スペシャル
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「お気持ち」によって直結する天皇と国民
現行天皇が二〇一六年八月八日、生前退位について「お気持ち」を表明したことと、そしてそれに対する「国民」の反応は図らずも本書『感情化する社会』の主題である「感情」という問題を明確化してくれる出来事だった。つまり「感情化」と本書が便宜上呼ぶ事態が天皇制に及んだのである。
しかしそれは天皇が感情的にふるまった、ということを意味しない。本稿のなかでいずれ明らかになるが、「感情化」とはあらゆる人々の自己表出が「感情」という形で外化することを互いに欲求しあう関係のことを意味する。理性や合理でなく、感情の交換が社会を動かす唯一のエンジンとなり、何よりも人は「感情」以外のコミュニケーションを忌避(きひ)する。つまり「感情」しか通じない関係性からなる制度を「感情化」と形容するものだ。この現象は、ただ感情的でしかないこの国の首相や彼に対するこの国の人々の、ぼくには不可解な「共感」にも見てとれる。だとすれば、ここで何より問題にしなくてはならないのは、なぜ、今回の天皇の意思表示が従来の天皇の公的発言で用いられてきた「おことば」でなく、「お気持ち」という呼称で表明されたのか、という点にある。そもそも、宮内庁のHPなどでは、今回の「お気持ち」の全文掲載に当たっては慣例にしたがって「おことば」と表現されているが、リーク報道では最初から「お気持ち」の表明として演出されたことは新聞報道がwebで検索可能な時代だから各自が確認すればいい。
そして次に注意すべきは、その「お気持ち」に対する「国民」の圧倒的な「共感」である。例えば八月一一日に読売新聞がおこなった世論調査では九三パーセントの人が「良かった」と解答している。そもそも「お気持ち」表明に先立って生前退位の意向がNHKによってリークされた直後の八月四日の共同通信の世論調査では八五パーセントが「容認」と報じられているが、それは天皇の意向が近日中に「お気持ち」という形式で表明されることがリーク後の早い段階で憶測記事の形で報じられていたことと、やはり関わりあう問題である。今回の天皇発言は「お気持ち」としての形式をまとい、結果、天皇の感情の表出として受け止められた。そして、天皇と国民が感情によって直結してしまったことに対して政治の側はいささか困惑しているように思えもする。事実、野党はこのような「お気持ち」と「国民」の「共感」に対して異議を唱ええず、当初は慎重であった与党も生前退位に向けた法整備を検討せざるをえなくなった。産経新聞は「お気持ち」表明直後に「「生前退位」可能となるよう改憲「よいと思う」八割超、FNN世論調査」という見出しでこれを報じ、天皇の「お気持ち」を可能にするために憲法改定が必要だ、という世論づくりを試みているのがかえって目につく程だ。
退位を可能にするスキームが今回に限った時限立法の制定にとどまるのか、皇室典範、そして憲法改定まで進むのかは現時点では不明だが、天皇の「お気持ち」を周囲の人々が忖度(そんたく)し、更にそれを公表し、政治が現実に動いてしまうことは、戦前・戦時下における天皇の政治利用の典型的な手法と一見、よく似ている。忖度、というのは言外の意味を受け手が恣意的に解釈し、天皇の意向を威として行動することだが、かつての天皇の悪しき政治利用においては「忖度」がそのときの政治権力に利用された。しかし今回は「お気持ち」が天皇によって示され、ときの権力ではなく、国民がいっせいに忖度し、それによって政治が動かされる、という事態が起きている。その点で特異である。
言うまでもなく、天皇の「お気持ち」が、この先、憲法を含む法制度を動かした時点で、それは憲法が禁じた天皇の政治への介入となる。この前例を許してしまうと、天皇の「お気持ち」がほかの領域でも政治を動かす前例になる。ぼくはその一点で、天皇の今回の行為は肯定できない。安倍政権の憲法解釈の恣意的な変更以降、私たちは憲法が国家や「公(おおやけ)」を縛る規範であることに鈍感になっている。「公」にあるものは、自らが恣意的な憲法解釈をすべきではなく、その意味で天皇もまた憲法に縛られる公的存在であることは忘れるべきではない。憲法に規定される以上、天皇も憲法を超越すべきでない。
このようなぼくの基本的立場をまず明示した上で、産経新聞のあからさまな改憲誘導とは別に、憲法改定で天皇の「君主」化を目指していたはずの安倍政権や、それを支援する日本会議など、右派の人々の困惑に注意したい。論壇なるものを遠く離れて長いぼくは、政治の内情についていまや何も知りうる立場にないから、生前退位の意向のニュースを聞いて、当初は、安倍政権はそこまでするのか、とまず思った。つまり、これまでの発言を振り返ったとき、護憲的な立場を表明してきた現天皇や、右派のメディアであからさまに批判されている皇太子から、その次、更に次へと皇位の移行をスムーズにするために、政権与党に忠実なNHKを使って右派が露骨な世論操作を始めたのだ、と思った。だが、どうやらそうではないことは、政府などの対応からうかがえる。
そもそも右派が目論んできたのは強い天皇の権威を自らが利用することで、「忖度」とはときの政治権力がそれを行使することにこそ都合のいい意味がある。ところが、今回、天皇は権力に「お気持ち」を忖度させなかったのである。現行天皇は政治権力を抜きにして天皇の「お気持ち」を国民が直接「忖度」する関係をまずつくってしまった。
このように天皇の「お気持ち」が国民全体にシンクロニシティを呼び起こすあり方に対して、それをどう評価すべきなのか。
これに対しては、戦後史的には象徴天皇制の完成であり(しかし、ぼくは右派とは違う立場からこれを肯定しない。天皇制は断念されるべきだ、というぼくの立場はとうに表明済みである)、そして世界史的な文脈でいえば、世界中で進行中の「反知性主義」(ということばもぼくは好まない)のその先の事態の最も極端な例である、ということに尽きるだろう。それらの事態を包摂する形でぼくは現行天皇のもたらしたこの現況をひとまず「感情天皇制」と呼ぶ。
現在の日本において、左派の立場から言えば、安倍政権や日本会議が北米のティーパーティーやヨーロッパの極右政党に相当する反知性主義的な政治勢力だ、という見立てはおそらく間違ってはいないだろう。しかし、イギリスのEU離脱が国民投票で実現し、その結果にEUからの独立を訴えた政治家たちがうろたえ、トランプがティーパーティーさえ置き去りにして、共和党候補になってしまったように、民意が政治勢力としての反知性主義グループを置き去りにする、という事態が新たに見られる。その点で政権与党やそのバックボーンにある日本会議的な右派を、「お気持ち」と国民感情が一体化することで置き去りにしてしまった今回の事態も同様の現象だといえる。知性と権力の結びつきを嫌悪する感情を利用して政治に影響力を持ちえた旧「反知性主義」勢力を抜きにして、感情が権力抜きで国民化してしまっているのである。それが右派左派どちらに傾斜するかよりも、反知性主義さえも置き去りにされる「感情」的な政治選択がなされうるリスクのなかにいま、世界も、その一部としての日本もある。
このような「感情」が私たちの価値判断の最上位に来て、「感情」による「共感」が社会システムとして機能する事態を本書では「感情化」と呼ぶ。「感情」という語は単に権力者や、あるいは人々の政治選択が「感情的に見える」という意味ではない。そしていまさら、と思えるだろうが、アダム・スミスからぼくはこの語を復興させることにする。
少し前まで「感情的」であることはネガティブな意味であり、理性や道徳がこれを規するという考え方がごく普通にあった。そのひどく自明なあり方をわざわざ近代の始まりにおいて体系化したのが、アダム・スミスの『道徳感情論』である。そこでは他人の「行為」や「感情」への「共感」が社会構成の根幹に据えられる。しかし、それは「私」の「感情」と他人の「感情」を直接、「共感」させるのではなく、自分のうちに「中立的な観察者」を設け、それが自分や他人の「感情」や「行為」の適切性を判断する基準を形成するという手続きをとる。それが結果として規範、つまりは「道徳」を形成していく。
このようにアダム・スミスは自明のこととして「感情」が適切な回路を通じて「道徳」化することを疑わず、その過程を検証した。久しぶりに(高校の「倫社」の授業以来だ)読み直したアダム・スミスのこの著が、後で少しだけ触れるように、柳田國男の思考を彷彿とさせ、一定の説得力があることに改めて驚くが、問題なのは、このような回路がいまや失われた、という点だ。その意味で「感情化」とは、「感情」が「道徳」(広義の規範や公共性)を形成する回路を失った事態を指すと言ってもいい。アダム・スミスのあまりに有名な経済における「見えざる手」も、一人の人間のなかに、感情的に自己利益を追求し、「財産への道」を往こうとする「弱い人」(weak man)と、そうではなく、自分にも他者にも倫理的な「徳の道」を往こうとする「賢者」(wise man)がいて、両者の均衡によってそれはもたらされる、と読むのが妥当だ。前者のみが機能するのが新自由主義であることは言うまでもない。新自由主義とは本能的という意味においては「感情」的なのである。
このように、スミスにしたがえば、いまの私たちはただ、「感情」的であり「共感的」である。しかし「中立的な観察者」が私たちの心のなかにはいない、ということになる。そしてこの「中立的な観察者」抜きでは「感情」はただ互いに「共感」し合い、巨大な「感情」となってしまうだけである。
言うまでもなく、この内的な観察者は政治やメディアや文学といった形で「外化」され、制度化してきた。「知性」と呼ばれるものもそうだろう。しかし、それらが現に機能不全に陥っていることは言うまでもない。既存のメディアが第四の権力としての信頼性を失ったのも、自ら「感情」化したからにほかならない。そして感情的な政治や感情的なメディアや感情的な文学や感情的な知性がいまやあふれている。
確かに「共感」によって人は結びつく。それが人間の社会構成の基本的なエンジンであることは、「ミラーニューロン」という他人の感情を汲みとり共感する神経細胞が発見されたことに、ある程度裏づけられているという主張さえある。実際、ミラーニューロンをアダム・スミスと結びつけるコメントは近年刊行されたアダム・スミスの新訳の文庫や、入門書の新書のあとがきに共通して見られる。
しかし「共感」に対して批評的であること、あるいは「共感」できない感情や行動(つまりは「他者」)をどう理解していくかという手続きを放棄して、「共感」が直接「大きな感情」(とでもひとまず呼ぶ)に結びついてしまうと、そこに出来上がるのは私たちが本来設計すべきだった「社会」なり「国家」とは異質のものとなる。それは社会や国家ではなく、「感情」が共振し、あるいは融解した何ものかである。
庵野秀明がかつて前世紀に描いてみせた、自他の心的境界が人類レベルで消滅する人類補完計画のような世界が、虚構としてではなく、私たちの生きる世界の具体的な形としていまやある。
感情天皇制とはその現在形の一つである。
感情天皇制の起源としての玉音放送
このような「感情化」と象徴天皇制の結びつきについて、つまり、感情天皇制とは象徴天皇制の到達点だということについて、まず、整理しておきたい。象徴天皇制の出発点を制度としては戦後憲法に見出すのは当然だが、天皇の「感情化」はそれより前、一九四五年八月一五日の玉音放送にさかのぼれる、と言える。
この玉音放送で注意すべきは、それが国民との関係を「共感化」するものであった、という点だ。
まず昭和天皇は自らの政治的判断に対して「東亜ノ解放二協力セル諸盟邦二対シ」、まず「遺憾の意」を「表明」し、次に国民に対してこう述べる。
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ悲命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
「臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル」、つまり国民の「感情」を私はよくわかっている、と昭和天皇は国民へ「共感」を表明するのである。だから国民もまた「堪ヘ難キヲ堪ヘ」る私の気持ちをわかってほしい、と訴える。このように玉音放送は天皇の国民への「共感」と国民からの「共感」をともに求めている。理性や論理による説得ではない。現行天皇の「お気持ち」と実は全く同じロジックがすでに用いられていることは、ここから戦後の天皇制が始まった一つの証左にはなろう。
しかし同時に昭和天皇は国民の「感情」に対してこうも述べている点だけは留意しておく。
夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
「情ノ激スル所濫」であること、つまり「感情」の理性的な抑制を「国民」に求めているのである。これは昭和天皇が「感情」を客観視する理性や倫理の代行者として同時にふるまおうともしている、と理解していい。天皇と国民が感情を互いに理解し合う一方で、同時に感情の暴走への中立的な審判者に彼はなろうとしていた。「感情」が理性に転じ、それが国際社会と共有される規範になることを暗に求めているようにさえとれ、ここから憲法前文の「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」という一節はそう遠くない。国際社会において国家の感情を外部で律する規範は、アダム・スミスの『道徳感情論』の後半で展開されることであり、機能しなかったとはいえ、そのような国際規範をつくろうとする機運は「戦前」にすでにあった。昭和天皇の「玉音放送」と戦後憲法の連続性はもう少し広いスパンをとると、実は見えてくると言える。
それに対して、現行天皇の「お気持ち」が、戦後憲法の定める象徴天皇制の解釈であることは、今回の「お気持ち」の表明が「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」と宮内庁の公式HPに掲載されていることでも何より確認できる。それはぼくの忖度、つまり推察ではなく、事実としてそう題され、そしてこう発言が記されている。
即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。
自分の天皇としての在位の日々は象徴天皇制の模索と実践であった、と彼はまず言い切る。この点で現行天皇は戦後憲法の実践に真摯であった例外的なパブリックサーバントとしてあった、と言える。そして、そのような立ち位置から彼は自らの考える象徴天皇制を表明するのである。
このような天皇自身による憲法解釈の表明は、現行憲法下では大きな逸脱であるはずだからこそ、「お気持ち」で繰り返される「政治」的発言にならないようにという危惧は、発言の結果、何らかの法の改定がなされることへの危惧より、天皇自らが憲法解釈をおこなうことに対してのエクスキューズであったと考えられる。
それでは、「お気持ち」が、天皇による天皇条項の「解釈」である、ということを踏まえて、彼の発言をいま少し読み解いていく。
私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間(かん)私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。
在任中、自分は「我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごし」「人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添」ってきた、そしてほぼ「全国に及ぶ旅」をしてきた、とその自ら解釈した象徴天皇像に忠実であったと自負を語る。
ここで示されているのは国民の「感情」を受け止め共感し続けた自己像であり、自身の高齢化や昭和天皇崩壊の際の混乱にさえ言及する。そして、その「思い」「気持ち」が「国民の理解を得られることを、切に願っています」と言い、一礼する。
その結果、天皇の「お気持ち」への「共感」が成立したのである。
しかし、この「おことば」に宮内庁が公的に付した題名を含め、発言を理性的に読めば、現行天皇は自ら象徴天皇制を憲法解釈し、その上で、老いなどによって彼の考える象徴天皇が一時的に機能不全に陥ってしまうことを危惧していることは当然わかるはずだ。
この「機能」というのは天皇自身が用いたことばである。「重病などによりその機能を果たしえなくなった場合」という言い方で、天皇そのものを「機能」として自ら定義していることはもう少し注意していい。いわば天皇自らが天皇機関説を公言した、とさえ言えるのだ。憲法に定められた象徴天皇というシステムの機能不全のリスクを回避したい、というのがこの「おことば」の論理構成であり、その点でも極めてこれは「政治的」な発言である。
だからこそ、天皇はこの発言自体を個人的なものとまず釈明しなくてはいけない。
本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。
ぼくがこのエッセイのなかで現行天皇を陛下とも記載せず、敬語も用いないのはぼくの天皇論の昔からのスタンスだが、今回に限っていえば「個人」として彼がおこなった政治的な発言やふるまいに対して、ニュートラルであろうとすれば、こういう書き方が選択されて当然だと考える。無論これは「詭弁」だが、メディアでは天皇に限らず、首相に言及するとき敬語を用いる言説がいまや少なくなく、そのことが政治に対してニュートラルな、そして批評的なことばを案外と困難にしている。
話を戻せば、今回「個人」として彼が政治的な発言をし、しかし、それが「お気持ち」の形をとらざるをえなかったことで、その意図は「お気持ち」の部分でしか受け止められていないというディスコミュニケーションを生んだ。つまり老いたので激務を後進に譲りたい、という「感情」としてのみ受け止められ、象徴天皇制に対する「解釈」そのものはスルーされてしまった。しかも、それは天皇の政治的発言はいかなる形でも認めない、という「国民」の理性的な判断がなされた結果ではない。「象徴天皇制」についての問題提起としては受け止められず、彼の語る象徴天皇観を妥当とすべきか、あるいは右派の一部が望む「君主」として再定義すべきか、あるいはぼくが考えるような天皇制を廃止すべきかを含めた憲法の天皇条項を根本から見直すべき議論は起きない。
しかし、天皇の発言が象徴天皇制を「共感」や「感情」の問題として定義したことの問題はもう少し考えてもいい。
天皇自身が「おことば」内で二度、繰り返しているように、現行憲法は天皇の政治介入を禁じている。しかも戦後憲法はその一方で明治憲法のような「国家」そのもの、つまり「国体」としての天皇ではなく、「国民の統合」、つまり社会なりパブリックなものの「象徴」として天皇を定義した。「国家の統合」でなく「国民の統合」という差異は重要で、それは戦後教育にGHQが持ち込もうとした「社会」や「公共」との関わりで理解しなくてはいけない。いわば天皇を民主主義の装置としたのである。
いま、ここでそのような西欧型の民主主義の是非について論じるつもりはない。ぼくは民主主義システムがいくら罵倒されようが、現状はそれ以外の選択肢は誰も示せていない以上それを維持するしかないと考える。民主主義を「嗤(わら)う」ことは誰にでもできるが、実行する努力には多くの人は怠惰だ。その列に加わる気はない。
しかし、そのような民主主義の不徹底を含め、戦後の日本が「社会」なり「公共性」を自らつくり上げていくことに失敗した要因の一つは、象徴天皇制があらかじめパブリックなものの形成を「天皇」というシンボルに委ねる制度にある、ということはやはり指摘しておく。本来であれば、自ら合意を形成した理念の「象徴」として天皇を定義する責任が、戦後憲法下の「国民」には求められていた。
他方、天皇は自ら「象徴」を「機能」と定義していたことが今回、明確になった。天皇が憲法の定めた「国民の統合」の「象徴」として「機能」しようとすれば、政治的言動を禁じられている以上、彼はただひたすら国民の「感情」に「共感」し続けることしかできない。政策に関与できない以上、選択肢はそれしかないのだ。このような天皇像に対して「国民」もまた自分たちの「感情」を汲みとることのみを「天皇」に求めた。それは自らの「合意」を天皇に表象せしめることに怠惰であったことと同義である。このように、現行天皇の真摯さと国民の怠惰の上に象徴天皇制は成立しているとさえ言える。
天皇が非政治的にパブリックなものの形成に関与しようとすれば、感情への共感という手段をとらざるをえない。だから国民は結局、「感情」的にしか「統合」しえていない。そのことはいちいち立証せずとも、ちまたにあふれ返る「絆」や「キモチ」といった語のうんざりする氾濫にも、二〇〇〇年代に入ってからポピュリズムを煽動してきた右派の人々のなかからでさえ、「右」のポピュリズムに対する脅えが語られるようになったことにも見てとれるだろう。
「感情」のみによる国民統合が抑止できなくなっているのだ。では、抑止するもの、即ちアダム・スミスの言う「感情」「共感」に対する中立的な観察者はどこに求められるのか。
それは「憲法」である。少なくとも現行天皇はそう表明している。玉音放送では天皇が感情の抑止、つまり理性を求めたが、現行天皇は戦後憲法の象徴天皇像を彼のうちなる「自覚」と表現する。
天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らのうちに育てる必要を感じて来ました。
つまり、自分の解釈した憲法の定める「象徴天皇」を彼の内的な倫理にすべく自分は生きてきた、と語るのだ。
「お気持ち」が政治的発言である、とぼくは繰り返し述べてきたが、彼のこの発言は、もう一度確認するが、象徴天皇制への天皇自身の解釈である。彼は象徴天皇制を定めた現行の憲法を行動規範とし、そこから象徴天皇としての機能を導き出し、実行し、そして内在化し、倫理化している。一切の公的なものは憲法によって規定される以上、天皇は自らもその一機能として自己規定し、自らどうあるべきかを内在化してきた。この手続きは正しい。
それに対し、現行憲法をただ感情的に否定するだけで、同様にただ感情的に守るべきと主張するだけで、憲法を行動規範化する手続きを怠ってきたのが戦後史であり、それを内在的な倫理や規範としていく現行天皇のような愚直さを彼以外の人々は大抵は試みなかった。現行の日本社会の多くの問題は憲法や民主主義の問題ではなく、それを実行できなかった問題であることは繰り返し述べてきたが、この国の現在はその怠惰がもたらした当然の結末であり、今後、誰がどう憲法を書き直そうと、この怠惰が繰り返される限り、憲法は「機能」しない。
このように、国民は自分たちの「感情」が天皇に「共感」されることを求め、結果、「国民」は「感情」としてしか天皇の問題提起を受け止められなくなった。憲法を倫理や規範として生きようとした彼を「国民」が理解したとは言い難いのである。それは憲法解釈を「お気持ち」としてしか表出しえない象徴天皇の立場があり、そして、国民はただ「お気持ち」のみを受け止めた。
その絶望的なディスコミュニケーションこそ「感情化した社会」がもたらしたものである。
象徴天皇制の本質は「感情労働」である
このような象徴天皇制に見てとれる「機能」、つまりひたすら相手の「感情」を汲み続ける行為を「感情労働」と呼んだのは北米の社会学者アーリー・ラッセル・ホックシールドである。つまり、象徴天皇制の本質とは「感情労働」にほかならないのである。
ホックシールドはポストフォーディズム的社会、脱工業的社会では「労働」は単純な「身体労働」や「頭脳労働」に対して、「感情労働」という領域が見えない形で成立している、とする。かつてマクドナルドが日本に上陸したとき、メニュー表に「スマイル0円」と記されていたことをどれほどの人が覚えているか定かでないが、マクドナルドのアルバイトはただハンバーガーのレジを打つだけでなく、購入者に対して「快適な客対応をすること」も労働のうちに求められたのである。そのために「スマイル」という感情も「売る」業態が成立する。私たちはいまではすっかりそのことに慣れているから、外国に旅したときの飲食店の「無愛想さ」に愕然とし、日本人の「おもてなし」に自己満足するが、このようなサービスのあり方はマクドナルドやディズニーランドのマニュアルによって八〇年代に日本に概念として持ち込まれた労働形態であることは忘れるべきでない。
先のホックシールドは「感情労働」をこう定義する。
この労働を行う人は自分の感情を誘発したり抑圧したりしながら、相手のなかに適切な精神状態─この場合は、懇親的で安全な場所でもてなしを受けているという感覚─を作り出すために、自分の外見を維持しなければならない。この種の労働は精神と感情の協調を要請し、ひいては、人格にとって深くかつ必須のものとして私たちが重んじている自己の源泉をもしばしば使いこむ。(アーリー・ラッセル・ホックシールド著/石川准、室伏亜希訳『管理される心──感情が商品になるとき』世界思想社、二〇〇〇年)
ホックシールドがこう書いたのは一九八三年のことである。彼は飛行機の客室乗務員の「労働」と雇用主による「感情管理」の分析から「感情労働」において雇用者に労働者の感情が管理されることを新しい疎外の形式と考えた。つまり労働者は、「肉体」だけでなく、「心」も労働として管理されるのである。
そして二〇〇〇年代に入ると家事や介護の「感情労働」としての側面が議論として出てくる。
「感情労働」が問題になるのは、一つは個人の内的なものの発露をサービスとして提供することを求められることで、身体どころか精神までが資本主義システムに組み込まれてしまうこと、そしてそれがしばしば無償労働である、ということの二点だ。私たちが日頃接するサービスに対して常にユーザーの評価の形で相手に快適な対応、つまり「感情労働」を求め、それが点数やコメントとして表出される仕組みになっていることは、働く側にとってもサービスを受ける側も現に日々、経験しているだろう。他方、肉体労働としての作業や身体の拘束、時間の切り売りの対価は払われても、「感情労働」の部分は奉仕的精神的な美徳としてしまうことで曖昧化される。
それと天皇を一緒にすべきでない、という反論は当然あるだろう。
しかし、天皇もまた本来は宗教的な司祭であり、それこそ明治から昭和前期にかけては「神」として定義されていた。だから「国民」はその名残で神聖者としての天皇の「感情労働」を自明のことと思ってそれを彼に要求してきた。事実、天皇は「機能」として国民の感情を快適化することを局面局面で求められ、しかも、政策的提言や実践は許されず、感情労働のみが求められる。例えば被災地におもむき、彼は、感情を汲みとる。しかし、それは復興政策には少しも反映されない。
ぼくはここでだから天皇が政治にコミットすべきだと言っているのではない。そうではなく、彼らの一族をある意味で徒労である「感情労働」からいいかげん解放してしかるべきだ、と言っているだけだ。
そもそも「感情労働」が問題なのは、相手の感情に共感するためには自己の感情管理を、労働者の場合であれば企業から求められ、それが個人の内面を疲弊させ、尊厳さえも損ないうるからである。今日、天皇が「個人として」発言し、その象徴天皇の「機能」に体力的な限界がある、と表明したことは、象徴天皇制が「感情労働」としてのみ成立している、という特異性をようやく私たちに気づかせてくれる。そのとき、彼に「感情労働」を求めるユーザーや「感情管理」を要求する雇用主は誰なのか。私たちはユーザーとしてwebサービスに「感情労働」を求めていることが自明だし、web企業は労働者にそれを求める。だとすれば「天皇」に「感情労働」を求めているユーザーは「国民」であり、天皇に「感情管理」を求めている雇用主も主権者としての国民である。
そもそも皇室の人々は選挙権や職業選択や住居や国籍選択の自由、そして政治的発言が禁じられている点で表現の自由も与えられていない。つまり、憲法下の「人権」の例外規定である。「個人」であることをそもそも禁じられている。その上で「感情労働」のみが求められる。
「感情労働」に対して無償労働や奉仕の精神によって曖昧化されるのは、すでに言及したように、本来、このような他人の感情を慰撫する行為が神やその代理者としての聖職者に求められたからである。しかし、身体に限界がある以上、つまり、人間である以上、そこに限界があると、「個人としての天皇」の所在を彼は表明したのである。そして「個人」としての「お気持ち」の理解を求めたのである。その意味では「お気持ち」は現行天皇の人間宣言であった。
なるほど、それは「人としては」わかる。しかし、そうであれば「人」を「象徴」にして国民全体に対する感情労働に強制的に就かせる制度が正しいのか、もし、それを存続させるとして、今回、主張された象徴天皇制を「機能」としてどう定義し直すか、という問題は、彼の発言が「お気持ち」である限り届かない、という矛盾がそこにある。
そして何よりも皮肉なことに、天皇の今回の「お気持ち」に国民の九割が「共感」する形で全面的に天皇の感情労働に依存する、感情の国民国家とでも言うべきものが象徴天皇制の帰結としていまや完成したのである。(*つづきは『感情化する社会』でお読みください)
- 感情化する社会
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著者:大塚英志
発行:太田出版
価格:1500円+税
搬入日:2016.9.28 - Amazonで購入予約 詳細
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〈プロフィール〉
- 大塚英志
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大塚英志(おおつかえいじ)1958年生まれ。まんが原作者、批評家。本書に関わるまんが原作としては、山口二矢、三島由紀夫、大江健三郎らをモチーフとした偽史的作品『クウデタア2』、本書に関連する批評として、『物語消費論』『サブカルチャー文学論』『少女たちの「かわいい」天皇』『キャラクター小説の作り方』『更新期の文学』『公民の民俗学』などがある。