2014年06月14日

<土曜特別連載>◎中国清王朝の始祖は源義経!? 20

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※清朝・乾隆帝「私(清王家)の姓は源といい、義経という人の末裔である。源義経の出自は清和(天皇)であり、それ故に国号が清となった」
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紀元は2600年(キングレコードより)



<土曜特別連載>
成吉思汗=源義経だったこれだけの理由
◎中国清王朝の始祖は源義経!? 20

義経の真の足跡を北海道にまでたどり、いよいよ本書の核心となる“義経=成吉思汗(ジンギスカン)、同一人物説”へ移っていく前に、ここで新たにいくつかの知識を蓄積しておく必要があります。それは近世・近代に入ってから、どのような経緯で義経と成吉思汗(ジンギスカン)を結びつける歴史発想が浮上してきたかのかということです。第一章で述べたように、江戸時代中期の大儒学者・新井白石は、主君の第六代将軍・徳川家宣(いえのぶ)に献じた『読史余論(とくしよろん)』のなかで義経とアイヌ民族の交流事実を指摘しており、この時代には義経の蝦夷地渡りは歴史常識論として認知されていたといえます。問題はそこから先、さらに論点を押し進めた成吉思汗(ジンギスカン)との関連性です。この点については、『金史別本』と『図書輯勘(としょゆうかん)』という2冊の書物の存在がクローズアップされます。要点を簡潔にご説明しましょう。
まず、新井白石と同時代にクローズアップされた『金史別本』とは、正確にいえば1115年から1234年にかけて中国東北部を支配した女真族(じょしんぞく)王朝「金」の歴史を綴った『金史(きんし)』の一部を成す、『列将伝』というふれこみで登場しました。その記述によると、源義経という日本の武将が蝦夷地・樺太経由で満州に入り、金王朝の縁者と結婚して男の子を設け、その子が成長して源光緑将軍と名乗って金国の発展に寄与したというのです。ただし、金国は成吉思汗(ジンギスカン)が樹立した元(げん)によって滅ぼされたので、この『列将伝』記述と義経=成吉思汗説は直接的には結びつきません。しかし、中世以来の日本人が抱き続けてきた平泉以後の義経の去就(きょしゅう)についての疑念が、初めて中国大陸という具体な空間概念で説明づけられたことが大注目を浴びたのでしょう。
もう一冊の『図書輯勘(としょゆうかんろく)』が脚光を浴びるきっかけになったのは、新井白石の時代から約半世紀後の1783年に国学者の森 長見(もりながみ)がまとめた随想録『国学忘貝(こくがくわすれがい)』の記述でした。森 長見によると、江戸城内の幕府文庫内には清国の百科全書『古今図書集成』1万巻が収蔵され、そのうち歴代清皇帝が記した『図書輯勘(としょゆうかん)』130巻の1巻に、乾隆帝(けんりゅうてい、1711〜1799年)が書き綴(つづ)った次の驚くべき一行があるというのです。

≪朕姓源義経之裔、其先出清和、故号清国≫
つまり「私(清王家)の姓は源といい、義経という人の末裔である。源義経の出自は清和(天皇)であり、それ故に国号が清となった」。

なんと、清朝絶頂期の皇帝みずからが、先祖は日本人の源義経だと宣言したことになります。清朝を1636年に樹立した満州族は、元王朝の血脈を受け継いだ人々でした。従って清皇帝の始祖とは、成吉思汗(ジンギスカン)に他なりません。それを敢えて乾隆帝(けんりゅうてい)は源義経の名を挙げ、しかも清の国号までが清和天皇に由来すると言いきった…という森 長見の歴史大スクープは、『金史/列将伝』記述を上回る大反響を巻き起こしました。
ところが…。ここで厳然たる事実を述べておかなければなりません。これら中国に由来する2冊の記述内容は、どうも信憑性に欠けるものだったといわざるを得ないのです。まず『金史/列将伝』については、その存在を江戸時代の日本に知らしめた沢田源内に問題がありました。この人物は、江戸時代に流行した、いわゆる‘系図買い’の受注者として知られていたのです。つまり、武家や豪商などの求めに応じて家計図を作成する商売ですが、当然その製作には由緒正しく格式高い家柄を強調するための巧妙な偽装・粉飾がつきものでした。いいかえれば、無学な人間にこなせる仕事ではなく、宮家勤めの経験があったという沢田源内も広い学識を身につけていたようです。それだけに始末が悪く、系図作りだけでなく、さまざまな思惑をもった人々の求めに応じて『異聞関ヶ原軍記』『足利治乱記(あしかがちらんき)』『大系図』といった大巻数の史書を捏造したともいわれ、『金史/列将伝』もまた残念ながら、限りなく沢田源内本人が記した偽書の疑いが濃いのです。
一方の森 長見は、沢田源内とは比較にならない権威をもった学者でした。『国学忘貝(こくがくわすれがい)』に語られた乾隆帝(けんりゅうてい)についての記述は伝聞という形をとっており、これ以外にも江戸時代には、清朝の始祖が実は日本人だったという風説が広く流布していたことは事実だったようです。しかし大きな難点は、江戸城内の御用文庫に収蔵された清国の『古今図書集成』1万巻を詳しく検分できるのは数人程度の幕臣に限られていたことです。そのため真偽を確認できないまま年月が経過し、『図書集成/図書輯勘(としょゆうかん)』の中に前述のような乾隆帝(けんりゅうてい)の記した文書は存在しそうもないという結論に達したのは幕末に至ってからでした。それにしても、かくもセンセーショナルな記述を正統的な学者の森 長見が自著にしたためた真意については、不可解というしかありません。
結局のところ、この二人の学識者たちが義経と中国の秘史に関係性を求めたのは、たとえ作為というマイナス面があったにせよ、江戸時代中期から後期にかけての日本社会全体に義経と成吉思汗(ジンギスカン)の正体に関する並々ならぬ関心が背景にあったからでしょう。鎌倉時代から約6百年間を経て、奥州平泉を脱出した義経が蝦夷地経由でユーラシア大陸へ渡ったに違いないという確信が、あらゆる階層のなかで頂点に達していたのでしょう。歴史常識論による直感的判断でした。
そして実際、『金史/列将伝』と『図書集成/図書輯勘(としょゆうかん)』という生みの苦しみを経て、より明確な学術研究の裏づけをもった本格的な義経=成吉思汗説が世に登場する結果となりました。それを最初に主張した人物は日本人ではなく、1823年に長崎オランダ商館の医師として来日したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトでした。



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この記事へのコメント

1. Posted by 本部より   2014年06月14日 17:51
「成吉思汗=源義経だったこれだけの理由」を読まれた読者の方より感動のお手紙をいただきましたので、一部抜粋してここにご紹介します。


・ ・・中杉弘様・・・


私は80代の男性ですが、先日義経の墓石(亀形)写真が見つかる予感がして、中杉様の著書の中に発見しました。すかさず、はしがきと結論を読み、実に驚愕しました。それと、中杉様のプロフィールを拝見し、さらに驚きました。全てを見通しておられるようで体に震えがきました。実に見事な推理と判断でまことに感服いたしました。その証拠として私からの参考書類を同封しました。正に中杉様の予言通りとなりつつあります。


昭和45年に札幌の手稲山に義経伝説の手がかりとなる「隠刻」なるものを発見。解読の結果、笹竜胆紋源九郎の文字を読み取れたのです。北海道には、義経、弁慶を研究する会があり、私はその会で会長・副会長を務めておりましたが、十年ほど前に辞任し、その後は義経の研究からは離れていました。しかし、周囲の勧めもあり、最近になって研究を再開した矢先、中杉様の著書と出会い、まさに神仏のご加護だと心から思っております。


霊界の義経も天台密教の信者で大峰入りを決行していたとあり、また小谷部氏は成吉思汗も非常時には、モンゴルの高山に断食して登り神仏の加護を祈ったと記述しています。中杉様の予言通りアジア全土から集めた秘法と共に義経の遺体は岩窟の奥座敷で眠っていると想像されます。蒙古式の埋葬地は地上に目標を置かないのが慣しですから、必ず目標石や壁刻に大きな入り口の文字や印があるのが「八陣の守法」です。


中杉様の今後のご活躍を心よりお祈りしております。

乱筆乱文で失礼いたしました。
2. Posted by 教授 城ヶ島花子   2014年06月15日 14:56
5 御講義有難う御座います

中国の秘史には、作為さくい的なところがあったのですね!
3. Posted by 佳子   2014年06月15日 18:47
本日もご講義有難うございます。

博士のご講義は、先日も京都大学名誉教授、イタリア数学研究者の方からご投稿があったことからも、知性の高い方ほど感動するのですね。
4. Posted by 室蘭の男   2014年06月15日 18:55
>蒙古式の埋葬地は地上に目標を置かない

何故だろう。

義経からの「伝統」だろうか・・・
5. Posted by 弥生   2014年06月15日 18:57
>清朝・乾隆帝

この肖像画は、何だか日本人のようですね。
6. Posted by 副主任教授C.Sasaki   2014年06月15日 19:06
中杉博士、本日もご講義有難うございます。

>江戸時代中期から後期にかけての日本社会全体に
義経と成吉思汗(ジンギスカン)の正体に関する
並々ならぬ関心が背景にあった

江戸時代も中期になると、社会も安定していたからではないかと思いますが、「義経が蝦夷地経由でユーラシア大陸へ渡ったに違いないという確信」、「歴史常識論による直感的判断」が、当時のあらゆる階層のなかで頂点に達していたという文化的水準は凄いものですね。
7. Posted by 歴男   2014年06月15日 19:09
>義経が蝦夷地経由でユーラシア大陸へ渡ったに違いないという確信が、あらゆる階層のなかで頂点に達していた

江戸時代の識字率は世界一だったからこそ「あらゆる階層のなかで頂点に達していた」のではないかと思います。
8. Posted by ASUKA   2014年06月15日 19:12
>1
>中杉様の著書と出会い、まさに神仏のご加護だと心から思っております。

共に皇室の血を引く朝堂院先生と博士の対談も、神仏が引き合わせたのではないでしょうか。
9. Posted by 古都   2014年06月16日 22:08
私も弥生さんと同感です。清朝・乾隆帝
肖像画ですが、清らかな表情をした日本人のように感じました。

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