2014年07月05日
<土曜特別連載>◎日本海対岸に残る「笹竜胆」紋章 23
※左-モンゴルの笹竜胆/右-源氏の紋章/笹竜
<土曜特別連載>
成吉思汗=源義経だったこれだけの理由
◎日本海対岸に残る「笹竜胆」紋章 23
こうして日中戦争、太平洋戦争になだれ込んでいく時代のなかで大きな反響を呼んだ小谷部著作の余韻は、戦後になっても消えることなく次世代の研究家たちに引き継がれていきました。たとえば昭和32年(1957)には、東北・北海道に残る義経関連伝承を丹念に検証し続けていた岩手県宮古市の郷土史家・佐々木勝三氏が『義経は生きていた』を発表し、その後も昭和40年代にかけて『源義経蝦夷亡命追跡の記』(樋口忠次郎、大町北造共著)『成吉思汗は源義経』(大町北造、横田正二共著)を刊行しました。
なかでも3冊目の『成吉思汗は源義経』は蝦夷地以後の義経の動向、成吉思汗とのつながりに焦点をあてており、それは共著者のひとり横田正二氏の研究内容を主軸としたものでした。この横田氏は元特務機関員で、戦中、大陸各地に潜伏して軍関係の諜報活動に従事していた当時、モンゴルの伝統住居パオが林立した村で「笹竜胆(ささりんどう)」の図柄を描いた古い幕を見かけたといいます。モンゴルでは珍しい、日本の家紋にも思えるその図柄の由来について村の長老に尋ねたところ、返答は次のような内容でした。
「この幕は先祖代々から受け継がれてきたものだが、どんな意味があるのか詳しいことは誰も知らない。ただ、祭礼のときには必ずパオの外へ掲げるのがしきたりで、いつもは大切に仕舞っておく」
要点を先に述べると、この笹竜胆(ささりんどう)の紋章は源義経を含めた清和源氏の武将たちが戦装束や鎧兜などの装飾モチーフとして好んで用いていました。正式には笹竜胆は村上源氏系の公家たちの紋章で、清和源氏の一部が真似をしたに過ぎないという学術的な指摘もありますが、それは問題の本質とはまったく無関係なことです。重要なのは義経自身が用いていた事実であり、高館(たかだち)の持仏堂に置かれた彫像をはじめ義経を描いたほとんどの美術工芸品には、笹竜胆の紋章がはっきりと描かれています。そして笹竜胆の紋章こそ、義経一行が蝦夷地から海を越えて大陸側へ渡ったことを物語る有力な物証になるのです。
まず、ユーラシア大陸における義経の第一番目の足跡らしきものが安東水軍の拠点・小樽湾から真西へ約600キロ離れた現在のウラジオストック地区に存在することを、小谷部全一郎が明らかにしています。ウラジオストック港の北部には昔から「ハンガン」と呼ばれてきた岬があり、そこから北側内陸へ約30キロ入ったスーチャン地区には大昔に日本から難を逃れてきた武将が築いたと伝えられる正方形の城塞址「蘇城(スーチャン)」が残っています。その武将は蘇城を娘に譲り、中国本土へ侵攻して強大な王国を作ったと伝えられ、この古伝承だけでも幼い女の実子を連れて奥州を脱出した義経のプロフィールと重なり合います。
ただし、蘇城址は荒廃が激しく、笹竜胆の描かれた遺物などは見つかっていません。この紋章が最初に確認されたのは、さらにスーチャンから北東へ約500キロ離れたシベリア領域の内陸都市ハバロフスクでした。小谷部が『成吉思汗ハ義経也』の第七章に記した内容を以下に要約しておきましょう。
≪東部シベリア及び満州などを旅する探検家が最も奇異に感じるのは、これらの地域には日本式にみえる古い神社らしきものがあり笹竜胆の紋章を用いていること。さらには姓を「ゲン」(源に通じる)と名乗る満州人が多いことだ。ニコリスク(ウラジオストック西北約100キロ)近郊の町・隻城子には「義将軍の古碑」といわれる笹竜胆の模様を刻んだ遺物があり、原住民の間では日本の武将の碑とも支那の武将の碑とも伝わってきた。(中略)ハバロフスクの博物館には同地方から発掘された日本式の古い甲冑の一部、及び笹竜胆と木瓜の紋章が描かれた朱塗りの経机が収蔵されているという。また、ハバロフスクには以前に源義経を祀る神社があったといい、興安嶺(こうあんれい)にも日本式の古い神社らしきものがある…≫
小谷部が説明するところでは、ニコリスク近郊の隻城子(ニコラエフスク)には日露戦争以後に多くの日本人が住むようになり、それら邦人たちが「義経公園」と呼んだ緑地帯に差し渡し2メートルほどの大石を削った亀型の石造物があったといいます。その亀石の上には、大正10年までは笹竜胆や漢文らしきものが彫られた白い花崗岩製の「義経の碑」が載っていたのに、大正10年には駐留る日本軍が撤退した直後、ロシア人が撤去してハバロフスク博物館へ運び厚いセメントで覆ってしまったというのです。小谷部本人は、この「義将軍の碑」あるいは「義経の碑」を実見してはいません。しかし、ウラジオストックに派遣された日本軍司令部の中佐を通じて、噂どおりセメントで塗り固められた石碑が博物館内に存在する事実を確認しています。そして小谷部が著作で推測するように、おそらく石碑には何かロシアの国策にとって不都合な歴史記述が掘り込まれていたのでしょう。
近年、義経=成吉思汗説を取り上げるマスコミ媒体が増え、その取材対象地は日本海沿岸のロシア領にまで及んでいます。先日も民法番組で軒先下の漆喰壁(しっくいかべ)に見事な笹竜胆を彫刻したナホトカの古い民家の映像が紹介され、私は大いに驚かされました。笹竜胆の紋章にも五弁の星型に簡素化されたものがありますが、その民家の紋章は義経の鎧に描かれたものと細部までデザインが一致していたからです。若き日の小谷部全一郎も、そうした「義経笹竜胆」の装飾をシベリアや満州で数多く目撃したに違いありません。
そもそも、日本で使われてきた各種の「家紋」のうち、特に多い植物をモチーフにした図柄は紀元前の古代オリエント地方に求められます。したがって、蒙古、満州、シベリアなどの地域にもシルクロード経由で古代オリエントの紋様が伝わったとしても何ら不思議はないのですが、現実的には唯一、笹竜胆の紋章だけが日本列島と共通して使われてきました。その由来を現地の人々は必ずしも明確に把握していませんが、どちらかといえば西方起源ではなく日本から渡来した武将に関りがある紋様だと理解されてきました。
この満州・シベリア地域に伝わる笹竜胆紋様については、大正14年2月1日の朝日新聞にも興味深い記事が掲載されています。当時、シベリア出兵に従軍した陸運平壌連隊の大尉がニコリスク近郊の村で現地の民俗芝居を観た際、巻狩りのシーンに笹竜胆の紋章を付けた日本風の鎧兜を着た演者が現れたというのです。驚いた大尉が芝居と鎧兜の由来を問い質したところ、これもまた、いつ頃から続いてきたか誰も知らない古い芸能だという返答しか得られなかったといいます。
とにかく沿海州から蒙古にかけての広大な地域には、笹竜胆だけでなく先ほど紹介した「ゲン」という姓や「ハンガン」といった古地名以外を含めて、義経の渡来事実を強く匂わす物証や状況証拠が数多くちりばめられているのです。その辺の事実関係、および義経一行がいよいよ日本列島を離脱して大陸へ渡った当時の状況を、もう少し掘り下げて考察していきましょう。
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この記事へのコメント
1. Posted by 教授 城ヶ島花子 2014年07月05日 14:35
2. Posted by ごんべい 2014年07月06日 14:26
ここでバカなコメントをした人間の息子は関東連合だろう。
あわれなヤツ・・・
あわれなヤツ・・・
3. Posted by 秋桜 2014年07月06日 16:44
4. Posted by 参照数 2014年07月06日 22:04
ただいま399
5. Posted by ASUKA 2014年07月06日 22:06
>笹竜胆
この紋章が出た以上、義経はジンギスカン、間違いないですね!!
この紋章が出た以上、義経はジンギスカン、間違いないですね!!
6. Posted by 弥生 2014年07月06日 22:08
「笹竜胆の紋章」、
これはモンゴルにない植物のはずですから、私も「義経はジンギスカン説」は間違いない、と思います。
これはモンゴルにない植物のはずですから、私も「義経はジンギスカン説」は間違いない、と思います。
7. Posted by 歴男 2014年07月06日 22:44
>植物をモチーフにした図柄は紀元前の古代オリエント地方に求められます
日本の紋章(家紋)が笹や桔梗、植物が圧倒的に多いのに対し、外国の紋章はライオンや鷲など動物が多く、このことからもオリエントとの関係性があるのでは・・・・
日本の紋章(家紋)が笹や桔梗、植物が圧倒的に多いのに対し、外国の紋章はライオンや鷲など動物が多く、このことからもオリエントとの関係性があるのでは・・・・
8. Posted by 副主任教授C.Sasaki 2014年07月06日 22:54
>笹竜胆
>民家の紋章は義経の鎧に描かれたものと細部までデザインが一致
モンゴルの草原に笹はないはずで、この紋章(家紋)、また「日本式にみえる古い神社」の存在、笹竜胆の紋章を付けた日本風の鎧兜を着る民俗芸能など、もモンゴル由来のはずはなく、「決定的証拠」ではないでしょうか。