2014年06月21日

<土曜特別連載>◎シーボルトが唱えた義経=成吉思汗説 21

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※小谷部全一郎著『成吉思汗ハ源義経也』
「中杉 弘のブログ」のテーマソングです。
紀元は2600年(キングレコードより)



<土曜特別連載>
成吉思汗=源義経だったこれだけの理由
◎シーボルトが唱えた義経=成吉思汗説 21

ドイツ人医師・博物学者のシーボルトは、国外持ち出し御法度(ごはっと)の日本地図を入手した咎(とが)で国外追放されるまでの6年間、歴史・文化・自然科学など広範囲にわたる日本の研究を行いました。その集大成として帰国後に約500ページの大著『日本(NIPPON)』を出版し、中世の武将・源義経が蝦夷地から大陸へ渡ったという日本各地に残る伝承を史実と断じて紹介しています。さらに次のような検証ポイントをもとに、義経と成吉思汗(ジンギスカン)は同一人物だった可能性が高いと論じました。
* 義経と成吉思汗の生誕時期・年齢は完全に重なり合い、義経が日本列島から消息を絶った数年後に忽然(こつぜん)とモンゴル平原に英雄テムジン(成吉思汗)が出現した事実には、偶然では説明できない関連性が認められる。
* テムジンが初めて用いた軍旗は白で9個の房飾りがあり、これは源氏軍の白旗と九郎義経の名を象徴している。
* 日本では中世から、高位の武将に「守(かみ)」という官称が与えられる慣習が続いてきた。朝廷から伊豫守(いよのかみ)に任じられた義経がモンゴル高原に移った後、その官称を成吉思汗の「カーン」に用いたと考えられる。
13世紀半ば中央アジアから大挙して押し寄せたモンゴルの騎馬軍団は、現在の東欧諸国の領土にまで攻め込み呵責(かしゃく)ない猛攻撃を仕掛けました。ヨーロッパの人々にとって根深い歴史記憶として刻まれたモンゴル大帝国の始祖が、実は日本の武将だった!?『日本』に紹介された新仮説は、19世紀当時の欧米諸国で大きな話題になったようです。シーボルトは、追放処分から30年後の1861年にふたたび来日して幕府の顧問に就任します。その当時、西洋書籍の翻訳・分析機関「蕃書調所(ばんしょしらべしょ)」に務め、明治初期には西洋思想啓蒙家として活躍した西周(にしあまね)も再三にわたってシーボルトから義経=成吉思汗説を説かれ、これを日本の正史として認めるように薦められたと述懐(じゅっかい)しています。
次いで義経=成吉思汗説に関する著述を発表したのは、明治政界で衆議院議員・逓信大臣・内務大臣などを歴任した末松謙澄(1855〜1920)でした。これもシーボルトの『日本』と同じく日本国内の刊行物ではなく、若き日の英国留学時代にケンブリッジ大学の卒業論文(英文)として書かれ、シーボルト仮説をベースに日本国内の義経伝説とモンゴル史の独自分析意見を加えた内容でした。その邦訳本『義経再興記』が明治18年(1844年)に内田弥八(うちだやはち)という慶応大学生によって国内刊行されましたが、あきれることに、著者・末松の了承は得ていませんでした。ただし、この大発行部数の活版書籍のおかげで、義経と成吉思汗の秘められた関係が広く一般大衆にまで知れ渡ったのです。
しかし、まさにブームと呼べるほど多くの日本人が義経=成吉思汗説に大きな関心を向けたのは、『義経再興記』から約40年を経た大正時代のことでした。それは、小谷部全一郎(おやべぜんいちろう)という人物が出版した『成吉思汗ハ源義経也』がきっかけでした。そのものずばり書籍タイトルもさることながら、著者の経歴もまた異彩を放っています。慶応3年(1867年)に秋田県で生まれた小谷部は、若い頃に北海道、中国、樺太、ロシア、太平洋の島々、琉球などを大放浪した後、明治21年にアメリカへ渡りハワード大学で博士号を取得。それから数年間ハワイと横浜で牧師を勤め、北海道に移住して洞爺湖畔に「社会法人北海道土人救護会」を設立。10数年間にわたって、アイヌ民族救済運動に全力を注ぎました。その当時、アイヌ語研究のために何度も北海道を訪れた金田一京助(きんだいちきょうすけ)は、小谷部を‘アイヌの救世主’と評価しています。
幼少の頃しばしば祖母から義経北行伝説を聞かされていたという小谷部は、悲運の武将と家来たちがたどった道程について人一倍の関心があったようです。そして後に北海道へ移り住んでからは、アイヌの伝説や口承文字「ユーカラ」にも神格化された義経が介在している事実を知り、大陸放浪時代の見聞知識なども加味して義経=成吉思汗説の実証研究に傾倒していったのです。その情報収集量と考察の深さは後にも先にも右に出る者はなく、満を持して1924年に発表したのが義経=成吉思汗説研究の金字塔『成吉思汗ハ源義経也』(厚生閣刊)でした。後ほどふれる1958年に高木彬光(たかぎあきみつ)が発表した名作推理小説『ジンギスカンの秘密』についても、小谷部の先駆的研究内容をきっしり詰め込んだ『成吉思汗ハ源義経也』があればこそ、緻密なストーリィ構成を組み立てられたといっても差しつかえありません。
この小谷部著作は復刻版(八幡書店)も出ていますが、比較的に入手の難しい稀覯本(きこうぼん)となりつつあり、また、旧仮名遣いで書かれているので現代の日本人にとって読み辛いことも否めません。しかし、義経=成吉思汗説に肉迫するための必須資料であることは厳然たる事実なので、少しでも内容をお知りいただくために目次部分だけを読みやすい新仮名遣いに書き直してご紹介しておきます。

【小谷部全一郎著『成吉思汗ハ源義経也』目次】

[第一章]総説 ○神話の起源および蒙古上代史の解釈 ○成吉思汗と義経の誕生年代一致
○ 成吉思(ゲンギス)は源義経(ゲンギケイ) ○義経、祖国と音信を絶てる理由 ○成吉思汗の孫、日本に通好を求む ○清朝は源義経の裔なり ○日支親善の要契 ○成吉思汗と義経は同一人なり ○蒙古上代の状態 ○英雄の素質と義経
[第二章]死を伝えられて生存する人の実例 ○義経自刃説の非を論ず ○護良親王、鎌倉を逃れたもう ○順徳天皇、佐渡を逃れ奥羽に潜幸たもう ○藤原藤房卿は土佐沖に死せず ○義経の室、静は嵯峨の草庵に死せず ○安徳天皇、壇ノ浦に崩御したまわず ○為朝は大島に死せず ○守覚法親王その他、古名将の義経評
[第三章]義経高館に死せず ○高館自刃は偽計 ○義経北走に関する古名家の説 ○義経、蝦夷唐国の王たらん事を皇太神宮に祈りたる祈願書の発見 ○秀衡の遺言 ○陸奥高館の地勢および中尊寺の由緒 ○義経高館落ちに因める剣舞の故事 ○偽首を鎌倉に送る ○高館自刃説は机上論なり
[第四章]義経、蝦夷に逃る ○建国の歴史に伴う国性 ○日本国性の真髄 ○武士道の極致
○ 泰衡、義経主従の蝦夷に遁れしむ 義経北走の道程および消息 ○八戸地方の口碑 ○海外に雄飛せる著名の日本人 ○義経、蝦夷に渡る ○蝦夷民族に関する概説 ○義経入夷に関する口碑および典拠 ○義経主従、大陸に渡る
[第五章]日本と粛慎および義経の渡海 ○上代の越の国 ○古事記のいわゆる遠呂智の解釈 ○越の住民は粛慎のオロチ民族 ○阿部比羅夫の征したるは大陸の粛慎なり ○史家がこれを北海道に擬するは謬見なり ○日本と渤海との関係 ○黒竜江の沿岸に日本人が鎌倉時代に創立せる永寧寺あり ○義経渡海に関するアイヌの口碑 ○義経対頼朝の性格比較
[第六章]シベリアおよび沿海州の蘇城 ○東部シベリアの状況 ○蘇城に遺る日本武将の古蹟 ○蘇城に拠りし武将は源義経 ○語音の伝訛および満蒙人の語音の研究 ○成吉思汗の姓キヤオン氏は源氏と訳す ○成吉思汗は源義経 ○義経の残党、北朝鮮に奔竄す
[第七章]隻城子と「義」将軍の古碑 ○西シベリア、ニコリスク旧名隻城子の状況 ○古昔隻城子と日本との関係 ○土俗に伝わる義経の碑 ○ハバロフスクに笹竜胆の紋を着けたる武像を祀る廟あり ○各地に存する義経の祠堂 ○ロシア人、漆喰にて義経碑の碑文を塗抹する 
[第八章]興安嶺と武将の遺蹟 ○チチハルの状況 ○小興安嶺における日本人の古蹟 ○満州人源姓を名乗り義経の後裔と称す ○興安嶺に日本式の神社存在す ○成吉思汗の勇将に義経麾下の将と同名の者あり ○北満州の王稜に笹竜胆の紋ある墳墓あり ○蒙古人の兜に笹竜胆を付す ○サイタウボーの口碑 ○日蓮高僧の一人、日持上人の遺蹟 
[第九章] 成吉思汗の都趾 ○北満州成吉思汗駅の地勢 ○成吉思汗の塁址 ○古城趾に拠りたる武将の名を土人はクローと称す ○源九郎の名の起源 ○義経、いたる所に記念物を遺す ○成吉思汗、即位のときに樹てたる白旗は源九郎を意味す ○成吉思汗は源九郎義経 ○著者の探検日誌および北満州旅行の危険 ○蒙古の戦史は源平戦の混談 ○成吉思汗の西征 
[第十章] 成吉思汗の遺蹟と義経 ○西シベリア、知多(チタ)市の状況 ○成吉思汗の古墳墓 ○成吉思汗の遺言 ○汗死亡の蒙古暦・丁亥年は日本安貞元丁亥年にして、その干支を同じくする ○汗の遺言に対する解釈 ○蒙古オノン河畔における成吉思汗即位の遺蹟 ○同地に遺る鎌倉時代の風習
[第十一章]蒙古旅行および彼我風習の類似 ○満豪に古文章の遺らざる理由 ○蒙古アゲンスコイの状況 ○成吉思汗、常に白旗を用ゆ ○シルクロードの状況 ○成吉思汗の忌辰に行われたる大祭典の状況 ○画像の成吉思汗笹竜胆を付けたる蒙古兜を戴く ○画像の武将を蒙古人はタイシャアという ○蒙古人、日本人に親しむ ○一般蒙古人の風習
[第十二章]義経対成吉思汗 ○蒙古に行われる古今の巻狩および相撲の状況 ○鍛治の子と称せられる成吉思汗、および義経と金売吉次との関係 ○武将、伏木の空洞に隠れ、敵の一将に助けられたる伝説、蒙古に遺る ○蒙古語と日本語の文典の一致 ○十二干支の一致 ○蒙古王室の儀式は鎌倉式 ○成吉思汗、常に九の数を好み白色を尊ぶ ○成吉思汗と義経の性行一致 ○両者ともに体格矮小 ○戦法および武器の彼我一致 ○宗教に対する成吉思汗の自由思想と義経 ○成吉思汗の伝えたるフトケと称する蒙古主教は、ホトケと称する日本仏教なり ○結論



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nakasugi_h at 00:01│Comments(11)clip!


この記事へのコメント

1. Posted by 教授 城ヶ島花子   2014年06月21日 11:46
5 書き込みができません!
2. Posted by 教授 城ヶ島花子   2014年06月21日 11:54
5 書き込み出来るようになりました。
3. Posted by 参照数   2014年06月21日 22:33
ただいま378
4. Posted by ASUKA   2014年06月21日 23:11
>成吉思汗、常に九の数を好み白色を尊ぶ

後世の人々に対するメッセージのようにも思えます。
5. Posted by 佳子   2014年06月21日 23:19
ご講義有難うございます。

義経=成吉思汗説、医師であり、博物学者であるシーボルトまでもが唱えていたのですね。
6. Posted by 弥生   2014年06月21日 23:31
>【小谷部全一郎著『成吉思汗ハ源義経也』目次】

この目次の内容からも、「義経=成吉思汗説」は信憑性が高いのではないかと思います。


7. Posted by 副主任教授C.Sasaki   2014年06月21日 23:42
中杉博士、本日もご講義有難うございます。

シーボルト、末松謙澄、内田弥八、小谷部全一郎、高木彬光・・・

「義経=成吉思汗説」が流布するリレーのようにも見えますが、博士のご講義により、「義経=成吉思汗説」は真実であると決定的になったのではないでしょうか。
8. Posted by 歴男   2014年06月21日 23:43
>ヨーロッパの人々にとって根深い歴史記憶として刻まれたモンゴル大帝国の始祖が、実は日本の武将だった!?

シーボルトは「フリーメーソン」とも言われ、あの勇猛なジンギスカンが日本人・義経であると知り、やがて自分たちの脅威になると恐れたのかも知れない・・・
9. Posted by 実は・・・   2014年06月21日 23:44
シーボルトはペリーに日本の情報を流していたらしい・・・
10. Posted by 古都   2014年06月22日 20:55
シーボルトまでも義経=成吉思汗説を説いていたのには驚きました。
11. Posted by 教授 城ヶ島花子   2014年06月23日 08:59
御講義有難う御座います

小谷部著作は復刻版は目次を読むと確かに旧仮名遣いで書かれているので読み辛いですね。でも成吉思汗と源義経について非常に確信をついていて内容はこいのではないかと思いました。

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