夕方。すこし疲れた表情で帰路につく。今日はなんだか、両肩にかけたリュックがいつもより重たい。こんな日もあるよなあ、なんて思いながら電車に乗り込む。ガタンゴトンと心地よいリズムが包み込んでくれて案の定ぼーっと考えごとをする。こんなだらしない僕でさえちゃんと目的に運んでくれるマジメで電車ならびに車掌さんには頭が上がらないってなもんで。
ちいさな出来事
しばらくぼーっと外を眺めていたら、だんだんと空も秋を感じはじめたようで、いつのまにやらオレンジ色のカーディガンに衣替えをしていた。「帰ろうか」という声が聞こえてきそうなくらい、ほっこりする親子の姿も車窓から見えた。そのとき、ある友人が言っていたことを思い出した。
「ちいさなことにも感動できるって、すごく幸せなことだと思うんだよね。」
にこにこしながら、いや、にやにやしながらそう言っていた。ぼくはそれを聞いて、自分が今まで思っていたこと、伝えたかったことをいとも簡単に言語化してるやんってなって嬉しくなった。つまり、とんでもなく共感していた。
幸せの基準
幸せってのは実体がないために、ソイツを感じる・感じないは完全にそのひとの捉え方や受け取り方によって変わってくるものだと思う。主観によるところがとても大きい。
ぼくが本日お目にかかることのできた「ほっこり親子」だって、見る人によってはただの手を繋いでいる親子なわけで。このちがいが面白いなって思いはじめてから、ぼくは無意識にちいさな出来事に目を向けるようになっていた。
そして先ほどのことである。疲れきったぼくがぼーっとしていた電車内で、その疲れが与論島あたりに吹っ飛ぶほど身体中に広がる温かな幸福感に包まれて、にやにやしているのが今である。笑顔がこぼれる。あとで口を塞いでおいてほしい。
受け取りかたなのではないか
おそらく毎日は「ちいさな出来事の連続」で作られていて、朝起きてから夜寝るまで、本当にたくさんの、無数のちいさな出来事たちが詰め込まれまくったモノが「今日」という1日なのだとおもう。
でね、これをどう受け取るかってのは本当にそのひと次第で、たとえば乗り換えが上手くいったとか、あの子から返事がきたとか、帰り道にねこを見かけたとか、そんなちいさな出来事に、どれだけ感動できるかで幸せの分量は変わってくるのかもなって。
この出来事たちに気付かない人もいるだろうし、見て見ぬフリをする人もいるだろうし、慣れちゃって感動が薄れちゃってる人もいるかもしれない。
でも、どうせなら、ちいさなことにも感動し、幸せを感じられる人に、ぼくはなりたいと思う。
日常の小さな小さなことにも感動できると、とんでもない幸福感に包まれることに気付いた。
— しみ (@shimi_yurutabi) 2016年9月16日
朝のコーヒーが美味しかった、人に親切にされた、仕事でちょっぴり嬉しいことがあった。
1つ1つちゃんと受け取って、感動して嚙みしめることで、小さな出来事は大きな幸せになっていくのかもしれない。
ちいさな出来事たちが、今日という1日になって、そんな今日たちが「人生」ってのになるんだと思うんだよなあ。たぶんね。