軽いノックをする。わずかの後にドアの向こうに気配があって、ドアが静かに開かれる。部屋の主であるイシトは、それがカーシュであることを認めると、クルリと背を向け、窓辺へ歩み寄る。いつもの仕草。それは、入って良いということだ。
カーシュはドアを閉めると、後を追うように窓辺のイシトのそばへ行き、その背を抱いた。後ろから抱きしめたまま、じっと動かないイシトの金髪に鼻先をこすり付ける。耳元に口づけ、そっとイシトの頬を撫でる。
「イシト…」
口にして、カーシュは恋情がこみ上げるのを感じる。初めて出会った時には、こんな事になるとは互いに思いもしなかった。
「好きだ…イシト」
だが、イシトはそれでも黙っているばかりだ。
いつもそうだ。拒むわけではない。口づければ、唇を緩めカーシュを迎え入れる。だが、イシトの淡々とした態度は、いつもカーシュを不安にさせた。
「イシト…俺のこと…好きか?」
イシトがわずかに笑ったような気配がある。
「…こうしていることが、答えにはならないのか?」
イシトを抱きしめるカーシュの腕に、力がこもる。
「…好きだって、言ってくれよ」
カーシュの腕の中で、イシトは小さく肩をすくめた。
「言葉なんて、ただの記号でしかない。そんなもので、人の気持ちなど測れはしない」
そう言われても、カーシュにははぐらかされているとしか思えない。
「好きだと口にすれば、何かが変わるのか?」
イシトの口調は、あくまでも冷ややかに聞こえた。
「俺は安心する。おまえが嫌々俺に抱かれてるんじゃないと、そう思って、安心する…」
イシトは眉をひそめた。
「そうすることで、君を縛るのは嫌だ」
「縛る?」
カーシュがいっそう怪訝そうな顔をする。イシトは淡々と続ける。
「言葉など、ただの記号。それなのに、時に奇妙な力を持って人をがんじがらめにしてしまう…。私は君を、そして自分自身を縛りたくはない」
カーシュには、どうにも納得がいかなかった。
「そんなのわかんねぇよ! わかりたくもねぇ! 俺は、禅問答もどきをしたいんじゃねぇんだ! ただ…好きだって言って欲しいんだよ!」
イシトはそれでも黙っている。カーシュは、そうせずにはいられなくて、力一杯イシトを抱きしめた。イシトがもがく。
「…痛い! …離せよ…」
仕方なく、カーシュは腕の力を緩めた。
***
再建されつつあるホームの蛇骨館の屋上で、カーシュは物思いに耽っていた。イシトにとって、自分とこうしていることは、殺伐とした日々の中で気を紛らわせる一つの手段にすぎないのではないのかとさえ思う。
「…浮かない顔だな」
声を掛けたのはダリオだった。再会したときには心身共に衰えていた彼も、蛇骨館の再建にあたりながら、以前のような生気を取り戻していた。ホーム世界しか知らない彼には、このカーシュが別の世界の人間だという意識が薄い。彼はいつでもこのカーシュを、失われた自分の世界の親友であるカーシュとして扱った。カーシュにはそれが、時に面はゆいこともあったが、やはりうれしかった。
「…そうか?」
誤魔化すような照れ笑いを浮かべて振り返ったカーシュを、ダリオは意味ありげな微笑で見つめた。
「恋煩いか? …イシトのことを考えていたんだろ」
カーシュは真っ赤になって慌てた。
「…なっ!」
ダリオはクックッと肩を揺らした。
「相変わらず正直な顔だな。長い付き合いのおまえのことだ、見てればだいたい判る。それに、そんなに真っ赤になったら、言わずもがなだぞ。心配するな。俺は自由恋愛を否定しない」
カーシュは真っ赤になったまま、うつむいて黙り込んだ。
「イシトはお堅いからな…。冷たくされてるのか?」
「そういうわけでもないんだが…」
カーシュが頭を掻く。ダリオがクスリと笑う。
「…おまえ、下手なんじゃないのか?」
「何がだよ?」
カーシュが怪訝そうに顔を上げる。
「何がって、キスとかいろいろ…。おまえ、情緒に欠けるところがあるし」
カーシュは赤い顔を更に赤くして絶句した。ダリオはかまわず続ける。
「イシトはなぁ、繊細そうだからな…」
訳知り顔で一人頷くダリオに、カーシュが口を尖らす。ダリオはそんなカーシュを見て、にんまりと笑った。
「…教えてやろうか?」
「…へっ?」
「へっ、じゃない。キスだよ」
「あ?」
ダリオは、またクスクスと笑った。
「昔なぁ、試しにって言うか、二人でキスしてみたこと、あったろ? おまえのキスって乱暴なんだよな。ただ押しつけりゃ良いってもんじゃないだろ?」
そう言われて、カーシュも思い出した。まだ少年だった頃、ふざけてダリオとキスしたことがあったのだ。いつかこうして口づけを交わすだろう恋人への憧れを胸に、二人は唇を寄せたのだった。
それは、まだ世界が分かたれる前のこと。今目の前にいるダリオは自分の世界のダリオではないが、彼もまた、同じ思い出を共有しているのに違いはなかった。カーシュがそんな感慨に浸っている間に、ダリオの顔は、すぐそこに迫っていた。
「…止せっ」
だが、ダリオの力強い手がカーシュの肩を押さえ込み、唇が押しつけられた。
「ん…!」
カーシュが呻く。カーシュの脳裏に、リデルの顔が浮かぶ。こんな事は、いけない。しかし、ダリオのキスは執拗で巧みだった。カーシュの抵抗は、次第に力を失っていった。
「カーシュを離せ」
突然背後から聞こえた声に、カーシュは慌ててダリオを突き放した。そこには、きつい眼をしたイシトが立っていた。ダリオは、まだカーシュの肩を掴んだまま、静かにイシトを見返した。イシトは睨みつけるようにダリオを見据えた。
「どういうつもりだ、ダリオ。君が本気だというならともかく、一時の感情でカーシュの気持ちを玩ぶな!」
「…本気だと言ったら?」
ダリオは微笑を浮かべている。イシトは小さく頭を振った。
「解ってないな…。君はそうして、どれほどカーシュを傷つけるつもりだ」
イシトは、リデルを気遣うカーシュの気持ちを慮っていた。こうしてリデルを裏切ることで、カーシュの心は傷を負う。
「少々がさつだが、カーシュは一本気で繊細なんだ。それを…」
「カーシュのことは、子供の頃からの付き合いの俺の方が、よく知ってると思うがな」
余裕をちらつかせながら口を挟んだダリオを、イシトは少し頬を染めながらも睨みつけた。
「…解ってるんなら、なぜ…!?」
ダリオはついに笑い出した。驚き呆れているイシトを後目に、ひとしきり笑ったダリオは、まだ少し頬をひくつかせながら、カーシュの肩を軽く叩いた。
「良かったなぁ、カーシュ。イシトにこんなに思われてるじゃないか」
ポカンとしているイシトを振り向き、ダリオはまたクスクス笑った。
「安心した! 大事な親友のカーシュが君につれなくされてると聞いたから、軽くあしらわれてるんじゃないかと心配してたんだ。今のは、上手なキスの仕方を指導してただけさ。気にするな」
それからダリオは、カーシュの顔をのぞき込んで微笑んだ。
「良かったな!」
カーシュもイシトも、顔を赤らめて黙るしかなかった。ダリオは快活に笑った。
「じゃ、俺はお邪魔だな。失礼するよ。またな、カーシュ!」
ダリオはひらひらと手を振りながら行ってしまった。後には互いに照れくさそうな顔のイシトとカーシュが残された。
「なぁ…」
ようやくカーシュが口を開いた。
「怒ってるか…?」
「当たり前だ」
イシトはピシャリと言った。だが、まだ頬は赤いままだ。カーシュは小さく笑った。
「…うれしかったぜ」
「フン」
イシトは照れくさそうに横を向いた。カーシュはその腕を引き寄せた。
「なぁ…」
口づけようと顔を寄せたカーシュから、イシトは不快そうに顔を背けた。
「…いやだ…」
「イシト」
なおも引き寄せようとするカーシュを、イシトは冷ややかに見返した。
「…さっきダリオと…」
どうやら、ダリオの触れた唇はいやだということらしい。カーシュは苦笑した。
「それじゃ、俺、もう一生、おまえにキスできねぇのかよ?」
イシトがかすかに口を尖らす。カーシュが笑った。
「なぁ、頼むよ…俺、今、ものすごーく、おまえにキスしたいんだ…」
イシトは小さくため息を吐き、仕方がなさそうに腰に手を当て、目を伏せた。拒否ではない。つまり、許可が下りたのだ。カーシュはイシトの肩をつかんで、ゆっくりと唇を寄せた。じっとして動かなかったイシトが、カーシュの唇が自分のそれに触れると、静かに目を閉じた。
いつも通りのキスだった。
少し乱暴で、無骨なキスだった。
ダリオに教えられたような巧みなキスを今ここでするのは、イシトへの裏切りに思えた。イシトもそれを悟って、小さく笑った。醒めたように腰に当てたままだった手を、イシトはカーシュの首に回した。
「…バカだな」
かすかに離した唇で呟くように言うと、イシトはカーシュに口づけた。優しく押しつけられた唇が、緊張と弛緩を繰り返し、カーシュの唇を包んでいった。
優しいキスだった。
暖かくいたわるようなキスだった。
首に回された手が、カーシュの髪を優しく撫でた。
千の「好き」よりも、万の「愛している」よりも、心にしみてくる言葉がある。
『言葉は記号に過ぎない』
カーシュにも、ようやくイシトの言った言葉の意味が解った気がした。
「なぁ…」
唇を離したカーシュが、照れくさそうに言った。
「もう一度言ってくれよ」
「…何を?」
「…バカって」
イシトはちょっと驚いたような顔をして、それから微笑んでカーシュの耳元に口を寄せた。
「…バカだな」
Ende.
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