮正宗側が反論していることについて、氏は次のように言う。「宗門から反論を出すだけで決着するような問題ではなく、むしろ印仏学会などの専門学会で、学会発表、学術論文での論争の上で決着するのでなければ学術的な議論をすることはできない。少なくとも日蓮正宗を代弁する形で、専門学会でそのような主張がなされたということを私はまだ聞いていない」(漆畑正善論文「創価大学教授・宮田幸一の『日有の教学思想の諸問題』を破折せよ」を検討する)。
これでは専門学会での発表や論文以外の言論は論評するに値しないと言っているに等しく、アカデミズムの傲慢、慢心と言われてもやむを得ないだろう。学問は本来、万人に開かれたものであり、専門学会に属する者だけが独占するものではない。専門学会での議論はもちろん意味はあるが、専門学会外の言論に対して専門学会での議論であるというだけで優越的・特権的地位を有するものではない。もしも専門学会の外の言論は学問的に認めないという傲慢な態度に終始していたならば、その学問自体が視野狭窄状態に陥って一般社会との繋がりを失い、硬直化していくだけであろう。宮田氏も専門学会での発表や学術論文以外の主張を相手にしていたのでは学術的な議論をすることはできないなどと「上から目線」で門前払いしていないで、日蓮正宗の言い分についてもそれこそ学術的な態度で誠実に論評すべきではないだろうか。
そもそも専門学会における支配的な学説といっても、ある時点において認められていただけで永遠不滅のものではない。ある時点では支配的な学説も、時代が経過すれば誰からも支持されない過去の遺物になっていく場合があることは、学問の分野を問わず、むしろ通常一般の在り方である。仏教学の分野の例を挙げれば、大乗仏教の起源について、かつては平川彰博士が提唱した仏塔起源説が支配的な通説だった時期があったが、今日ではその説はほとんど支持されていない。研究者の共通認識とか一般的な学説などといっても、その時代時代の風潮の反映であり、確固不動の基準になるものではない。人間の持つ知識はどこまでも暫定的なものであって、後になれば誤りであったことが判明する可能性をはらんでいる。従って、専門学会における一般的な見解だからといって、それを絶対視することはむしろ大きな誤りを犯す恐れがある。
諸学問がますます細分化されている今日、少数の仲間内だけにしか通用しない閉鎖的議論に終始する結果、その議論が一般社会の感覚から懸け離れ、「専門学会の常識が世間の非常識」になる場合も稀ではない。学問の「たこつぼ化」の反省から、専門の枠を超えた学際的・総合的な洞察が求められている今日、専門学会での議論でなければ相手にしないなどという思い上がった尊大な態度はむしろ厳しく批判されなければならない。
さらに気になるのは、それほど専門学会での議論を重視している当の宮田氏の諸論文が、自分の所属している大学や研究所の紀要ばかりで、厳正なレフェリーシステムがある全国的な専門学会の機関誌(例えば日本哲学会の「哲学」など)に掲載されたものが、氏の専門である哲学の分野を含めて、皆無であるということである。
一般論として、専門学会の機関誌への寄稿がなければ社会に通用する研究者とは認められない。この点について日本中世史の研究者である細川涼一氏は次のように述べている。「われわれ大学院生につねに温顔をもって接して下さった先生〈佐々木銀弥氏を指す――引用者〉は、しかし、研究者として自立し通用するためには大学内の雑誌に書くのではなく、レフェリーシステムのある学会誌に投稿するよう厳しく指導された」、「外で通用する研究者になるようにとの佐々木先生の忠告・助言がなかったなら、研究者としてともかくも自立している今日の自分はなかったように思う」(『中世の身分制と非人』あとがき)。
大学や研究所の紀要は、他の研究者によるチェックがほとんど入らないので、執筆者がそれこそ自分の好きなように書くことができる。宮田氏の諸論文が学術論文のような形をとっていながら、内容が極めて主観的で説得力に乏しいのはこのような事情も働いているようである。