宮田論文への疑問
――日蓮本仏論についての一考察
須田晴夫
2015 年 9 月 5 日、創価大学で開催された日本宗教学会第 74 回学術大会で、同大学教授の宮田幸一氏が「学問的研究と教団の教義ー創価学会の場合」として口頭発表を行い、それを加筆訂正した論文が宮田氏自身のホームページで公表された。
氏が個人の立場でどのような内容を発表しようと、「表現の自由」「内心の自由」に属することで何の問題もないが、氏は創価学会の教義形成に影響力を持つ何らかの立場にあると聞いている。仮に氏がそのような立場にあるということになると、氏の見解は個人的意見にとどまらず、幾分か教団全体に関わる意味を帯びてくる。そこで筆者は、氏の論文に触れて若干の疑問を感じたので、氏の他の論文を含めて検討し、取り上げられた問題について議論を深めるための参考資料として本稿を作成することとした。
はじめに、各項目の表題を挙げておく。
(1)「本門の本尊」があれば日蓮宗各派の信仰にも功徳はあるか
(2)「功徳と罰」を主張することは誤りか
(3)近代仏教学との関連
(4)日蓮本仏論
①日蓮本仏論はカルトの理由となるか
②日蓮自身による日蓮本仏論
③日蓮が末法の教主(本仏)である所以
④日蓮が釈迦仏を宣揚した理由
⑤曼荼羅本尊の相貌に表れる日蓮の真意
⑥天台大師が示す教主交代の思想
⑦仏教の東漸と西還――仏教交代の原理
⑧上行への付嘱の意味――教主交代の思想
⑨真偽未決の御書について
⑩日興門流による日蓮本仏論の継承
(5)釈迦仏像の礼拝を容認すべきか
(6)学説が確かな根拠になりうるか
(7)自分の判断が一切の基準か
(1)「本門の本尊」があれば日蓮宗各派の信仰にも功徳はあるか
まず第一に、2014 年に創価学会が会則を改定した際、学会が日蓮図顕の文字曼荼羅も書写の文字曼荼羅も全て等しく「本門の本尊」であると説明したことに触れ、日蓮真筆の文字曼荼羅が日蓮宗各派の寺院に所蔵されていることから、宮田氏は先の論文で、「『本門の本尊』を信仰の対象としている日蓮宗各派の信仰、ならびに日蓮正宗の信仰にも、応分の功徳があるということを教義的には認めざるをえないことになるのではないかと私は考える」と述べ、さらに「『本門の本尊』を信仰しても、全く功徳がないという教義を日蓮の御書から導き出すのはかなり困難ではないかと私は思っている」としている。
はたして、そうであろうか。日蓮図顕の真筆本尊も書写の本尊も、いずれも南無妙法蓮華経を具現した「本門の本尊」であるという前提は当然としても、しかし、例えば身延山久遠寺や中山法華経寺に安置されている日蓮真筆本尊を、「本門の本尊」であるからといって久遠寺や法華経寺の信仰をもって拝んで、功徳はあるだろうか。私はないと思う。それを裏づけるのが「生死一大事血脈抄」の
「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(御書 1138 ㌻)の文である。
この文で「法華経」とは経典としての法華経ではなく、文字曼荼羅と解せられる(晩年の日蓮は文字曼荼羅をもって「法華経」と呼んでいる)。この文は、血脈とは信心の異名であるという「信心の血脈」論の根拠となる有名な文であるが、この文を素直に読めば、いかに正しい曼荼羅本尊であっても、拝む側に正しい信心がなければ功徳はありえない、という意味になろう。
それ故に、これまで創価学会ではこの文を引いて「日蓮大聖人、日興上人の御精神に適った正しい信心がなければ血脈はなく、たとえ正しい御本尊を拝しても、功徳が現れることはない。かえって『かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし』〈919 ㌻〉と仰せのように、仏法違背の大罪となる」(「大白蓮華」第 627 号)と教えてきたのである。
この「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」との「種種御振舞御書」の文は、日蓮を崇拝する在り方としても「あしく敬う」場合と「よく(正しく)敬う」場合の相違があることを示している。どのような教義であれ日蓮を崇拝さえすればそれでよいということではない。誤って敬った場合には国が亡ぶほどの悪業になるというのである。そうなると、曼荼羅本尊を拝みさえすればどのような宗派の信仰をもって礼拝しても応分の功徳があるという宮田氏の見解は、この文と明確に違背するのではなかろうか。
仏教の根本テーゼである縁起説によるならば、万物はそれ自体のみで存在するものではなく、他者との関係性の網の目の中で存在し、価値を有する。文字曼荼羅も、それ自体が無条件で、人間が存在しない場所で本尊としての力を持つのではない。曼荼羅に接する人間との関係性によってその意味と力が異なってくる。日蓮が図顕した曼荼羅本尊は「観心の本尊」すなわち「信心の本尊」であり、正しい信心をもって拝して初めて本尊としての力用が現れるのである。信心が皆無のところにおいては、たとえ日蓮真筆の文字曼荼羅でも本尊としては現れず、一種の「掛け軸」に過ぎないことになる。
創価学会は、身延山久遠寺や中山法華経寺など日蓮宗各派の信仰は正しい信心とは認めず、むしろ誤ったものであるとしてきた。それにもかかわらず、宮田氏のように「日蓮宗各派の信仰、ならびに日蓮正宗の信仰にも、応分の功徳がある」としたのでは、それらの寺院に参詣することも必ずしも誤りではないということになり、これまでの学会の指導性の全面的否定になりかねない(当然、大石寺に参詣しても差し支えないことになる)。それでは、これまで創価学会の指導性に従って信仰してきた学会員を裏切ることになるであろう。
ただし、氏は現在の創価学会の方針として、「『本門の本尊』としては平等だからという理由で他教団の所有する本尊を拝んでもよいと容認するわけではなく」と、他教団の本尊の礼拝を容認していないと認識しているようである。しかし、それでは、他教団の本尊の礼拝は容認しないという学会の方針と「日蓮宗各派の信仰、ならびに日蓮正宗の信仰にも、応分の功徳がある」という氏の見解とでは矛盾しており、整合性がとれていない。氏の立場を論理的に貫けば、「他教団の本尊の礼拝を認めないのはむしろ教義的には誤りである」ということになるであろう。
もっとも宮田氏は、真筆ないしは直弟子などの古写本のない御書は日蓮の思想を判断する根拠にはなり得ないという立場をとっているので、真筆が現存しない「生死一大事血脈抄」も偽書として扱い、一切用いないとするのであろうか。真筆や古写本のない御書を全面的に排除する傾向が一部の研究者の間に見られるが、後に触れるように、そのような態度は真偽が確定できない御書を全て偽書として切り捨てるもので、行き過ぎであり、妥当ではない。
創価学会は、これまで血脈観として、正しい信心こそが血脈であるという「信心の血脈」論の立場に立ち、その根拠を「生死一大事血脈抄」に置いてきた。2015 年に発刊された『教学入門』(創価学会教学部編)は次のように述べている。
「日蓮大聖人は、成仏の血脈は特定の人間のみが所持するものではなく、万人に開かれたものであることを明確に示されています。『生死一大事血脈抄』に「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて、仏に成る血脈を継がしめんとする」(1337 ㌻)と仰せです。日蓮大聖人の仏法においては、『血脈』といっても、結論は『信心の血脈』(1338 ㌻)という表現にあるように『信心』のことです」(同書 318 ㌻)
仮に「生死一大事血脈抄」を偽書として排除した場合には、学会が主張している「信心の血脈」論も日蓮自身の思想ではなく後世に形成されたものとなり、根底から崩壊することになる。そのような事態は、学会員としては受け入れ難いものであろう。
(2)「功徳と罰」を主張することは誤りか
次に信仰の功徳について宮田氏は、「そもそも信仰に功徳があるかどうかという問題は、教義の問題でもあるが、むしろ信仰をしている人々が功徳を感じているかどうかという宗教社会学的な問題でもある」とし、さらに「宗教的功徳の特定信仰への独占ということは事実としては否定されるしかないと私は考えている」と述べている。論文の文章は抑制されているが、実際の口頭発表ではもっと率直な言い方になっている(口頭発表の内容はユーチューブで公開)。
特定宗教の熱心な信仰者を相当程度の人数選び出し、宗教社会学的な調査によって「あなたが実践している信仰には功徳(救済)があるとあなたは感じていますか」と質問すれば、どのような宗教であれ、大多数の割合で「功徳(救済)がある」という回答が寄せられるのは当然であろう(何の功徳〈救済〉もないと思っていながら熱心に信仰するということは考え難い)。宗教社会学的には、熱心な信仰者にとってはどのような宗教であれその信仰を実践するだけの内的理由があり(その意味で功徳〈救済〉を感じている)、信仰の内容、教義の如何は宗教社会学においては問題にされない。宗教社会学は本来、宗教の教義の優劣を判定するものではないからである(あらゆる宗教に対して中立である)。つまり、宗教社会学は文字通り宗教の社会的・外形的側面を分析・考察するものであって、宗教の教義の優劣を判定する基準を持たない(価値判断を留保する)。
信仰の功徳について宗教社会学を中心に考える氏の立場からすれば、どのような宗教・宗派でもそれぞれの信仰者にとってはそれなりの功徳があるのだから、何を信仰してもよいということになる(「本門の本尊」に関連して、氏が「日蓮宗各派の信仰、ならびに日蓮正宗の信仰にも、応分の功徳がある」とするのは全ての宗教に対して価値中立的な社会学的見地に立っているからであろう)。逆に言えば、氏が「宗教的功徳の特定信仰への独占ということは事実としては否定される」と明言する通り、特定宗教が「この信仰以外に真の功徳(救済)はない」と主張することは事実としては誤りとして否定することになろう。
表面的な事実としては、どのような宗教を信仰しようと、また無宗教であろうと、誰人の人生においても幸福(プラス)もあれば不幸(マイナス)もある。その事実だけを強調すれば、どのような宗教を信仰しようと、また無宗教であろうと何の相違もないということになる(わざわざ特定の宗教を信仰する必要もない)。それでは、全ての宗教そのものがおよそ無意味、無価値なものであり、単なる妄想になりかねない(神も仏もなく、世の中は所詮、金と力だという、日本人に広く見られる徹底した「現世主義」「宗教蔑視」に繋がっていく)。
しかし、宗教の特質として、どのような宗教であれ、多少なりとも自身の教義によってこそ真実の救済がある(他の宗教・宗派によっては真実の救済はない)と自己の最勝性を主張するものである。どのような宗教でもよいと説く宗教はまず皆無であろう(「宗教は何でもよい」としたのでは、あえてその宗教を立てる理由がなくなる)。いわば、「この信仰にこそ真の功徳(救済)がある」として自己の最勝性を主張する「確信」に宗教の特質があるのであり、それを誤りであるとして否定する氏の見解は宗教の特質を見失ったものとして、むしろ宗教の否定になりかねないのではなかろうか。
自己の教義の最勝性を主張するのが宗教の特質であるから、仏教経典でも自経の功徳と卓越性を説き、誹謗者の罰を説くことは広く認められる。中でも日蓮が最勝の経典とした法華経は、法華経受持の功徳と法華経誹謗者の罰が随所で強調されている。そのような経文は枚挙に 暇いとまがないが、例えば薬王菩薩本事品では「若もし復また人有って、七宝を以て三千大千世界に満て、仏及び大菩薩・ 辟ひゃく支し仏ぶつ・阿羅漢に供養せんも、是の人の得る所の功徳は、此の法華経の乃至一四句偈を受持する、其の福の最も多きには如かじ」(創価学会版法華経 593 ㌻)と法華経受持の絶大な功徳を説き、また陀羅尼品では「若し我が呪しゅに順ぜずして 説法者を悩乱せば 頭こうべ破われて七分に作ること 阿あ梨樹り じ ゅの枝の如くならん」(同 648 ㌻)と法経の行者を悩ます者の現罰を説いている。
この薬王菩薩本事品の文を釈して中国の妙楽大師が『法華文句記』で「供養する有らん者は福十号に過ぐ(有供養者福過十号)」と述べたことはよく知られている。日蓮は曼荼羅本尊の左右の肩にこの「有供養者福過十号」の文と「若悩乱者頭破七分」の文をしたため、本尊受持の功徳と悩乱者の罰を明確にした(日蓮真筆の曼荼羅の讃文にはこの他にも数種類あるが、曼荼羅本尊の完成期である弘安年間の曼荼羅に記されるのはこの「有供養者福過十号」「若悩乱者頭破七分」の讃文が大半で、それ以外のものはほとんどない。また日興もこの讃文を記すことを基本とし、日興門流で書写される曼荼羅本尊にはこの「有供養者福過十号」「若悩乱者頭破七分」の讃文が記されている)。
しかし、特定の信仰だけに功徳があるという立場を否定する宮田氏は、別の論文でこの曼荼羅本尊の讃文を取り上げて次のように言う。
「私は日蓮の曼荼羅に書かれた禍福の讃文の予言は宗教社会学的には真理とは言えないと思っている。(中略)その意味で私は日蓮の主張は誤っていると思っているから、曼荼羅からはその記述を除外すべきだと思っている」(SGI 各国の HP の教義紹介の差異について)
氏は日蓮図顕の文字曼荼羅にも誤りがあるから、その部分を削除すべしと主張するのである。言うまでもなく、曼荼羅本尊には日蓮の教義が凝縮して示されている。その意味で、曼荼羅本尊にしたためられた功徳と罰の讃文には自身が生涯を賭けて確立した宗教に対する日蓮の絶対の確信が込められている。その日蓮の、いわば命を賭けた確信の表明を宮田氏は簡単に否定するのである。このような氏の見解は、価値判断を留保した(価値判断の基準をあえて持たない)宗教社会学を用いながら功徳と罰という宗教的価値を裁断する誤りを犯していると言わざるをえない(次元が異なるものを混同して同一の次元に置いている)。
多くの宗教社会学者はその次元の相違を認識しており、価値判断を留保している宗教社会学の立場から特定宗教の教義や本尊を指して「誤っている」などと越権的に裁断するようなことはしていない。宮田氏の見解は宗教社会学の常識からも外れたものとなっている。氏は宗教社会学そのものも誤解しているのではなかろうか。そのような態度では日蓮の宗教を内在的に理解することは到底不可能であろう。
(3)近代仏教学との関連
次に宮田氏は、梅原猛による創価学会批判を紹介しながら、学会の教義と明治以降の近代仏教学との関連を取り上げる。具体的には、①大乗経典が釈尊の直説ではないこと、②「五時」説への固執、③仏滅年代と末法理論の関係、の三点を問題にしている。
①について、氏は次のように言う。
「創価学会は日蓮仏法に関する教義解釈と宗教的儀礼に関しては日蓮正宗の伝統を継承してきた。しかし、日蓮正宗の日蓮仏法解釈は、鎌倉時代の日蓮、室町時代の日有、江戸時代の日寛の教義解釈を基礎としたものであり、明治以降の仏教の学問的研究の成果に対してまともに対応したものではなかった。(これは日蓮正宗に限ったことではなく、日本の既成仏教団体全てが、宗祖に忠実であるならば、教義的には大乗仏教教典が直接釈尊によって説かれたという理解を前提にして成立していることには変わりがない。その理解が崩れたときに、宗派として存在することに教義的な意味は見失われ、歴史的意味しかないように私には思われる。)」
もちろん、日蓮を含めて日本の既成仏教教団の宗祖は全て大乗経典が釈尊によって説かれたという認識を前提にしている(本稿においては、実在した歴史的釈尊〈ゴータマ・シッダルタ〉を「釈尊」、法華経を含めて経典に登場する釈迦を「釈迦仏」と呼ぶことにする。両者を区別することで議論の混乱を避けるためである)。その前提が崩れた時には教義的に宗派として存在している意味が無くなるのだろうか(もっとも創価学会は、『法華経の智慧』において法華経の成立は紀元一世紀以降であるとの認識を示すなど、既に近代仏教学の知見を取り入れた議論をしている)。この点については、拙著『新版 日蓮の思想と生涯』で若干述べたのでその箇所を引用することにする。
「歴史的釈尊の直説ではないということはなにも法華経に限ったものではない。大乗仏典はもちろん、最古層の仏典と見られる『スッタニパータ』などの原始仏典、小乗仏典を含めて、歴史的釈尊の直説と確実に言い切れるものはない。これは絶対に間違いなく歴史的釈尊が実際に説いた言葉であると断定できるものは存在しない(歴史的釈尊の直説ではないという意味では大乗経典に限らず全ての仏典が非仏説である。経典が仏説か非仏説かを問題にすることは意味がない)。歴史的釈尊の言葉でなければ教義が成立しないというのであれば、結局、仏教全体が成立せず、無に帰してしまう。同様のことはキリスト教などについても言える。イエスの言行を記述した四つの福音書は新約聖書に収められたキリスト教の根本聖典だが、最古の福音書と考えられているマルコ福音書にしてもイエスの死から数十年後に成立したもので、いずれの福音書も歴史的イエスが説いた言葉を正確に記述したものではない。歴史的イエスの言葉は厳密にはどこにも存在していないのである。イエスの言葉だけが教義の前提であるとしたならば、キリスト教全体が成立しないことになる。
仏教経典は、原始経典から大乗経典まで、いずれも後世の経典制作者がそれぞれの立場から、これが釈尊の教えであると信じたものを釈尊の名前を借りて表現したものである。(中略)従って各経典の内容は多種多様となるから、多数の経典の勝劣を判定し、どの経典を選びとるかという問題は後世の人間の主体的判断に委ねられることになる(例えば涅槃経は、『了義経〈真理を表した経典〉に依って不了義経〈真理を表していない経典〉に依らざれ』として、経典の内容を吟味し、その優劣を検討する作業が必要であるとしている)。
天台大師はその時までに中国に伝来していた仏教経典を検討した結果、五時八教の教判を確立し、法華経こそが仏の悟りをもっとも正確に表した最勝の経典であるとの結論に達した。日蓮もまた、その時代において目にできる一切経を閲覧し、天台の教判が妥当であると判断した。天台や日蓮自身の宗教体験を含めた仏教観そのものがその判断の根底に存したことは当然であろう。
従って、経典が歴史的釈尊の直説かどうかなどということは初めから問題にならない。釈尊が説いたから経典が尊いのではない。普遍的真理が示されているからこそその経典が尊いのである。日蓮は、法華経の全ての文字について『六万九千三百八十四字、一一の文字は皆金色の仏なり』(「単衣抄」一五一五頁)と言明した。それは、法華経において一切の仏が共通して悟った普遍の真理が示されているとの洞察があったが故ということができよう」(『新版 日蓮の思想と生涯』30 ㌻)
厳密な文献学によれば、歴史的釈尊の直説などどこにも存在しない。もしも、直説がなければ仏教の教義が成立しないと主張するのであれば、それは文献学をあまりに偏重するものであり、結果として仏教そのものを見失うものとなる(キリスト教についても同様である)。文献の厳密性にこだわり過ぎると宗教そのものが雲散霧消してしまう。②について言えば、宮田氏が言及している梅原猛の批判とは、全ての経典が釈尊の直説であると考えた天台は釈尊の五十年の伝道生活を「華厳時」「阿含時」「方等時」「般若時」「法華涅槃時」の「五時」に配列し、それを経典成立の順序としたが、近代仏教学の知見によれば経典の成立は釈尊の死後数百年にわたるので、今日においては「五時八教」の教判自体が「無茶な話」になっているというものである。
その上で梅原は次のように言う。「文献学の発展しなかった頃の日蓮が、天台智顗の、このみごとにしてしかも強引な分類(五時八教を指す――引用者)をそのまま真理としたのは仕方がないとしても、明治以後の原典批判にすぐれた業績をあげた仏教学の成果を持つ現代という時代の宗教である創価学会が、五時八教をそのまま採用しているようにみえるのはどうしたわけであろう」(「創価学会の哲学的宗教的批判」『梅原猛著作集3』291㌻)。
ちなみに、この梅原の批判は 1964 年になされたものである。その当時は梅原の批判が当たっていた面もあったかもしれないが、今日の創価学会は、先に『法華経の智慧』について述べた通り、既に経典を歴史的釈尊の直説とする立場をとっておらず、「五時」説をもって経典成立の歴史的事実とは捉えていない。2015 年発刊の『教学入門』(創価学会教学部編)では「釈尊が五十年に及ぶ弘教の人生を終えて亡くなった後、釈尊のさまざまな言行が弟子たちによってまとめられていきました。その中で、慈悲と智慧を根幹とする教えが大乗経典として編纂されていきます」(同書 266 ㌻)と、経典が後世の編纂によるとの認識を示している。
五時八教の教判について、筆者は拙著『新版 日蓮の思想と生涯』では次のように述べておいた。
「天台が五時を仏典成立の順序と捉えたのはその時代の限界、制約の故であり、今日においては実際の経典成立の過程として受け入れることはできない。しかし、だからといって、五時八教の教判が全く無意味であるということではない。五時八教は、天台が一切経をどのように捉えていたかという天台の仏教観そのものの表明である。そこには、今日においてなお深く汲み取るべきものがあると思われる。
誰人でも、自分が生きている時代の限界、制約は免れない。人間のみならず万物が歴史的に限定された存在だからである。天台大師に限らず万人にわたって、後の時代の知見から見れば受け入れられないものが生ずるのは当然である。五時八教の教判に時代的限界があるからといって、その全てが無意味、無効であるとするのは、あまりに皮相的な態度であると言わなければならない」(同書 31 頁)
誰もが時代の制約のもとにあるのだから、後世の者が後の時代の知識をもって先人の限界を賢げに指摘しても意味がない(プラトンやアリストテレスが古代的制約のもとにあるからといって、その全てが無意味ということにはならない)。現代の学問も千年後の人間から見れば欠陥だらけのものと映るだろう。
③について宮田氏は、「『折伏教典』では仏滅は今から約三千年前と云い、東京大学法華経研究会編『日蓮正宗創価学会』ではシャカの入滅の事実に関して日蓮説と新しい仏教学者の説の両方をあげ、どちらが良いとも断定していないのである」という梅原の記述を引用し、梅原が「創価学会が仏教学の成果に対して曖昧な態度を採っていることを批判している」とする。
日蓮は、釈尊滅後 2000 年になる永承7年(1052 年)から末法に入るという当時の日本の一般的な認識に従って自身の時代を末法と規定したが、近代仏教学が示す釈尊の入滅年代によれば、日蓮の時代は釈尊の入滅からまだ 2000 年になっておらず、末法ということはできない。この点をどのように考えるかが問題となるが、この点についても創価学会は、仏教学による仏滅年代に従ったとしても、自身の時代を末法とした日蓮の認識には何の問題もないという立場を既に表明している。
すなわち、2002 年発刊の『教学の基礎』(創価学会教学部編)は次のように述べている。
「大聖人がご自身の時代を末法と捉えられたのは、諸説がある仏滅年代や正像末の年数を絶対的な拠り所としたからではありませんでした。
正・像・末の年数が仏典によって違うことや、仏滅年代に諸説があることは大聖人もよくご存知でしたから、ご自分が採用された説について絶対的なものとして受け止められていたわけではなかったと拝されます。(中略)
その上で、当時、定説となっていた仏滅年代九四九年説と正像二千年説を用いて、末法御本仏としての御自身の実践を跡付けられたのです。(中略)大事なことは、『仏滅年代』についていずれの説を採るにしても、大聖人御出現の時代が経文に説かれた通りの末法の様相を呈しており、その時代相のなか、日蓮大聖人が末法御本仏としてのお振る舞いを示され、事の一念三千の御本尊を建立してくださった事実です。以上、近代の学説に基づいた釈尊の入滅年代を用いたとしても、大聖人の末法の捉え方は動きません」(同書 121 ㌻)拙著『新版 日蓮の思想と生涯』では次のように述べておいた。
「今が末法であるとの時代認識は、当然、像法時代の天台大師・伝教大師とは時代を異にしていることを意味している。日蓮は後に『三大秘法抄』において『前代に異なり』と明言しているが、立宗の時点において既に末法に入っているという明確な歴史認識があったればこそ、天台・伝教が行うことのなかった題目の弘通に踏み切ったと推察されるのである。なお、永承七年(一○五二)年に末法に入るという当時の定説は釈尊の入滅が紀元前九四九年であるという『周 書しゅうしょ異記い き』の説と正法・像法を二千年とする説に基づいている。ところが、近代仏教学によれば釈尊の入滅は紀元前四八六年あるいは三八三年(そのほか諸説がある)とされており、正像を二千年とすると日蓮の時代はまだ像法時代となってしまう。
日蓮が自身の時代を末法と規定したのは、単に『周書異記』の説や正像二千年説に盲従したためではない。日蓮は仏滅年代や正像の年数について諸説があることを認識しており(『周書異記』の説について『守護国家論』で『一説なり』〈四六頁〉としている)、そのうえで、時代の状況が大集経が末法の時代を規定した『闘諍言訟・白法隠没』の言葉通りの様相になっていることを洞察して、自身の時代が末法に当たっていると判断したといえよう。
実際に平安時代末期の保元・平治の乱以来、日本国内では戦乱が絶えず、仏教勢力自体も僧兵を蓄えるなど軍事勢力化していた。延暦寺などの大寺院は民衆を救済するどころか逆に宗教的論理を利用して民衆を収奪する権力体となっていた(例えば、寺院への年貢ね ん ぐを納めない者は仏神の罰を被るという宗教的脅迫を加えた)。宗教的にも、伝教大師が確立した天台仏教も内部から変質して密教化し、伝教の思想は完全に空洞化していた。そもそも天台仏教の修行法である観念観法の瞑想行も高度な能力のある僧侶だけがなしうるもので、在家の民衆が行えるものではなかった。仏教が隠没していたのは日本だけではない。インドにおいては日蓮が生きた十三世紀にイスラム勢力の侵略によって最後の仏教寺院が破壊され、仏教は完全に滅亡した。中国においても唐の滅亡後、中国仏教は衰退の過程に入った。教団は経済的・社会的には繁栄したが、度牒どちょう(僧であることの証明書)や皇帝から賜る紫衣や師号も売買の対象となり、仏教教団の腐敗が進行していった。民衆に広まったのは仏教としての実体がない浄土教と禅宗のみであり、その上、道教との一体化が進んだ。女真族(ツングース系民族)の金によって一一二七年に北宋が滅ぼされて以降は、外形的には仏教が行われていても、仏教の内実はほとんど失われた状態になった。このことについて日蓮は、『顕仏未来記』で『漢土に於いて高宗こうそう皇帝の時、北狄ほくてき、東京トンキン(北宋の首都・開封かいほうのこと――引用者)を領して今に一百五十余年、仏法・王法ともに尽き了わんぬ』(五〇八㌻)と述べている。
日蓮は、そのような時代状況と既成仏教の限界を深く洞察して、もはや時代は従来の釈尊の仏教によって民衆を救済することができない『末法』に突入していると判断し、末法に相応した新しい仏教を創始することを決意したのである。その意味では、釈尊の入滅年や正像の年数などは些末な問題に過ぎない。日蓮が自身の時代が末法に当たると主体的に判断し、その時代に適った宗教を確立し弘通することを決断したことこそが重要なのである」(同書 36 ㌻)。
以上、宮田氏が提起した近代仏教学との関連の問題を見てきたが、創価学会の教義が近代仏教学の知見と矛盾しているとの批判は、今日ではほとんど有効性を持っていないといえるだろう。