スマホ片手に今おもってることをツイッターでつぶやく、フェイスブックで今日あった出来事を投稿する、インスタグラムで美しい写真を撮る。
インターネットによってぼくたちは知らない誰かにも自分の存在を届けることが可能になりました。
それは何者でもない、ただの小さな個人でしかなかったぼくたちを少しでも社会に知ってもらえる機会をつくった画期的な出来事です。
※まだ何者でもないひとたちのことを「ぼくたち」と形容しています。
工夫さえすれば、ツイッターでもフェイスブックでもインスタグラムでもフォロワーを増やし、影響力持つことが可能です。
また、メルカリで必要なくなったモノを商品として簡単に販売することができるし、BASE で自分の技術を使ってウェブショップを作ることもできる、キャンプファイヤー(クラウドファンディング)で自分のやりたいことのための資金調達も可能になりました。
これらの行為は誰に縛られるものでもありません。
インターネットは農民の竹ヤリ
ぼくたちにとってインターネットとは何なのか?
それは何者でもなかったぼくたちが小さな武器を手にした感覚だとぼくは感じていました。
それをわかりやすく言語化していたのがキャンプファイヤー代表の家入一真さんのつぶやきです。
僕にとってのインターネットとは、農民にとっての竹ヤリみたいなものだ
— 家入一真 さよならインターネット (@hbkr) 2016年9月12日
何百年も昔から社会に対しての問題意識が高まった時、農民たちは決起し、竹ヤリ片手にお上に無茶な闘いを挑みました。
その運動は、自分たちの声を社会に届けるために必要なことだったのです。
ぼくたちにとってのインターネットは銃や刀といった強い武器では決してありません。
しかし、今までジッと声を押し殺して叫びたかったことも叫べなかった、やりたいことも特別な人でないとできないと諦めていた。
そんな小さく、もろく、切ない人たちが社会にかすり傷ぐらいはつけれるのではないかと配られたリーサルウエポンのようにぼくにはおもえます。
ぼくにとっての竹ヤリはブログだった
ぼくは去年の2月にブログをはじめ、石川県の実家で引きこもってジッとブログをかいてきました。
「アラサーのいい年齢した引きこもり」という社会的に終わったポジションにいたぼくはどうにかしてブログで自分のことを知ってもらいたいとおもいました。
そして、ネット上で思い切って自分の借金を告白したり、彼女を募集したりと大胆な行動も起こしたりしました。
また、自分のおもってることを押し隠さずにブログ上で社会に主張し続けたのです。
すると、ある記事が10万人以上に読まれたり、堀江貴文さんや佐々木俊尚さんといったインフルエンサーにも言及されたりという成功体験を味わいます。
その経験を経てぼくは「たとえ竹ヤリだとしても、小さな個人が全力で立ち向かっていけば、社会に自分の声が届く」ことを実感したのです。
そして、ぼくという存在はブログ界隈という小さな世界ではありますが、少しずつ浸透し、ほんの少しですが知られるようになったのです。
インターネットの本質はあらゆることの民主化
家入さんはこうもいっています。
繰り返し言ってますが、インターネットの本質とは、あらゆることの民主化だと思っています。その本質において、僕らが社会においてやれることをやりたい、ただそれだけです。それが民間主導であろうが、行政主導であろうが、どちらだってよい
— 家入一真 さよならインターネット (@hbkr) 2016年9月6日
今後、テクノロジーがますます発展し、あらゆることが民主化、即ち、自分たち主導で行われていくでしょう。
ベーシックインカムが導入されれば「働くか働かないかの選択」さえも個人の判断に委ねられます。
インターネットという竹ヤリをどう使うのか、それはみなさんの自由だとおもいます。
ただ、小さな個人が社会に対して叫べる手段はもうすでに無数に転がっているんです。
ぼくがブログという竹ヤリを持って変われたように、それを拾って試す価値は十分にある。
ぼくのような小さな個人はインターネット使ってどんどん声を上げていこう。
わっしょい!