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⑥天台大師が示す教主交代の思想


先に、釈迦仏法の救済力が失われた場合には釈迦仏以外の仏によって衆生が救済されるという思想が法華経の中にあるということを述べたが、天台大師の中にも教主交代の思想がある。それを端的に示すのが『法華文句』の中で釈迦仏と不軽菩薩の化導の在り方の相違を論じた次の文である。

「問う。釈迦は出世して踟蹰ちちゅうして説かず。常不軽は一たび見て造ぞう次じにして言うは何ぞや。答う。本已すでに善有るは、釈迦、小をもってこれを将護し、本未だ善有らざるは、不軽、大をもってこれを強ごう毒どくす」(国訳一切経 461 ㌻)

〈現代語訳 問う。釈迦は世に出ても、ためらって法を説かなかったが、常不軽菩薩は人をひとたび見ると、間を置かずに法を説いた。その相違にどのような意味があるのか。答える。釈迦は本から善根をもっている衆生に対し小さな教えを説いて、彼らの善根を損なわないように擁護したのに対し、不軽菩薩は本から善根をもたない衆生に対し大いなる教えを説いて、強いて逆縁によって彼らを導いたのである〉

ここでは釈迦仏が、本から善根をもっている(本已ほ ん い有う善ぜん)衆生に対し、彼らに正法を誹謗させてその善根を破壊させないように配慮しながら、順縁の方式によって小さい教えを
説いたのに対し、不軽菩薩は本から善根をもっていない(本ほん未有み う善ぜん)衆生に対し、彼らが正法誹謗の罪を犯すことを恐れず、むしろ彼らに謗法の罪を犯させることで正法に縁を付
けていく逆縁の方式によって衆生を化導したと説かれている。

それを整理すれば、次のようになる。

釈迦――本已有善――順縁――小法
不軽――本未有善――逆縁――大法


天台大師によれば、釈迦仏の化導は、本から善根をもっている衆生に対して行うものであり、初めから善根をもっていない衆生に対しては有効性をもたない。そのような衆生に対しては、不軽菩薩のように、より偉大な法を直ちに説いて逆縁によって救済する以外にない。つまり、仏法の化導法には釈迦仏が行った順縁の方式と不軽が行った逆縁の方式二つがあり、前者が無効になった時代には後者を用いなければならないということである。そのことを教主の視点から言えば、釈迦仏の化導が無効になった時代には不軽に当たる存在が釈迦仏に代わってその時代の教主となるという「教主交代」の原理がそこに示されている(不軽菩薩は釈迦仏の成道以前の修行時代の名前と説かれるが、日蓮が「釈尊我が因位の所行を引き載せて末法の始を勧励したもう」〈御書 1371 ㌻〉と述べているように、釈迦仏の過去世の姿という形を借りて実際には未来に出現する法華経の行者の実践を示すものになっている)。

本已有善の衆生が尽きて本未有善の衆生だけになった時代とは釈迦仏法の救済力が失われた末法に他ならない。日蓮は、この『法華文句』の文を引いて、真蹟が完存している「曾谷入道殿許もと御書」で次のように述べている。

「今は既に末法に入つて在世の結縁の者は漸漸に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ彼の不軽菩薩末世に出現して毒鼓ど っ くを撃たしむるの時なり」(御書 1027 ㌻)

日蓮は佐渡流罪以降、自身と不軽菩薩との一致を強調した。例えば、かつて真蹟が存在していたことが明らかである「顕仏未来記」には次のように記されている。

「例せば威音王仏の像法の時・不軽菩薩・我が深じん敬きょう等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し一国の杖木等の大難を招きしが如し、彼の二十四字と此の五字と其の語殊ことなりと 雖いえども其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人・日蓮は名字の凡夫なり」(同 507 ㌻)

日蓮が自身と不軽の一致を強調するのは、日蓮が不軽菩薩と同じ逆縁の方式をもって本未有善の衆生を救済していく末法の教主であるとの確信に立っていたことを示している。このように解するならば、「曾谷入道殿許御書」「顕仏未来記」は、両者あいまって日蓮の中に日蓮本仏論があることを示す文献ということができる。

この両抄は、それぞれ単独でも日蓮本仏論をうかがうことのできる内容がある。「顕仏未来記」では正嘉の大地震などの天変地夭が仏陀釈尊の生滅の時に現れた瑞相に匹敵するものであるとし、「当に知るべし仏の如き聖人生れたまわんか」(同 508 ㌻)と、日蓮が聖人(仏)であることを示唆している。また「曾谷入道殿許御書」には「予 倩つらつら事の 情こころを案ずるに大師(伝教大師のこと――引用者)薬王菩薩として霊山会上りょうぜんえじょうに侍じして仏・上行菩薩出現の時を兼ねて之を記したもう故に粗ほぼ之を喩さとすか、而るに予よ地涌の一分に非ざれども兼ねて此の事を知る故に地涌の大士に前さき立だちて粗ほぼ五字を示す」(同 1038 ㌻)と末法の教主が上行菩薩であることを示し、謙遜の表現ながらも日蓮が妙法五字を弘通する教主であることを明かしている。


天台大師が釈迦仏に代わる新しい仏の出現を予見した文は、先に引いた釈迦と不軽を対比した文だけではない。法華経宝塔品で、釈迦・多宝の二仏が宝塔の中で並座したと説かれることについて、天台は『法華文句』で「前仏已すでに居し、今仏並びに座す。当仏もまた然しかなりと」(国訳一切経 359 ㌻)と述べている。「前仏」とは多宝如来であり、「今仏」とは釈迦牟尼仏である。天台は、多宝・釈迦と並んで未来の仏(当仏)も宝塔の中に座るというのである。すなわち天台は久遠実成の釈迦仏も永遠不滅の存在と捉えず、未来には新たな仏が出現することを予言している。実際に法華経は、寿量品で釈迦仏の五百塵点劫の成道を説きながら、次の分別功徳品ではその釈迦仏も永遠不滅の存在ではなく、仏の「滅後」があることを強調し、「悪世末法」の到来を説いている。天台の洞察は、この分別功徳品の趣旨にも合致していることが理解できよう。

この『法華文句』の文は日蓮が「御義口伝」で宝塔品を論じた冒頭に引用している文である(宮田氏は「御義口伝」「御講聞書」を後世の偽作として全面的に排除する立場に立っているが、それは適切とは思われない。「御義口伝」「御講聞書」は日蓮の思想をうかがうための重要資料として用いるべきである)。

周知のように、日蓮は釈迦・多宝の二仏が並座する虚空会の様相を用いて曼荼羅本尊を図顕したが、先の『法華文句』の文を曼荼羅本尊の相貌に当てはめるならば、釈迦・多宝と同様に宝塔の中に座る「当仏」(未来の仏)とは二仏の間の中央に大書される「南無妙法蓮華経 日蓮」に他ならない。その相貌は釈迦・多宝が「南無妙法蓮華経 日蓮」の脇士になることを意味している(このことは「報恩抄」に「所謂いわゆる宝塔の内の釈迦多宝・ 外そのほかの諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし」〈御書 328 ㌻〉と述べられている)。


⑦仏教の東漸と西還――仏教交代の原理


日蓮は正像に仏教がインドから中国・日本へと東漸したことに対し、末法には仏教が日本からインドへと西還することを強調した。例えば「顕仏未来記」には次のように説かれている。

「月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く」(同 508 ㌻)

「後五百歳の 始はじめに相当れり仏法必ず東土の日本より出づべきなり」(同㌻)

また、「諫暁八幡抄」の真蹟部分には次のようにある。

「天竺国をば月がっ氏し国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑ふ そ う国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり、仏は法華経謗法の者を治じし給はず在世には無きゆへに、末法には一乗の強敵充満すべし不軽菩薩の利益此れなり」(同588 ㌻)

この両抄において日蓮は、正法・像法時代にインドから出て日本に伝わった仏教を月に譬え、末法に日本からインドに還っていく仏教を太陽に譬えて、末法出現の仏教の力用が正像の仏教に勝るとしている。正像に西から東に伝わった釈迦仏法が正法誹謗の者を救えなかったのに対し、末法の日本に出現した仏法は不軽菩薩が逆縁をもって衆生を利益した原理に基づき、正法誹謗の強敵をも救済する力用を具えることを明示する。

末法の日本に出現してインドに西還していく仏教とは日蓮が確立した仏教に他ならない。すなわち日蓮は、自身が確立し未来に弘通する仏教が従来の釈迦仏教を踏まえながらもそれを超越した新たな仏教であることを明らかにしたのである。釈迦仏法から日蓮仏法への転換、交代がここに明確に示されている。「あに聖人出で給わざらむ」との言葉は、末法万年の闇を照らす仏教を創始した日蓮こそ末法の本仏(教主)であるとの宣言と解することができる。


⑧上行への付嘱の意味――教主交代の思想


法華経は従地涌出品第 15 において釈迦仏の滅後に法華経を弘通する主体者として六万恒河沙の地涌の菩薩を出現せしめ、神力品第 21 において地涌の菩薩、なかんずくその上首である上行菩薩に仏滅後に法華経を弘通する使命を付嘱した。すなわち、法華経は釈迦仏の滅後に仏法弘通の使命を担う地涌の菩薩の出現を予言した経典である。ただし、神力品で釈迦仏が地涌の菩薩に弘通の使命を託した法体は文上の法華経ではなく、文底において暗々裏に指し示した根源の妙法と解すべきである。この根拠について、筆者は拙著『新法華経論』で次のように述べた。

「この裏付けとして、神力品の偈において『秘要』の言葉が用いられていることが挙げられよう。神力品の偈では次のように説かれる。『諸仏が道場に座って得た秘要の法を、この経を受持する者は、わずかの間に得ることだろう』と。諸仏が得たのは『秘要の法』であり、それを『この経(=法華経)』を受持することによって得ることができるというのである。すなわち、テキストとしての『この経(法華経)』と『秘要の法』は同一ではない。法華経を通して秘要の法に至るのである。ここでいう『この経』とは、法華経の文上の言葉において示された内容である。『秘要の法』とはその文上の内容が暗々裏に指し示した隠された秘密の法であり(文によって明示的に示されていないという意味で『文底』である)、羅什が経典の題号に示した『妙法』に他ならない。あらゆる仏はその妙法を得ることによって仏と成ったのであり、まさにこの秘要の法(=妙法)こそ、あらゆる仏を仏ならしめた根源の存在である。神力品は、寿量品と同様に、文上・文底という二重構造の存在を明かしているのである」(同書 329 ㌻)

法華経は、法華経自体が人々を救済する力を喪失した末法に根源の妙法を弘通する無数の地涌の菩薩が出現することを予見し、そのことによって地涌の菩薩の弘通を助けようとしたのである。この神力品の予言に応えて末法に妙法を弘通した存在こそ日蓮に他ならない。すなわち、法華経は末法における日蓮の出現を予言したところにその意義がある。この点について日蓮は「法華取要抄」で法華経は誰のために説かれたのかという問題を提起し、「寿量品の一品二半は始より終に至るまで正く滅後衆生の為ためなり滅後の中には末法今時の日蓮等が為なり」(御書 334 ㌻)、「疑つて云く多宝の証明・十方の助舌・地涌の涌出此これ等らは誰人の為ぞや、答えて曰く(中略)此等の経文を以て之を案ずるに 偏ひとえに我等が為なり」(同㌻)と述べている。

事実の上で日蓮以外に妙法を弘通した存在はいないのであるから、日蓮が上行菩薩の再誕に当たるとの認識は広く日蓮在世の門下にもあったと考えられる。日興の写本がある「頼基陳状」に「日蓮聖人の御房は三界の主・一切衆生の父母・釈迦如来の御使・上行菩薩にて御坐お わ し候ける」(同 1161 ㌻)とあることがその裏づけとなろう。今日においても日蓮宗各派は日蓮が上行菩薩に当たるとする認識ではほぼ一致している。

もちろん日蓮は通常の御書において自身が上行菩薩に当たると明言することはなく、「地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり」(諸法実相抄、御書 1359 ㌻)、「地涌の菩薩の出でさせ給うまでの口ずさみにあらあら申して」(本尊問答抄、同 374 ㌻)、「日蓮は此の上行菩薩の御使として」(寂日房御書、同 903 ㌻)等と、一貫して謙遜の表現に終始している。上行菩薩は釈迦仏から末法弘通の大権を授与された末法の教主であるから、自身が上行であると明言することは人々の疑惑を生じかねないので注意深く回避したのであろう。

問題は、日蓮宗各派が「日蓮=上行」との認識は持っているが、上行が釈迦仏から末法弘通の権限を与えられた、いわば「如来の使い」であるから、やはり仏教全体の教主(本仏)は釈迦仏で、上行は釈迦仏より下位に当たる菩薩に過ぎないとしていることである(日蓮宗各派による「日蓮大菩薩」の呼称もその認識による)。宮田氏も同様の見解に立っているようで、漆畑正善論文「創価大学教授・宮田幸一の『日有の教学思想の諸問題』を破折せよ」に反論した論文の中で宮田氏は「末法の主師親としての日蓮は、あくまでも仏道全体の主師親である久遠実成仏から、末法の衆生救済という権限を与えられたと日蓮自身も認めていると私は理解している」と述べている。

もちろん、経典の文字の上では地涌の菩薩は久遠実成の釈迦仏から教化されてきた弟子であり、地涌の上首である上行菩薩は釈迦仏から末法における仏法弘通の使命を託され、その権限を与えられた存在として説かれている。日蓮自身も先に引いた「頼基陳状」をはじめ、経典上の内容を尊重することを基本とした。しかし、地涌の菩薩の本質は経典の表面的な教相だけで把握できない面がある。そのことを示すのが地涌の菩薩を登場させた涌出品の内容である。

まず、地涌の菩薩は身体が金色で、三十二相を具え、無量の光を放っていると説かれる。眉間白毫相などの三十二相は仏や転輪聖王が具える徳相で、通常の菩薩が持つものではない。このことは地涌の菩薩が通常の菩薩の範疇を超えたものであることを示唆している。さらに驚くべきことは、地涌の菩薩が師匠である釈迦仏をも超える尊貴な姿を持っていると説かれることである。釈迦仏は、地涌の菩薩は自分が久遠の昔から教化してきた存在であると説くが、対告衆である弥勒菩薩をはじめとする会座の大衆はその仏の言葉を信ずることができない。釈迦仏はガヤ城の近くで成道してから四十余年過ぎただけなのに、どうしてこの短期間に六万恒河沙もの地涌の大菩薩を教化することができたのか、という疑問を抱いたからである。そして、釈迦仏が地涌の菩薩を教化したと説いたことも、譬えて言えば 25 歳の青年が 100 歳の老人を指して「この者は私の子供である」と言うようなもので、到底信ずることができないというのである。

菩薩とは本来、成仏を目指して修行に励む存在をいう。その菩薩が目標としている仏よりも既に偉大な姿を持っているという。また、地涌の菩薩は釈迦仏から教化されてきた弟子とされているのに、地涌の菩薩の方が師匠を超えた尊貴な相を具えているとされる。これは、通常の観念では理解できない「謎」という以外にない。この謎については、古来、ほとんど考察されておらず、謎のままで放置されてきた。日蓮宗の学者の中にはこの謎が解明できないので、後世に付加された部分であるとして、自分の理解が及ばない箇所を切り捨てようとする者すらある。しかし、「仏を超えた菩薩」「師匠以上の境涯の弟子」という、この不可解な謎にこそ地涌の菩薩の本質を示唆する鍵がある。

この点について、拙著『新法華経論』では次のように論じた。

「仏よりも尊高な菩薩、師よりも偉大な弟子――。これは何を意味しているのか。それはすなわち、地涌の菩薩は『菩薩』として登場しているが、その実体は菩薩の範疇を超えた存在、すなわち仏であることを暗示しているといえよう。地涌の菩薩が娑婆世界の下方の虚空に住していたとされることも、彼らが生命の根底である第九識に立脚していること、すなわち仏の境涯にあることを象徴している。また、地涌の菩薩が仏の特徴である三十二相を具えるとされていることも、その本質が仏であることを示すものと解せられる。

すなわち、地涌の菩薩が菩薩として法華経の会座に登場するのはあくまでも外に現れた姿(外用)に過ぎず、その本質(内証)はすでに妙法を所持している仏である。地涌の菩薩が仏として登場しないのは、経典の約束事として一つの世界の教主である仏はあくまでも一仏であり(多宝如来のように他仏が証明役として登場することはあるにしても)、教主以外の仏が並列しては混乱をきたすことになるからであろう。

天台大師が『法華文句』で地涌の菩薩を指して『皆是れ古仏なり』(国訳一切経四〇六頁)と述べている通り、地涌の菩薩は単なる菩薩ではなく、その本質は仏であると解さなければならない。

涌出品は、次の寿量品で釈迦仏の本地が久遠の昔に成道した仏であることを示すために地涌の菩薩が釈迦仏によって教化された弟子であるという構成をとらざるを得ず(釈迦仏が無数の大菩薩を教化してきたとすることによって、釈迦仏が今世で初めて成道した仏ではないことを示すことができる)、地涌の菩薩の本地が仏であることを明からさまには示せないので、それを暗々あんあん裏りに示すために仏よりも尊高な菩薩という不可解な表現をとったと解せられる。そこに、暗喩あんゆ を駆使した法華経の巧みな手法を見ることができる。

また、仏を菩薩として登場させたところに法華経の深い意図がある。つまり地涌の菩薩は、外には菩薩の姿をとる仏、すなわち『菩薩仏』である。それまで仏といえば、法華経の教主である釈迦仏を含めて、色相荘厳の姿をとる、仏果を成就した『完成者』『到達者』として描かれてきた。しかし、菩薩仏は完成者ではなく、未完成の姿をとる。それでいて、妙法とともに生きる仏の境地に住している。それはいわば未完成を含んだ完成、完成を含んだ未完成といえよう。菩薩仏は、これまでにない新しい類型の仏であり、さらに言えば、『仏』の概念の変革をもたらすものである。それまでの完成者、到達者としての仏は、伝統的な表現を用いれば『本果』の仏であった。それに対して地涌の菩薩として登場した菩薩仏は『本因』の仏である」(同書 256 ㌻)


天台大師の「皆是れ古仏なり」との釈は、さすがに地涌の菩薩の本質を正しく洞察したものであった。すなわち、地涌の菩薩、なかんずくその上首である上行菩薩は釈迦仏から末法弘通の権限を与えられた「使い」の形で経典には登場しているが、それは上行の真実の姿ではなく、本当は本来妙法を所持していた久遠の仏(古仏)と解さなければならない。神力品における上行菩薩への付嘱とは、実は末法の到来とともに仏から仏へと教主が交代することを示す儀式と理解すべきなのである。この点について、池田大作名誉会長は『法華経の智慧』で次のように述べている。

「神力品の『付嘱』の儀式は、端的に言うならば、『本果妙の教主』から『本因妙の教主』へのバトンタッチです。それは、燦然たる三十二相の『仏果』という理想像を中心とした仏法から、凡夫の『仏因』を中心とした仏法への大転換を意味する。凡夫の素朴な現実から離れない仏法への転換です」(同書第 6 巻 190 ㌻)

末法は釈迦仏法の救済力が失われた時代であるから、釈迦仏は正像の教主ではあっても末法の教主となることはできない。だからこそ神力品は上行が末法の教主として出現することを予言し、教主交代の儀式を行ったのである。真蹟が各地に現存する「下山御消息」に日蓮自身を指して「教主釈尊より大事なる行者」(御書 363 ㌻)とあるのは日蓮に末法の教主との自覚が確立していたことを示している(釈迦仏の単なる「使者」や「弟子」が「教主釈尊より大事」になる道理はない)。

上行の本地が仏であることを了解したならば、日蓮=上行の認識に立つ以上、日蓮が取りも直さず末法の仏であることが了解できることになる。地涌の菩薩を巡る法華経涌出品および神力品の説相と天台大師の洞察は、上行の再誕として出現した日蓮が実は末法の教主であるという日蓮本仏論を裏づけるものとなっているといえよう。


⑨真偽未決の御書について


これまで、真蹟および直弟子写本が現存(あるいは曾存)する御書をもとにして日蓮自身に日蓮本仏論が存在したことを述べてきたが、それは宮田氏が真蹟や直弟子写本のない御書を偽書として扱い、日蓮の教義を考察する資料からは排除する立場に立っているからである(真蹟・古写本がない御書まで考察の範囲を広げれば、日蓮自身に日蓮本仏論があったことについて更に多くの裏づけを得ることができる)。しかし、日蓮の思想を把握する資料として真蹟および直弟子写本が現存(あるいは曾存)する御書だけに限定する在り方は必ずしも適切とは思われない。この問題についても拙著『新版 日蓮の思想と生涯』で少し述べたので、次のように該当箇所を引いておくこととする。


「日蓮の思想や事跡を考察する根拠として、御書の中でも真筆が現存するもの、真筆がかつて存在していたことについて確証があるもの、直弟子または孫弟子の写本があるもの以外は基本的に偽書と見なして全面的に排除する傾向が見られる。しかし、このような在り方は妥当ではないと思われる。誰が見ても明らかな偽書と判断されるものを除くのは当然だが、そうでないものは真偽未定となる。真偽未定のものは偽書と断定できないので、真書である可能性があることを否定できない。

かつては真筆や古写本が存在していても、戦乱や火災等の歴史的偶然によってそれらが失われた例も少なくないであろう。真筆や古写本が現存しているのは、それらが失われるような災厄にたまたま遭わなかったという僥 倖ぎょうこうによる。真筆が現存しない御書を全面的に排除するということは、不幸にして真筆滅失の災厄に遭った御書をも全て切り捨てることに他ならない。

真筆あるいは古写本が現存(または曾存)するものだけを用いるという在り方は、日蓮の思想を考えるための根拠をサイコロの目のような偶然に委ねることになる。

真偽未定の御書で、かつては偽書の疑いが強いとされていたものでも、後に真筆や古写本が発見された例もある。『諸人御返事』(一二八四頁)はその例である。同抄は録外に属するので、偽書の疑いが強く掛けられていたが、真筆三紙が完全な形で大正時代に発見された(千葉・本土寺蔵)。同抄に限らず、『内記な い き左近さ こ ん入 道にゅうどう殿御返事』など、近年になって真筆や古写本が発見される例は少なくない。このような例もあるので、現時点で真筆が存在しない御書をそれだけの理由で偽書と言い切ることはできない。

また、かつて偽書説が強く言われていた御書でも、従来とは全く異なる角度から検討した結果、逆に真書の可能性が高いとの判断が出た例もある。その典型が『三大秘法抄』である。同抄は真筆がないために、古来、真偽の議論が盛んになされてきたが、近年、計量文献学の研究をもとに同抄の用語などをコンピュータで解析した結果、真書の可能性が高いとの結論が出た(伊藤瑞叡『いまなぜ三大秘法抄か』)。

計量文献学だけでなく、将来にはそれまでの発想では考えられない新しい観点から検証されていく可能性も大いにありうるだろう。

このように、真偽の判断も決して確定したものではなく流動的であり、現在、偽書の疑いが濃いとされているものでも一転して真書と見なされることもありうる事態である。このように考えてくると、真偽未定の御書を一律に排除する在り方は多くの真書を切り捨てる恐れが大きく、厳密なように見えて真偽に余りにもこだわり過ぎており、行き過ぎと言うべきであろう。

真偽未定の御書を全面的に排除する在り方について勝すぐ呂ろ信しん静じょう博士は『日蓮聖人の宗教思想を実態よりも狭小に限定することになりかねないと思う。それは偏った日蓮像を作り
あげることにもなるであろう』(「御遺文の真偽問題」)と述べている。博士の意見に同意したい」(同書 177 ㌻)


⑩日興門流による日蓮本仏論の継承


宮田氏は、日蓮本仏論は日蓮自身になかったとするだけでなく、日興にもなく、大石寺第六世日時(不明~1406 年)で明らかになり、第九世日有(1402 年~1482 年)において明確に主張されるようになったとする。すなわち氏は「日有の教学思想の諸問題(1)」で次のように言う。

「筆者は大石寺教学の特徴である日蓮本仏論は開山日興(1246-1333)、重須学頭三位日順(1294-1356-?)、四世日道(1283-1341)にはまだ見られないと考えており、その思想は六世日時(?-1365-1406)の『本因妙抄』写本で明らかになり、九世日有においてさらにより明確に主張されたと考えている」

しかし、この見解には賛成しがたい。先に見たように、日蓮本仏論は日蓮自身において既に明確に存在しており、その教義は日興を含めて日興門流に一貫して維持されてきたものと捉えるべきであろう。

まず、日興において日蓮本仏論があったかどうかを見てみよう。

広く知られていることだが、日興の多くの消息によれば、日興は日蓮を「聖人」「仏聖人」「法華聖人」「法主聖人」「仏」などと呼んで、門下から寄せられた供養の品々を常に日蓮の御影み え いに供えている(日興の「西坊主御返事」に「御影の御見参に申上まいらせて候」〈『歴代法主全書』第 1 巻 105 ㌻〉とあること、「日順雑集」に「聖人御存生の間は御堂無し、御滅後に聖人の御堂に日興上人の御計いとして造り給ふ。御影を造らせ給ふ事も日興上人の御建立なり」〈『富士宗学要集』第 2 巻 95 ㌻〉とあることから、日興が日蓮の御影を造っていたことは確実と見られる。ただし、「富士一跡門徒存知の事」に「日興が云く、御影を図する所詮は後代に知らしめん為なり是に付け非に付け・有りの侭ままに図し奉る可きなり」(御書 1603 ㌻)とある通り、日蓮の御影像は日蓮の容貌を後世に伝えるために造立されたものであり、本尊ではない。日興における本尊は文字曼荼羅以外にない)。

日蓮を「仏聖人」「法主聖人」等と呼び、また供養を常に日蓮の御影に供えた日興の振る舞いに見る限り、日興が日蓮を仏として尊崇していたことがうかがえる。また重大なことは、日興の文書において供養の品を釈迦仏に供えたという記述が一切存在しないということである。この事実は、日興が自身の信仰において日蓮本仏義に立ち、釈迦本仏義を退けていたことを示すものとして理解できよう。


さらに注目すべきは日興による文字曼荼羅書写の在り方である。日興は文字曼荼羅をしたためることを「書写」と称し、日蓮が文字曼荼羅を図顕したことと自らの行為を同列に置かず、日蓮図顕の文字曼荼羅の様式を書写するという立場を明確にした。具体的には、文字曼荼羅の中央に南無妙法蓮華経の首題の下に「日蓮 在御判」としたため、自らの名前は「書写之」の言葉とともに記して(「書写之 日興花押」とした)、自分が当該曼荼羅を書写した当人であるとの責任を明らかにしている。日興が終生にわたって貫いたこの曼荼羅書写の書式は日興門流において今日まで堅持されている。

それに対して五老僧の流れを汲む他門流では中央の首題の下には曼荼羅をしたためた当人の名前を記す形が一般であった。例えば、日朗がしたためた曼荼羅には中央に「南無妙法蓮華経 日朗 花押」となっている。これは、日蓮が曼荼羅を図顕した際に南無妙法蓮華経の下に「日蓮 花押」としたためたのに倣ならって南無妙法蓮華経の下には曼荼羅を書いた当人の署名・花押を記すものと受け止めたからであろう(他門流の曼荼羅では日蓮の名前を伝教大師の外側に記すなど、諸尊の一つとして記載する例も少なくない)。

このように、文字曼荼羅の書き方において日興門流と他門流では大きな相違がある。それは、日蓮の位置づけが日興と日昭・日朗ら五老僧の間では大きく異なっていたことを意味している。日昭・日朗らは日蓮を南無妙法蓮華経と一体の本仏と捉えられず、自身と同列の存在と位置づけていたのに対し、日興は自身を日蓮の弟子と位置づけ、日蓮を南無妙法蓮華経と一体不二の末法の本仏と捉えていたと解することができよう。日興が堅持した文字曼荼羅書写の形式は、日興が日蓮本仏義に立っていたことを強く類推せしめる。

日興の著作や消息に日蓮本仏論を明示しているものはない。しかし宮田氏のように、文献上にないからその思想が存在しないと判断することは、人間の思想が全て文献に表れているという前提に立つものであり、その前提そのものが文献に偏り過ぎた誤りであろう。むしろ、人間は自己の思想を必ず全て言語に表すものではない。明確な思想を持っていても、それを言語に表す必要もないとして、言語表現を抑制する事情や心理がありうることは当然のことである。日興の場合、日蓮本仏義は自身にとっても周囲の高弟にとっても当然の前提であり、またその教義が他門流が受け止められない日蓮仏法の奥義であるという事情などを鑑みて、あえて著述に明示することはなかったと考えることができよう。


日興は日蓮本仏義を著作の中で示すことはなかったが、日興の高弟の中にはそれを行った者もあった。その代表は日興が開設した重須談所の第 2 代学頭であった三位日順(1294年~不明)である。

日順は日興存命中の 1318 年に記した「表白」において「我が朝は本仏の所住なるべき故に本朝と申し・月氏震旦に勝れたり・仍よつて日本と名く、富士山をば或は大日山とも号し・又また蓮華山とも呼ぶ、此れ偏へに大日本国の中央の大日山に日蓮聖人大本門寺建立すべき故に先き立つて大日山と号するか、将はた又妙法蓮華経を此処に初めて一閻浮提に流布す可き故に・蓮華山と名づくるか」(『富士宗学要集』第 2 巻 11 ㌻)として、日蓮を「本仏」と明言している。

しかし、宮田氏はこの「表白」の文の「本仏」は日蓮を指すものではないとし、「『観心本尊抄』などで「久遠実成釈尊」の「仏像」が正法、像法時代には出現していなかったのに対して、末法日本において日蓮が曼荼羅の中で図顕したということを受けた表現と解釈できると思っている」(日興の教学思想の諸問題(2)――思想編)と述べている。宮田氏のこの解釈は、そうとう無理な、いかにも苦しい解釈と言わざるを得ない。

「表白」のこの文は、「観心本尊抄」を念頭に置いたものではない。むしろ日順自身が執筆し、日興の印可を得たとされる「五人所破抄」の「日本と云うは惣名なり亦また本朝を扶桑国と云う富士は郡の号即ち大日蓮華山と称す、爰ここに知んぬ先師自然の名号と妙法蓮華の経題と山州共に相応す弘通此の地に在り、遠く異朝の天台山を訪えば台星の所居なり大師彼の深洞を卜ぼくして迹門を建立す、近く我が国の大日山を尋ぬれば日天の能住なり聖人此の高峰を撰んで本門を弘めんと欲す」(御書 1613 ㌻)に対応したものと解せられる。「五人所破抄」の「先師」「聖人」との対応を考えるならば、「表白」が言う「本仏」はまさに日蓮を指すと解するのが素直な理解であろう。「本仏の所住」との表現は、具体的な人間の存在を想起させるものがある。


また、日興が逝去して3年後の 1336 年に著した「用心抄」では、日順は「問ふて云はく、正像二千年の高祖の弘法は皆以て時過ぐ、当世諸宗の人師を崇重する此れ亦堕獄ならば何れの人法を敬信して現当の二世を祈らんや、答へて云はく、経に云はく、一大事因縁、又云はく世を挙つて信ぜざる所文、然りと雖ども試に一端を示して信謗の結縁とせん、人は上行・後身の日蓮聖人なり、法は寿量品の肝心たる五字の題目なり」(『富士宗学要集』第2巻 14 頁)として、法は「五字の題目」、人は「日蓮聖人」が信の対象であると述べている。信の対象とは本尊の意味であるから、この文は日蓮を人本尊とする日蓮本仏義を示すものといえよう。


さらに日順は 1342 年の「誓文」で「親疎有縁の語に依つて非を以て理に処し、或は富福高貴の威を恐れて法を破り礼を乱る、若しくば妄情自由の見を起して悪と知つて改めず若しくば正直無差の訓を聞き善と知つて同ぜざる者は、仏滅後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曽有の大漫荼羅・所在の釈迦多宝十方三世諸仏・上行無辺行等普賢文殊等の諸薩埵・身子目連等の諸聖・梵帝日月四天竜王等・刹女番神等・天照八幡等・正像の四依竜樹天親天台伝教等・別して本尊総体の日蓮聖人の御罸を蒙り、現世には一身の安堵を失ひ、劫かえつて諸人の嘲りを招き・未来には無間に堕ち将に大苦悩を受けんとす」(同 28㌻)と述べ、日蓮が曼荼羅本尊の総体であるとしている。この文は日蓮と曼荼羅本尊が一体不二であることを示すもので、日蓮本仏義を明示するものとなっている。

この「誓文」について宮田氏は、漆畑正善に対する反論の中で「日順のコスモロジーの中で上位に位置する『大漫荼羅・所在の釈迦多宝十方三世諸仏』等が理念的に勧請され、最後に有縁の具体的な仏神である『本尊総体の日蓮聖人』が『別して』勧請されるという形式を踏んでいる。もし人法一箇の日蓮本仏論が日順にあったら、その日蓮がコスモロジーの下位にあるということは説明されなければならない」と述べ、日順が日蓮本仏論を述べた文ではないと主張している。しかし、この主張は客観的な根拠が何もない極めて恣意的なもので、到底同意できるものではない。「大漫荼羅・所在の釈迦多宝十方三世諸仏」等が日順のコスモロジーの中でどうして上位に当たり、「日蓮」が下位に当たると言えるのか、何の裏づけもない(総別をあえて上下関係に当てはめるならば、法華経の総付嘱・別付嘱のように、むしろ「別」を上位に、「総」を下位に置くのが一般であろう。そもそも曼荼羅本尊の座配を「日順のコスモロジー」とすることも不適切である。曼荼羅本尊の座配は本尊を礼拝する各人が所有している宇宙観の表明などではない)。

「誓文」の文を素直に読むならば、「起請文」の形式であろうとなかろうと、法を破り悪を改めない者は曼荼羅本尊に書かれている釈迦・多宝・十方三世諸仏等の罰を受け、別しては曼荼羅本尊の総体である日蓮の罰を受けるという趣旨であることは明らかであり、日順が日蓮を曼荼羅本尊の「総体」と規定していることは誰人も否定できない。むしろ、この文は、日蓮と曼荼羅本尊の一体不二という人法一箇の法理を示した文であると受け止めるのが常識的な態度であろう。


なお、日順の著述とされてきた「本因妙口決」にも「久遠元初自受用報身とは本行菩薩道の本因妙の日蓮大聖人を久遠元初の自受用身と取り定め申すべきなり」(同 83 ㌻)との明確に日蓮本仏義を示す文がある。宮田氏は身延派の論者とともに、本抄に「日蓮宗」の用語があることを理由に「本因妙口決」を偽書としているが、それだけの理由で本抄を偽書と断定するには根拠不十分であると思われる(この点を指摘した漆畑正善に対する宮田氏の反論は議論が拡散していて、ほとんど説得力を持っていない)。

『富士宗学要集』を編纂した堀日亨は「本因妙口決」について、「この時代として天台色のあるものがある。ゆえに一般日蓮宗では、口決は後人が順師にたくして、天台色のあるものを書いたとみている。しかし日蓮大聖人のもの、そのものが中古天台の説を使用している。ゆえに順師がそうだからといって偽作にするのは変である」(「大白蓮華」第 102号 28 ㌻)と述べて偽作説を退け、本抄が日順の撰述によるとの立場に立っている。「本因妙口決」を後人による偽作と断定するにはまだ根拠不足であり、本抄が日順によるものである可能性はなお否定できない。「本因妙口決」が日順撰述である可能性を完全には否定できず、また先に挙げた「表白」「用心抄」「誓文」が日順の著述であることが確定している以上、日興とほぼ同時代の宗門上古に既に日蓮本仏論が存在していたことが了解できよう。三位日順に日蓮本仏論がないという宮田氏の見解は、「本因妙口決」を除いて、日順撰述が確定している文献だけを見る限りでも否定されるのではなかろうか。


宗門上古に日蓮本仏論を説いたのは三位日順だけではない。南條時光の子息である富士妙蓮寺の日にち眼げんが 1380 年に著したとされる「五人所破抄見聞」には「威音王仏と釈迦牟尼とは迹仏也、不軽と日蓮とは本仏也、威音王仏と釈迦仏とは三十二相八十種好の無常の仏陀、不軽と上行とは唯名字初信の常住の本仏也」(『富士宗学要集』第4巻1㌻)との明確な日蓮本仏論の表明がある。もっとも、本抄は妙蓮寺日眼の作ではないとの説も出されているが、その論証は必ずしも十分な根拠を示せていない。ここで詳しく議論する余裕はないが、「五人所破抄見聞」が妙蓮寺日眼の作である可能性はなお否定できない。その場合、「五人所破抄見聞」も、三位日順の著述とともに宗門上古に日蓮本仏論があったことを示す裏づけとなろう。


宮田氏の見解によれば、日蓮本仏論は日蓮にも日興にもなかったのであるから、日蓮・日興はともに釈迦本仏の立場に立っていたということになろう。そうなると、六世日時や九世日有に至って、それまでの釈迦本仏義を否定して、突如、他のどの門流も主張していない日蓮本仏義を主張するという教義上の革命を行ったことになる(そもそも、日時に「本因妙抄」の写本があったという宮田氏が立っている前提も近年では疑問視されている。大黒喜道は大石寺所蔵の「本因妙抄」写本の筆跡鑑定を行い、その文字が日時の筆跡ではないことを明らかにした〈『興風』第 14 号〉。日時に「本因妙抄」の写本がないということになれば、日時が日蓮本仏論を主張したとはいえず、富士門流において初めて日蓮本仏論を主張したのは日有ということになる)。仮に日有が富士門流の根本教義を従来の釈迦本仏義から日蓮本仏義に切り替えたというのであれば、日有が何故にそれほどの大転換に踏み切ったのか、合理的な説明がなければならない。しかし、宮田氏においてはこの点の説明は一切存在しない。

常識的に考えるならば、日蓮・日興以来、継承されてきた釈迦本仏という根本教義を日有が突然否定して、それまで誰も主張したことのない日蓮本仏義を新たに唱えるに至ったとすることは余りにも不自然であり、ほとんどあり得ない事態であろう。やはり、日蓮本仏論は日蓮・日興という日蓮仏法の源流において既に存在していたのであり、それを日興以後の貫首として初めて明確に表明したのが日有であったと考えるのが妥当であろう。

先に述べたように、日蓮自身に日蓮本仏の思想は明確に存在したが、日興およびそれ以後の貫首はあえてその教義を著述の形で表明することはなかった(三位日順など、それを行った学僧はいたが)。しかし、先に述べた通り、文献に明示されていないからといってその思想が存在しないということにはならない。日蓮本仏論は日蓮仏法の根本教義として日興門流に継承されてきたのであり、日有は貫首として、初めてその奥義を明示することによって仏法を正しく後世に伝えようとしたのである。日有が日蓮本仏論を示した「化儀抄」などの聞き書きを弟子に書き取らせたことも次の少年貫首である日鎮など後継の人々に法門を伝えるためであったと考えられる(当時は少年貫首が続いた時代だった)。日有は「我カ申ス事私ニアラス、上代ノ事ヲ違セ申サズ候」(「聞書拾遺」『歴代法主全書』第1 巻 425 ㌻)として、上代から伝承されてきた教義を誤りなく後世に伝えようとする姿勢を貫いてきた人物である。その日有が日蓮・日興の根本教義を否定して新たな教義を立てるということはあり得ないというべきだろう。
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