恩寵と共にある

覚醒や目覚め、恩寵について分かち合う場としていきたいです。

2か月ぶりに瞑想会を開催します。


瞑想会ではまず浄化を伴う瞑想を行い、それから静かにただあるに入っていきます。
「何もせずにただある」を三つの次元から説明し、それに取り組んでいきます。


まずは気づきを明確にしていきます。気づきの対象ではなく、気づきの主体にとどまります。これをプレゼンスとも言います。
それからくつろいでいき、男性エネルギーと女性エネルギーを融合させていきます。この時私たちは「ただある」を実感し、それをビーイングとも言います。


そこから更にハートのワークを行っていきます。ここでいうハートはハートチャクラや肉体次元のハートではなく、この現象世界と神聖なる次元の橋渡しとなる深奥なものです。
ハートが活性化し開いてくることで、恩寵を受け取っていきます。それによって魂の目覚めが起き、この世を地に足を着けて生きることができてきます。


◎ 日時 7月31日(日) 14時~17時

◎料金  三千円

◎場所 埼玉県 連絡があった方に具体的な場所をお知らせします。 


詳細はこちらから。
http://ameblo.jp/onnchou/entry-12177803667.html
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スピリチュアルと一言で言っても様々なものがある。引き寄せの法則もその一つである。そして引き寄せに関しては、結果が出たか出ないか、それは一目瞭然である。

 


一方で、悟り や覚醒を目指すものもある。これに関しては、達成したかどうか、それを明確に形にすることはできない。私は悟っている。

覚醒をしている。このように主張する人もいるが、それはあくまでも自分で言っているだけであり、 それが確かなものか、明らかにすることは難しい。

 


覚醒したと言っている人で、本当にそれを達成してる人もいるだろうが、実際のところ、自分で思い込んでいるだけの人も少なくない。

これはいわば言ったもの勝ちであり、 自分は覚醒したとしちょうすれば、それを信じる人も出てくるだろう。だが安易にそれを信じ込んでしまうのも危険である。

 

 

精神性や霊性を高めていくのも、色々な段階がある。ここでは 様々な次元があるという表現をするが、途中の次元を 非常に高い次元、悟りの次元と勘違いしてしまうケースもある。

 

 

それはそれである段階まで達成したのだから、全く無意味とは言えないが、まだ覚醒をしてもいないのに、私は覚醒したと思い込み、それを周りに主張してしまうのは、いかがなものかとも思われる。

 


あるいはまだ覚醒してもいないのに、覚醒したと思い込まされてしまう。ここでは魔 という表現をしておくが、魔の働きによって、自分は覚醒したと錯覚してしまうこともある。

 


このようなケースも少なくはなく、十分な注意を要する。自分の状態はどのようなものであるか?それを常に内省して、チェックをしておく事。これが非常に大切である。

だが瞑想が深まってきたり、霊的な段階が進んでくると、自分はもうできていると思い、内省して自分の状態をチェックすることを怠るようになりがちである。そこから転落が始まる。

 


外的な魔の働きに意識が向きすぎるのもよくないが、段階が上がれば上がるほど、魔の働きも強くなる。これもまた事実である。よく言われることだが、 光が強くなれば、闇をまた強くなる。これは私自身の経験や、私の仲間たちの状態を見て、間違いない真実であると思われる。

 


自分は悟ったと勘違いするときや、外的な魔に付け込まれる時は、得てして傲慢になっている。謙虚さをかいてしまうようになる。そうなってしまったと 気づくことができればいいのだが、傲慢になってしまうと、なかなか気づくことができない。

 


そういう時は、周りの意見にも素直に耳を傾けることもできなくなる。素直さは非常に大切なことだが、 傲慢になってしまうと、素直になれず謙虚さを失う。 周りの意見だけを尊重することはないが、素直に周りの意見を聞けなくなることも要注意である。

 


そして、今までよりさらに目覚めてくると、それを妨害しようとする現象が起こることがよくある。そこでせっかく、より一層幻想から解放され、目覚めていくチャンスが訪れても、そこで止まってしまったり、引き返してしまうこともある。

 

 

それはもったいないことではあるが、自分自身が 妨害があっても、それを逆にチャンスと捉え、目覚めを深めていくという覚悟ができていないなら、無理をしない方がいい。どうしていつかは自分で決めることである。

 


ともかく大切なのは、自分自身を謙虚に見つめ、改善すべき点は改善し、伸ばすところはさらに伸ばして行く。それを行い続けていれば、大きく 外れてしまうことはないだろう。 

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何かを書こうとしても、すらすらと出てこない。以前ならそれがストレスになったり、苦痛であったりしたが、今はそれもまた心地よい。言葉にならない。それ以前のスペース。

 

 

スペース。空白。

 

 

内面にある。広大なスペース。いや内面外面という区分も本来存在しない。完全に全てを包含する、それそのもの。

 

 

それは全く空虚ではない。そこから言葉も形も生みだされる。それがなければ全ては存在しないし、それだけが全てではない。

 

 

スペースを理解するには、瞑想は一つの手段。だがそれだけではない。日常でもそれは体験できる。ただそれに気づかず、見過ごしてしまうことが多すぎる。

 

 

瞑想ということでなくても、日ごろから静かにしている時間を取ること。それによってスペースに気づきやすくなる。私たちはあまりにも外側の現象に煩わされすぎている。

 

 

今日のところはこれ以上書くことがない。

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私は基本的にお人好しで、疑うことをあまりできない方だ。思春期の頃に、ぐれたわけではなく多少ひねくれて、疑うこともするようになったが、根本的には人を疑うことは得意ではない。

 

 

今の世の中では、私のようなタイプは少々生きづらい。自分も含めて、お人好しのタイプは無防備であることが多いように見える。そして理不尽なことや不合理なことも引き受けてしまい、傷ついたり、痛めつけられてしまう。それは現実的にもそうだし、精神的、霊的にもである。

 

 

とはいっても、「こんな世の中が悪いのだ」などと自分以外のせいにばかりしてもいられない。無防備であることで損失があるならば、防御をきちんとすることも必要である。そのことに近頃気づかされた。

 

 

オープンであることは素晴らしい。だが今の世の中では、ただ単にオープンであれば損失を被ることも残念ながらある。ガードする時はきっちりとガードをし、オープンでいい時にはオープンでいる。そのような調整も必要だ。

 

 

先日友人のヒーラーに、私のヒーリングのやり方では、自分の身を削るようなものであり、このままでは寿命も縮めてしまう、だから防御の仕方も覚えた方がいいと言われた。確かに私は、かつて自分の身を削ってでも、相手のために尽力を尽くそうとしてきた。今から思えば、それも自分のエゴだったのだが、当時はそれが自分のやるべきことだという信念があった。

 

 

何年か前から、それは自分にとっても、相手にとっても役立たないと気づきだし、自らを消耗させることをしないようにしてきたつもりだったが、長年にわたって行ってきたことは、未だに染み付いていたようだ。

 

 

今までのやり方を根本的に見直す必要があるという出来事も起こり、いいかげん自分を消耗させることを止め、防御することも身につけていこうと実際に取り組み始めた。それによって今後の自分自身の瞑想や、ヒーリングなどに変容が起こってくるのではないかという予感もある。

 

 

気功治療や、ヒーラーの人に短命の人も少なくない。それはいわゆる相手の影響を受けるという現象があり、自らのエネルギーを消耗させてしまうからに他ならない。私もその流れに飲み込まれていたが、もうそこから脱却しなければならない。

 

 

自分の身を削って、相手のために尽力するというのは、一見素晴らしいが、その背景にはただの自己満足がある場合が多い。相手も良く自分も良いというのが、健全な関係性である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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先月末にちょっとしたアクシデントがあり、なかなか大変だったが、ようやく落ち着いてきたので、ブログも更新が滞っていたが、少しずつ書いていけるかと思う。

 

 

先月末は体の自由があまりきかなかったが、今ではある程度動かせるようになってきた。通常だと簡単にできることが容易にできないというのは、やはりストレスになる。

 

 

そのような体験をすると、五体満足でいられることがとてもありがたい。夜に寝て、朝に目が覚めるのは大きな奇跡であると言った人がいて、誰だったか忘れてしまったが、それはまさに真理であるとつくづく思う。

 

 

近頃では、やれ覚醒した、非二元だ、ノンデュアリティだ、というのが、スピリチュアルの一部で横行しているが、いざ身体の自由がきかなくなると、そんなことなど吹っ飛んでしまう。

 

 

まあ私もかつては悟りだ、ワンネスだと吹聴し、日常や身体などを軽んじていたが、私たちは今こうして生きているわけで、そのことにもっと意識を向け、生きながらえていることに感謝することが根底にあるのだと今さらながら気づかされた。

 

 

アクシデントなどなければそれに越したことはないが、生きている以上どうしてもそういうことがある。避けられるアクシデントは避けるようにし、それでも避けられなかった時は、そこから何かを学びとれるか、気づきがあるかが大切である。

 

 

健康でコンディションが良い時は、どんなことでも言える。何かが生じた時にどのような言動をするか、それが重要であり、その人の本質が浮き彫りとなる。

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憎しみにある人たちの中にいても 、喜びと愛の中に生きなさい 。苦しんでいる人たちの中にいても 、喜びと健康の中に生きなさい 。

不幸な人たちの中にいても 、喜びと平和の中に生きなさい 。輝いている人のように 、所有せずに喜びの中に生きなさい 。

勝者は憎しみを蒔く 。なぜならば 、敗者が苦しむからだ 。勝敗を手放し 、喜びを見つけなさい 。

ゴータマ・ブッダ


oshoの本、JOYの第5章冒頭に掲載されていた詩句。本当にブッダがこの詩句を説いたか定かではないが、ブッダが本当に言ったかどうかは重要ではない。大切なのは内容である。


喜ばしい人と一緒だったり、喜ばしい環境において、喜びの中に生きることはたやすいが、そうではない時は難しい。


真に喜びと平和に生きれば、どのような状況だろうと喜びである。現実問題として、なかなかそうはいかないが、普段から喜びに生きるようにしておくことが大切だ。


ここでいう喜びは、外的なものからもたらされるものではない。自分自身に本来備わるものであり、ただそれそのものである。


そして人は勝敗にこだわり、それが必要な場合もあるが、勝敗からは真の喜びは生じない。それを手放して本当の喜びがわきおこる。
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