愚か者

 


 「…悪いが、先に部屋に帰らせてもらうよ…」
近頃はいつも食後にコーヒーなどを飲みながら、セルジュとカーシュの他愛のないおしゃべりを楽しそうに微笑んで聞いているイシトなのに、今日は食事を終えると、なにやら表情を硬くしてすぐに席を立った。
「あ…うん、お休みなさい…」
セルジュは曖昧な返事をして頷き、カーシュはちょっと顔を曇らせてその背を見送った。
「どうしたんだろ? 具合でも悪いのかな? 食事も残してたようだし…」
「具合が悪いなら、そう言やぁ良いのに、水くせぇ奴だな…」
カーシュはフンと鼻を鳴らし、自分のコーヒーを飲み干した。
「じゃ、俺も帰るわ。また明日な、小僧」
何となく落ち着かず、二人ともすぐに自室に戻ってしまった。
 数分後、カーシュはイシトの部屋の前に立っていた。しばしの逡巡の後、カーシュは部屋をノックした。
「…はい」
小さな返事が聞こえ、足音がドアに近づいて来る。カーシュは迷っていた。なんと言って切り出そうか。ストレートに、具合が悪いならそう言え、と言うのも、咎めているようだし、けんか腰に聞こえてしまいそうだ。
 迷っているうちにドアが開いた。イシトが、少し細く開けたドアから顔をのぞかせる。
「あ…」
イシトがカーシュを認め、小さく声を上げた。休もうとしていたらしく、シャツの前が開いている。イシトは慌ててシャツの前を合わせた。
「あ、悪ぃ。休むとこだったんだな…」
カーシュはちょっと顔を赤らめ、頭を掻いた。
「いや、良いんだ」
イシトが微笑み返す。
「…じゃ、ちょっと良いか?」
カーシュは、返事も待たずに部屋に足を踏み入れ、イシトはそれに押されるように部屋の中央に進み、軽く胸の辺りを押さえた。
「やっぱり、また胃の調子が悪いんだな? ほら、良いから早く横になれよ」
カーシュがベッドの方へイシトの背を押しやる。おとなしくベッドに横になったイシトのそばに腰掛けて、カーシュは当然のようにその背をさすった。
「…ありがとう…」
イシトが、ほぉっとため息をついて目を閉じる。カーシュは少し体を伸ばし、イシトの顔をのぞき込んだ。
「おまえ、コーヒー少し控えたらどうだ? 好きなんだろうけど、アレは胃に悪いって言うぞ」
イシトは閉じていた目をハッと開いた。カーシュはかまわず続ける。
「そうだなぁ…ヨーグルトは良いらしいな。後は…塩分は控えるとか…」
「やめてくれ!」
突然、悲痛そうに眉を寄せて飛び起きたイシトを、カーシュがぽかんとした表情で見つめた。
「な、なんだ? なんか気に障ること言ったか? 俺はこれでも、心配して…」
イシトは苦しそうに、大きく頭を振った。
「そうじゃない! 私は…」
イシトは言いかけて唇を噛み、うつむく。
「私は…そんな風に君に案じてもらえるような人間ではない…」
顔を上げず、絞り出すように言うイシトに、カーシュはフンと不満げに鼻を鳴らし、下唇をわずかに突き出した。
「まだそんなこと言ってんのか? 今は仲間だろ? 少なくとも、俺はそう思ってるぜ?」
カーシュの言葉に、イシトは複雑な色をにじませた目を上げ、カーシュを見つめた。カーシュは眉を寄せた。
「…それとも…おまえ、まだ俺を許してねぇのか…?"パレポリの犬"なんて、ひでぇこと言ったからな…」
「違うっ!」
イシトは即座に叫んだ。
「違う! そうじゃない! 違うんだ…」
イシトの声は次第にまた力を失い、再び目は伏せられた。怪訝そうに見つめるカーシュを避けるように、イシトは体をよじって背を向け、ベッドに両手をついた。
「…嘘なんだ…具合が悪いなんて…」
「嘘?」
カーシュはキョトンとして、おうむ返しに言う。イシトはうつむいたまま唇を噛んでいたが、意を決したように呟くように言った。
「…具合の悪い素振りをすれば、君が…また来てくれるかもしれないと…」
イシトは突然ベッドに突っ伏し、枕に顔を埋めた。
「…済まない…」
イシトの声がくぐもって聞こえる。そんなイシトを、カーシュはただ不思議そうに見ていた。
「なんで…そんな嘘なんて…」
イシトの肩がピクリと揺れる。
「…どうかしてるんだ、私は…」
イシトは少し枕から顔を浮かせたが、相変わらず顔を伏せていてその表情は見えない。
「このあいだ、君の手が触れてから…私は、どうかしてる…」
カーシュは、イシトの背に当てたままだった自分の手を目の高さに持ち上げ、何とはなしに見つめた。先日胃炎に苦しむイシトに、手を当てると楽になるものだからと、今のように背を撫でてやった。『君の手は、暖かい…』。イシトは、カーシュの手当てでずいぶん楽になると言った。
 「…君の手に、触れられていたいと思ったんだ…」
イシトは背を向けたままながらも、ようやく少し体を起こした。
「こうして君といると、信じていられる…」
「…何を?」
カーシュはイシトの行動を量りかねていた。イシトはちらりとカーシュに目を向けた。
「…許されたと思って…そう信じて良いのか?」
「許す? 俺が?」
カーシュはますます不思議そうにイシトを見た。
「…パレポリの軍人である私が、ここに…君のそばにいて良いのか?」
「何、今更な事言ってんだよ!…馬鹿だな…」
カーシュは思いがけないイシトの危惧に、思わず破顔した。
「馬鹿…」
イシトは呟いた。
「私は…馬鹿だ…」
イシトは顔をゆがめ、また顔を背けた。カーシュは狼狽した。
「オイ…俺は、何も本気で…」
だが、イシトは自分を嘲るように口元をゆがめて笑って見せた。
「私は馬鹿だよ…君に関しては、馬鹿で、能無しの、愚か者だ…」
「イシト…?」
怪訝そうに見つめるカーシュをよそに、イシトは再びベッドに突っ伏した。
「…女だったら…」
イシトの呟くような声が、かすかにくぐもって聞こえてくる。
「私が、女だったら良かったのか…? そうすれば、こんな国の事など関係無く、もっと素直に君に近づけたのかもしれない…」
「馬鹿野郎!」
カーシュはいきなり怒鳴った。
「俺は、おまえが男だから…男同士だから、一緒に戦っているだけで解ってくることがある。解り合えることがある。だからこそ、背を向け合ってたはずの俺たちが、今、こうして一緒にいる。そうじゃないのか?」
「カーシュ…」
イシトが少し首を回し、カーシュの顔を見た。
「この前、おまえの所に来たのは、小僧に言われたからだ。だけどそうでなくたって、俺は見てた。おまえがどんなに傷つきながら戦ってるか…おまえが苦しいの…知ってた…。俺は…きっと口実が欲しかったんだ。おまえに近付くための口実…。今日だってそうだ。胃が痛むんだろうなんて、本当は知らない振りだって、できたはずなんだ…」
 カーシュはこの時初めて、自分自身のこうしたイシトへの感情に気付いたのだろう、戸惑ったような顔で黙った。イシトはうれしいような悲しいような、複雑な表情でカーシュを見つめた。
「…気に掛けてくれるのはうれしい…。だが、君も迷うことになる…」
カーシュが見返す。
「何を迷う? 俺は、ただ、もっとおまえと解り合いたい…」
イシトは悲しげに首を振った。
「…私が…女だったら良かったのに…。そうしたら、せめて、君の想う人の代わりになれたかも知れない…」
カーシュはわずかに眉を寄せ、静かに言った。
「あれは…俺の中ではもう、終わったことだ…」
イシトはゆっくりと首を振った。
「君が、今もどんなに彼女を大切に想っているか、よく判ってるよ…」
今度はカーシュが大きく首を振った。
「…あの人は…ダリオのものだ。今までも、これからも…。たぶん一生、あの人はダリオを思い続ける…そしてな…」
カーシュは一旦言葉を切って、クスリと笑った。
「俺の方がよっぽど愚か者だと思うぜ? 俺は、ダリオを思い続けるあの人だからこそ、この身に代えても、守らなければと思う。ダリオの代わりに、ダリオの分まで…」
まだ信じ難いという顔のイシトに、カーシュは笑いかけた。
「確かにリデル様を大切に想っている。でも、それは恋や愛とは違う…」
「カーシュ…」
 イシトの顔を挟んだ両側に手を付き、カーシュは改めてイシトの顔を見つめた。イシトもじっと見つめ返す。イシトの蒼い眼がカーシュの顔を映し、その唇は誘い込むようにわずかに開かれていた。女性のそれのように小さく形の良い唇に、カーシュはつい目が行ってしまう。目をそらそうとすると、はだけられた胸元から、北国パレポリ育ちのイシトの白い胸がのぞく。
 カーシュは戸惑っていた。これは敵対するパレポリの将校だ。だが、誠意のある良い男だ。だから戦友だと思っていた。互いに尊重し合える仲間だ。しかし、こうして見つめていると、カーシュには自分にも理解しがたい衝動がわき起こってきていた。
イシトの手はいつの間にかカーシュの肩口に添えられ、カーシュを掴んで引き倒したそうに、時折握りしめては弛緩した。
「…カーシュ…」
イシトの柔らかそうな唇から、カーシュの名が漏れた。カーシュは思考を放棄した。
 唇が、そっと触れ合う。イシトの手は滑るようにカーシュの首に回され、その髪を愛撫した。カーシュはイシトの両頬に挟み込むように手を添え、指先で耳元を撫でた。
 「ん…」
 口づけが深まると、イシトがわずかに声を漏らした。カーシュはわずかに唇を離してイシトの表情を窺うと、またイシトの唇を味わった。イシトの手はカーシュの背を撫で、カーシュの手はイシトの胸元に伸びる。
「…ん…っ!」
イシトがわずかに身をよじる。カーシュはようやくイシトの唇を解放した。
「…俺、変かな…。おまえ、こういうのはいやか?」
イシトは羞恥に頬を染めながらも、小さく首を振り、カーシュは口の端を上げて笑った。
「…きっと俺も、おまえとこうしていたいと思ってたんだ…」
「カーシュ…」
「関係ねぇよな。男だとか、女だとか。俺は、おまえともっと解り合いたい…」
 カーシュはもう一度、そっとイシトの唇に触れた。



Ende.

 

言い訳
「誘いイシト」シリーズ(笑)。
もう、隊長ってば、シャツの前を開けといたのも計算でしょう!

「その手の温もり」の続編です。
カーシュの「手当て」に参ったイシト隊長。ついついカーシュが気に掛かり…ついに!

こういう隊長、有りですか〜?
「馬鹿だよ…君に関しては、馬鹿で、能無しの、愚か者だ…」って台詞を、是非とも隊長に言って欲しかったんですよ〜!
もちろん、本当は私に言って欲しい(爆)。

2001.7.29