15年前の教訓はどこへ行ってしまったのだろうか。

 米国で、イスラム教徒の入国禁止を唱える人物が共和党の大統領候補になった。フランスなどでは、イスラム教徒の女性用水着を規制する動きが広がる。

 2001年の同時多発テロ後もそんな空気が強まった。米国内でイスラム教徒に対する脅迫や嫌がらせが相次いだ。

 イスラムは敵ではない。当時のブッシュ大統領はそう語ったはずだったが、愛国と報復心にはやりつつ、米国は各地で対テロ戦争へと突き進んだ。

 「文明の衝突にしてはならない」との警鐘はもはや、声高には聞こえない。世界をテロの不安が覆うにつれ、「イスラム嫌い」が再燃している。

 9・11の実行犯には中東の裕福な家庭に生まれ、欧米で教育を受けた若者もいた。近年のテロでも、欧米で生まれ育った若者の関与がめだっている。

 多感な彼らが、暴力の犠牲になる中東の人々に、差別や疎外感に苦しむ自らの境遇を重ね合わせて憎悪をたぎらせる。この構図も繰り返されている。

 どんな動機であれ、市民の命を奪うテロは許されない。

 一方で、「反テロ」に走るあまり、社会を息苦しくし、少数派や移民、若者らの孤立感を強め、新たなテロの土壌を生む現実にも目を向ける必要がある。

 ブッシュ氏はテロ対策を「戦争」と位置づけた。昨年のパリ同時テロでも、オランド大統領は「戦争状態」を宣言した。

 テロを防ぐためなら、人権や自由の多少の制限もやむをえない。令状のない拘束や通信傍受も許される。そんな風潮が各国の当局の行動に広まったのは、憂慮すべき事態だ。

 「対テロ」の看板は今や、人権を侵しかねない公権力の正当化にも用いられる。欧米では、イスラム教徒らが宗教や人種などを理由に監視の対象になる実態も露呈した。中東やアジアなどでは、対テロの名目で政敵や少数派への抑圧が続く。

 9・11から15年たった世界は残念ながら、暴力と憎悪の連鎖を断ち切れずにいる。どの国であれ自国の市民の安全を守ることは最優先だが、国内外の理不尽が生むテロの脅威は簡単に国境を越える時代なのだ。

 シリアやアフガニスタンなど各地の暴力の停止に、国際社会はもっと尽力せねばならない。

 そして、足元の暮らしの中にも目を転じよう。差別や抑圧の芽はないか。少数派や外国人らへの「寛容」という勇気を持っているか。その自問の責任が、9・11の教訓でもある。