原爆を投下した理由は官僚が出世したかったからだが、誰もその事は言わない。

引用:http://www.teaparty.org/wp-content/uploads/2015/03/Atomic_cloud_over_Nagasaki_from_Koyagi-jima-1940x1500.jpeg
1945年の戦い
1945年の太平洋では日米で数多くの戦いが展開されていました。
戦闘機や軍艦同士が戦うのではなく、政治的な思惑が対立して戦争終結を巡って争っていた。
山本五十六を失った日本海軍は一刻も早く戦争を辞めたがっていて、外務省と天皇は同調していた。
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引用:http://www.teaparty.org/wp-content/uploads/2015/03/Atomic_cloud_over_Nagasaki_from_Koyagi-jima-1940x1500.jpeg
1945年の戦い
1945年の太平洋では日米で数多くの戦いが展開されていました。
戦闘機や軍艦同士が戦うのではなく、政治的な思惑が対立して戦争終結を巡って争っていた。
山本五十六を失った日本海軍は一刻も早く戦争を辞めたがっていて、外務省と天皇は同調していた。
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日本陸軍は敗北を認めず、徹底抗戦によって既得権益を確保しようとした。
早期に負けを認めることで国力を温存しようとする終戦派と、本土決戦で米国を退けようとする抗戦派は互いに譲らなかった。
アメリカでは早期に戦争を終結させて、米ソ冷戦に備えようとする国務省と、戦果を誇示したい国防省が戦っていた。
国務省は日本の外務省と図って、独自の停戦交渉をまとめようとしたが、国防省の妨害などで原爆投下に間に合わなかった。
国防省はもし、国務省の交渉で終戦に至ったら、最大功労者が国務省になり、軍隊の役割りが正当に評価されないと考えていた。
軍隊のおかげで戦争に勝ったのだと証明するためには、日本を焦土にして完全に屈服させなければならないと考えていた。
1945年7月にはもはや戦争そのものは目的ではなくなり、誰が手柄を上げるか、日本では誰に責任を取らせるかの話になった。
日本海軍は沖縄が米軍に占領された6月には降伏を決めていて、外務省も同調していた。
結局責任を押し付けられたのが日本陸軍で、手柄を手にしたのは原爆使用に成功した米国防省だった。
降伏を拒否したアメリカ軍
海軍内でも徹底抗戦派は存在したが、意図的に軍艦を全滅させる特攻作戦で、反対派を封じ込めたとも言われている。
軍艦が無くなれば海軍は戦争を継続出来ないので、米国との講和条約へ向けて動き出す事ができる。
昭和天皇は東京大空襲があった3月から5月に、降伏を決めていたと言われている。
4月に大本営上層部は沖縄戦が絶望的な状況と判断し、米国との停戦交渉に向けて動き出しました。
このとき日本が期待したのは、対日参戦していないソ連が、米国との仲介役になってくれるのではないかという事だった。
同時に大本営はソ連の対日参戦を8月か9月と予想し、それまでの短期間に交渉をまとめる必要があると判断した。
だがソ連は日本と米国の仲介役を拒否し、8月8日に参戦し、日本の領土を分捕りにきました。
計画ではソ連は日本の東半分、つまり名古屋から東を占領する事になっていました。
もう一つの米国との交渉ルートは、中立国のスイスやバチカンの大使館を通すものだったが、絶縁状態だったので期待されていなかった。
大使館ルートの交渉は意外にも手応えがあったが、米国内では国務省と国防省が対立していた。
国務省は既にソ連との対決を予想し、日本との早期停戦を望んだが、国防省は徹底抗戦を主張していた。
停戦交渉にも妨害が入り8月6日と8月9日に、戦争が終わる前に駆け込みで原爆を使用した。
戦後の始まり
原爆が投下される前の7月には、ドイツ・イタリア軍との交渉も行ったアレン・ダレスを通じて降伏の意思は伝えられていた。
日本側は8月の第一週から第二週に停戦したい旨を提案し、実際には8月15日に天皇が停戦命令を出した。
アレン・ダレスは後のCIA長官になった大物で、アメリカ側が本気だったのは分かる。
米国防省はこれを察知し、日本の降伏前に、可能な限りの爆弾と原爆を投下しようと考えた。
国務省は戦争が終わっても活躍できるが、軍人は戦争が終わったら「ごくつぶし」でしか在りません。
国務省への嫌がらせのように日本全土に絨毯爆撃を実施し、あと1週間で日本が降伏するのを知りながら2発の原爆を使用した。
それだけではなく米軍は日本が降伏した後も絨毯爆撃を続け、10発の原子爆弾を使用するつもりでした。
これらの目的は戦争に勝つためではなく、国防省の官僚が出世するために行われました。
そしてダグラス・マッカーサーは1945年8月30日に、解放者のような振りをして降り立ち、GHQという軍事政権を樹立しました。
その軍事政権がおしつけたのが日本国憲法で、日本人が日本という国を憎むように、NHKや朝日新聞などのメディアを通じて、日本の戦争犯罪を流布しました。
これが戦後の始まりで、国防省や米軍人の「正しさ」や「手柄」を強調するために、多くの戦争犯罪が捏造され、無実の日本軍人が処刑されました。
日本陸軍は敗北を認めず、徹底抗戦によって既得権益を確保しようとした。
早期に負けを認めることで国力を温存しようとする終戦派と、本土決戦で米国を退けようとする抗戦派は互いに譲らなかった。
アメリカでは早期に戦争を終結させて、米ソ冷戦に備えようとする国務省と、戦果を誇示したい国防省が戦っていた。
国務省は日本の外務省と図って、独自の停戦交渉をまとめようとしたが、国防省の妨害などで原爆投下に間に合わなかった。
国防省はもし、国務省の交渉で終戦に至ったら、最大功労者が国務省になり、軍隊の役割りが正当に評価されないと考えていた。
軍隊のおかげで戦争に勝ったのだと証明するためには、日本を焦土にして完全に屈服させなければならないと考えていた。
1945年7月にはもはや戦争そのものは目的ではなくなり、誰が手柄を上げるか、日本では誰に責任を取らせるかの話になった。
日本海軍は沖縄が米軍に占領された6月には降伏を決めていて、外務省も同調していた。
結局責任を押し付けられたのが日本陸軍で、手柄を手にしたのは原爆使用に成功した米国防省だった。
降伏を拒否したアメリカ軍
海軍内でも徹底抗戦派は存在したが、意図的に軍艦を全滅させる特攻作戦で、反対派を封じ込めたとも言われている。
軍艦が無くなれば海軍は戦争を継続出来ないので、米国との講和条約へ向けて動き出す事ができる。
昭和天皇は東京大空襲があった3月から5月に、降伏を決めていたと言われている。
4月に大本営上層部は沖縄戦が絶望的な状況と判断し、米国との停戦交渉に向けて動き出しました。
このとき日本が期待したのは、対日参戦していないソ連が、米国との仲介役になってくれるのではないかという事だった。
同時に大本営はソ連の対日参戦を8月か9月と予想し、それまでの短期間に交渉をまとめる必要があると判断した。
だがソ連は日本と米国の仲介役を拒否し、8月8日に参戦し、日本の領土を分捕りにきました。
計画ではソ連は日本の東半分、つまり名古屋から東を占領する事になっていました。
もう一つの米国との交渉ルートは、中立国のスイスやバチカンの大使館を通すものだったが、絶縁状態だったので期待されていなかった。
大使館ルートの交渉は意外にも手応えがあったが、米国内では国務省と国防省が対立していた。
国務省は既にソ連との対決を予想し、日本との早期停戦を望んだが、国防省は徹底抗戦を主張していた。
停戦交渉にも妨害が入り8月6日と8月9日に、戦争が終わる前に駆け込みで原爆を使用した。
戦後の始まり
原爆が投下される前の7月には、ドイツ・イタリア軍との交渉も行ったアレン・ダレスを通じて降伏の意思は伝えられていた。
日本側は8月の第一週から第二週に停戦したい旨を提案し、実際には8月15日に天皇が停戦命令を出した。
アレン・ダレスは後のCIA長官になった大物で、アメリカ側が本気だったのは分かる。
米国防省はこれを察知し、日本の降伏前に、可能な限りの爆弾と原爆を投下しようと考えた。
国務省は戦争が終わっても活躍できるが、軍人は戦争が終わったら「ごくつぶし」でしか在りません。
国務省への嫌がらせのように日本全土に絨毯爆撃を実施し、あと1週間で日本が降伏するのを知りながら2発の原爆を使用した。
それだけではなく米軍は日本が降伏した後も絨毯爆撃を続け、10発の原子爆弾を使用するつもりでした。
これらの目的は戦争に勝つためではなく、国防省の官僚が出世するために行われました。
そしてダグラス・マッカーサーは1945年8月30日に、解放者のような振りをして降り立ち、GHQという軍事政権を樹立しました。
その軍事政権がおしつけたのが日本国憲法で、日本人が日本という国を憎むように、NHKや朝日新聞などのメディアを通じて、日本の戦争犯罪を流布しました。
これが戦後の始まりで、国防省や米軍人の「正しさ」や「手柄」を強調するために、多くの戦争犯罪が捏造され、無実の日本軍人が処刑されました。
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