2014年07月12日
<土曜特別連載>◎義経本隊はどこへ上陸したか? 24
※大正時代に満豪探検家として名を馳せた林大八(はやしだいはち)陸軍大佐の墓
<土曜特別連載>
成吉思汗=源義経だったこれだけの理由
◎義経本隊はどこへ上陸したか? 24
ウラジオストック北方に残る蘇城(スーチャン)の廃墟は、おそらく義経一行が大陸に渡って最初に腰を落ち着けた一大拠点地だったと考えられます。ここで“一行”という概念について再検討すると、蘇城に集結した人数は数百人あるいは数千人規模に達していたかもしれません。原点にもどり高館(たかだち)脱出に際しては、義経の郎党・手勢は数十人〜百人程度だったと推定されています。さらに北行を実施するにあたっては、複数に分かれたグループが鎌倉幕府の追跡を混乱させる陽動作戦を行いながら移動していきました。この過程で、幕府軍による奥州攻めで拠点を失った藤原氏勢力も数万人規模で合流した可能性があります。
蝦夷地に渡った後も、鎌倉方の軍事的脅威は完全消滅したわけではないので、義経の本隊も一ヶ所に安穏と腰を落ち着けることはなかったでしょう。実際、北海道内の義経関連伝説は道央と道南地域のアイヌ居住地域に濃い密度で分布していることから、義経自身または代理人が積極的にアイヌの人々と接触したその目的のひとつは、先に述べた「村々の屈強な男子を集めた」という伝承が示す兵員募集にあったようです。さらにいえば、そうした蝦夷地渡り後の義経の行動を鎌倉幕府への反撃準備と分析する意見もあります。しかし結果的には、蝦夷地で蓄えた力はユーラシア大陸進出に投入されました。小樽湾から日本海北部を真西に進む航路は安東水軍にしてみれば庭先同然であり、ウラジオストックにも停泊地が設けられていたに違いありません。内陸の蘇城についても義経が一から築いたわけではなく、元からあった安東水軍の城塞施設を拡充した可能性が高いでしょう。今後、蘇城遺跡の発掘調査が進めば、安東水軍と義経ゆかりの考古遺物が必ず出土するだろうと私は推測しています。
ともあれ、義経は旧来の主従に加えて奥州藤原氏の残党、蝦夷地で募ったアイヌ戦士などによる混成軍団を率いて大陸へ渡りました。大方の段取りは安東水軍が手配していたので、さして悲壮感あふれる船出ではなかったでしょう。この大陸への移動も、数次に分けて計画的に進められたかもしれません。余談になりますが、義経に従って平泉を脱出した藤原忠衡(ただひら)の子孫と称する家系が札幌に残っているので、奥州藤原氏の残党すべてが大陸侵攻に参加したわけではないようです。
私は義経の本隊が最初にめざしたのは小樽から最短距離のウラジオストックではないかとみていますが、小谷部全一郎は少し違った想定ルートを挙げており、『成吉思汗ハ義経也』の第五章には次のような記述があります。
≪…義経が蝦夷より大陸に渡った経路を土俗(現地民)の口碑によって推考すると、昔から夷民たちが貿易や漁業のために往来していた海路をたどって樺太に渡り、そこから西にほど近いニコラエフスクへ至り、黒竜江(アムール川)を遡ってハバロフスクへ上陸。そこで一時期を過ごした後に黒竜江の支流・ウソリ川を舟行して、上流のウラジオストック東南に位置する蘇城に入り、塁を築いて拠点地とした。その後、蘇城の北西に位置するニコリスクすなわち当時の首府・隻城子に移り、西進して興安嶺(こうあんれい)に本拠を置き、徐々に西進を継続したと思われる…≫
確かに、蝦夷地−樺太−満州を繋ぐ交易ルートは太古から存在し、縄文時代には北海道の大雪山麓(たいせつざんろく)から産出する良質な黒曜石(石器材料)が盛んに運ばれていた形跡があります。また、何度も不定期的にくり返されてきた北半球の寒冷期には、このルートをたどってアイヌ以外の北方民族集団が北海道へ南下移住してきたこともわかっています。何よりも蝦夷地に残る義経伝説の中には、ホンカン様(義経)に先導されて多くのアイヌの人々が樺太に渡ったというものがあります。アイヌが先導したのではなく義経が先導したというのですから、やはり通算10年近い奥州滞在中に義経は藤原氏と安東氏の手引きで蝦夷地どころか大陸にまで足を延ばしていた可能性もうかがえます。さらには、19世紀初頭に樺太および千島列島方面を大探査した間宮林蔵も、義経北行伝説の真偽解明を目的のひとつにしていたことは間違いなく、実際にアムール川河口の住人たちから義経渡来を示す証言のいくつかを得たといわれています。
小谷部が推測する黒江および支流の舟による迅速な移動も、安東水軍の介在を考え合わせれば理にかなっています。したがって、小樽から真西のウラジオストックをめざす西回りコースだけでなく、小谷部の北回りコースが選択された可能性は充分に成り立ち得ると思います。あるいは、義経本隊と分隊が別々に両方のルートをたどったという推理も可能です。いずれにしろ、義経一行が最初にめざしたのは、中国黒竜江省からロシア領の間宮海峡北端にかけて約2千キロの広がりをもつ黒竜江流域だったということです。この地域には奥州藤原氏の栄華を支えた複数の金山と砂金採掘地があり、その利権をあらためて盤石なものにすることが大陸進出の初期課題だったと考えられます。
義経一行が進出した12世紀末当時の黒竜江流域には強大な統一王朝は存在しなかったものの、満州族の部族連合国家ともいえる「渤海」が成立していました。そして、この現地騎馬民族と日本人の関係は非常に良好だったことが奥州藤原氏の関連文献に記されています。ただ一方的に黒竜江流域で産する金を収奪したのであれば絶えざる紛争が起きていたはずですが、実際には対価となるさまざまな交易品が日本国内から運ばれていたのです。例えば、大正時代に満豪探検家として名を馳せた林大八(はやしだいはち)陸軍大佐が黒竜江中流域のマリンスクに滞在した際、現地の豪族の宴会で数十組の食膳と食器が供されたといいます。それらは平安時代に遡る日本製の豪華な蒔絵製品で、先祖代々から伝わってきたものでした。
20世紀中頃から沿海州は北朝鮮・中国・ソ連の領土となり、各国の重要軍事施設なども点在するため、日本人にとって近くて遠い地域となってしまいました。しかし、本来は活発で友好的な環日本海を舞台にした人的交流が古代から連綿と続いてきたのです。
こうした12世紀末の黒竜江流域の情勢から推定して、たぶん義経一行は武力行使の必要もなく拠点地の確保ができたはずです。だからこそ、蘇城の城塞を実娘に託して義経自身は心おきなく大陸内奥部へ進出することができました。もしも敵対勢力の脅威にさらされた状況ならば、そうはいかなかったでしょう。
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この記事へのコメント
1. Posted by 参照数 2014年07月12日 22:45
ただいま403
2. Posted by 弥生 2014年07月12日 23:09
>ウラジオストック北方に残る蘇城
さすがは義経、まずは足場を固めたことがうかがえます。
さすがは義経、まずは足場を固めたことがうかがえます。
3. Posted by 佳子 2014年07月12日 23:11
>大正時代に満豪探検家として名を馳せた林大八
ご講義ありがとうございます。
義経ジンギスカン説は、彼も知っていたはずで、
探検は戦略研究のためでもあったのでしょうか。
ご講義ありがとうございます。
義経ジンギスカン説は、彼も知っていたはずで、
探検は戦略研究のためでもあったのでしょうか。
4. Posted by ASUKA 2014年07月12日 23:13
>黒竜江中流域のマリンスクに滞在した際、現地の豪族の宴会で数十組の食膳と食器が供された
それらは平安時代に遡る日本製の豪華な蒔絵製品で、先祖代々から伝わってきたもの
見てみたいですね!
それらは平安時代に遡る日本製の豪華な蒔絵製品で、先祖代々から伝わってきたもの
見てみたいですね!
5. Posted by 副主任教授C.Sasaki 2014年07月12日 23:17
>大正時代に満蒙探検家として名を馳せた林大八陸軍大佐
林大佐は、義経の戦略の研究のためでもあったのでは、とふと思いましたが、土曜日のご講義を学ぶうち、「推理力」も鍛えられるのではないでしょうか。
6. Posted by 歴男 2014年07月12日 23:18
>平安時代に遡る日本製の豪華な蒔絵製品
「金」の対価であるから、それは豪華なものであったことだろう・・・・
「金」の対価であるから、それは豪華なものであったことだろう・・・・
7. Posted by 夢子 2014年07月13日 12:08
黒竜江省のほうまで安東水軍の配下だったので、義経は間違いなく大陸にわたったのですね。
8. Posted by 事情通 2014年07月13日 12:56
安倍晋三自民党総裁が「貞任の末裔が私となっている。ルーツは岩手県。その岩手県に帰ってきた」と参議院議選挙の遊説先岩手県北上市で演説したそうです。
安倍首相のお父さんは安倍家に入り込んだ、朝鮮人です。これは家政婦さんが証言しているので間違いありません。
安倍家とは全く関係ありません。
安倍の本家は、安東水軍から秋田になったので、
安倍の言っていることはウソ。
安倍首相のお父さんは安倍家に入り込んだ、朝鮮人です。これは家政婦さんが証言しているので間違いありません。
安倍家とは全く関係ありません。
安倍の本家は、安東水軍から秋田になったので、
安倍の言っていることはウソ。
9. Posted by まもる 2014年07月13日 13:06
ウイキペディで「安東氏」をひくと以下の記事があります。
『日蓮聖人遺文』の「種種御振舞御書」には建治元年(1275年)のこととして「安藤五郎は因果の道理を弁へて堂塔多く造りし善人也。いかにとして頸をばゑぞにとられぬるぞ。」との記載がある。
日蓮大聖人の「種種御振舞御書」にでてくる安藤五郎は、安東水軍の子孫。
『日蓮聖人遺文』の「種種御振舞御書」には建治元年(1275年)のこととして「安藤五郎は因果の道理を弁へて堂塔多く造りし善人也。いかにとして頸をばゑぞにとられぬるぞ。」との記載がある。
日蓮大聖人の「種種御振舞御書」にでてくる安藤五郎は、安東水軍の子孫。
10. Posted by まもる 2014年07月13日 13:23
ウイキペディアより
安東氏の後裔である旧子爵秋田家には、家祖の安倍貞任を長髄彦の兄である安日の子孫とする系図が残っており[8][9]、このため安東氏を蝦夷とする見解と蝦夷ではないとする見解の対立がある[10]が、家系伝承については蝦夷の祖を安日に求めた室町期成立の『曽我物語』の影響を受けている可能性が高いため、信憑性は低いと考えられている[11]。ただし、自らを「朝敵」であった蝦夷の子孫とする系図を伝えてきたことが、北奥地方に独特の系譜認識を示すものとされている。
安倍首相は、この系図とまったく関係ないね。
安東氏の後裔である旧子爵秋田家には、家祖の安倍貞任を長髄彦の兄である安日の子孫とする系図が残っており[8][9]、このため安東氏を蝦夷とする見解と蝦夷ではないとする見解の対立がある[10]が、家系伝承については蝦夷の祖を安日に求めた室町期成立の『曽我物語』の影響を受けている可能性が高いため、信憑性は低いと考えられている[11]。ただし、自らを「朝敵」であった蝦夷の子孫とする系図を伝えてきたことが、北奥地方に独特の系譜認識を示すものとされている。
安倍首相は、この系図とまったく関係ないね。
11. Posted by 秋桜 2014年07月13日 16:06
次こそ1位を目指しましょう
12. Posted by 教授 城ヶ島花子 2014年07月13日 17:10
義経一行は武力行使の必要もなく拠点地の確保ができたというのは良い運も少しはあったのではないでしょうか?
13. Posted by 参照数 2014年07月13日 18:59
14. Posted by >5 2014年07月13日 22:59
訂正します
「推理力」→「推理力」、「思考力」
「推理力」→「推理力」、「思考力」
15. Posted by 片山 2014年07月14日 00:09
画像は、磯部大尉だろうが !
16. Posted by 事務局より 2014年07月14日 08:44
>15. Posted by 片山 2014年07月14日 00:09
>画像は、磯部大尉だろうが !
ご指摘ありがとうございました。
画像を変更いたしました。
今後ともご愛読、よろしくお願いいたします。
>画像は、磯部大尉だろうが !
ご指摘ありがとうございました。
画像を変更いたしました。
今後ともご愛読、よろしくお願いいたします。