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25年ぶりの恩返しできた…優勝の広島・松田オーナー独占インタビュー

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広島の松田元オーナー  (セ・リーグ、巨人4-6広島、22回戦、11勝11敗、10日、東京D)ようやく25年分の恩返しができた-。広島・松田元オーナー(65)がサンスポの独占インタビューに応じ、四半世紀ぶりとなるリーグ優勝を迎えた心境を語った。地元の熱いファンに支えられ、自前で選手を育てる信念を貫いた。苦労の末に手にした栄光に、カープの総帥の言葉には安堵の思いがにじんだ。【聞き手=元広島担当、現文化報道部長・畑惠一郎】

 --25年ぶりの優勝。今の気持ちは

 「しみじみとした気持ちやな。やっと恩返しできた。25年ぶりじゃろ。その間、いろいろな恩を受けているわけよ。みんなで一緒になって一番喜んでもらえるのが優勝。それができたというのは、ひとつ恩返しができたという感じ」

 --昔からのファンもずっと待っていた

 「原爆が落ちて4年後の1949年に球団を作っとる。当時、ぐちゃぐちゃになっとる広島でチームを作ろうと言って、現実に作ってしまった先人のバイタリティー。そして、それを支えてくれた人たち。それから脈々と続く球団を支えてくれる人たちに対する恩義というか、それが25年ぶりにようやく返せるなという感じやね」

 --この25年間は、長かったですか

 「長いわ。まったく。だけどね、人はよういうけど、ドラフト制度とかFA制度で、あんたんところ苦労したじゃろうと。だけど、ウチはウチらしく何か工夫して、絶対にそれを覆してやるんだという気持ちだった。だけど、25年もかかったいうことは、できんかったということじゃろな。本質は素質のある選手を入れて、育成してという形なんだけど、どうしてもそれでうまく結果が出んかったよね」

 --FAで選手を1人も獲らず、自前の選手だけでの優勝はすごい

 「ソフトバンクの内川は獲りにいったけどな(注1)。一蹴されたけどよ(笑)。安定感があるのは外国人選手。うまく獲ってきてくれる」

 --今季、他球団の助っ人が苦しんでいる中で広島は成功した

 「それは間違いなんだな。DeNAが獲ったブロードウェイを追いかけたけど獲れなくて、ジャクソンにした。ヘーゲンズは安かったので、先発の保険で獲った。ワシが素晴らしいと思ったのは現場。ああいう使い方するとは夢にも思わんかった。外国人ピッチャー3人体制をとるとはな(注2)」

 --外国人戦略に加えて、自前で育てるという軸がずっとぶれていない

 「交通は便利になっとるけど、今でも広島に来るのは大変。オーナー会議なんかでも、博多からは飛行機でポーンと(東京に)行けるけど、ウチが一番時間かかるんじゃないかな。なかなか広島まで来てくれる選手とかコーチがいなかったから、どうしても自前でやらなきゃいかんかった。それがずっと生きてきているんだと思う」

 --ドラフト戦略から育成、活躍と球団としての継続の成果が出た

 「それがウチが戦う方法なんよ。他球団に負けんようにせんといけんとずっと思いよった。広島で戦うには他球団が目をつけないような、しかしながら素質のある選手を見つけてきて、育てて一人前にする。それをやっていけば優勝はできるんじゃないかと。まあ、それがなかなかうまくいかず、25年もかかってしまったけどな」

 --優勝できた要因は何だと考えていますか?

 「監督とかヘッドコーチの高とか、河田(外野守備走塁コーチ)とか植田(バッテリーコーチ)とかよ。お互い18歳のころから知っとるけんね。ものすごく気安いよね。同じ釜の飯を食った連中が、そろって監督やヘッドになったと思うと、ある意味うれしいよね。河田と植田は西武に行っとったけど(注3)、いつでも戻ってきていいと伝えていた。戻ってきて、奉仕しろと。職業じゃなくて、奉仕に来いよという感じやな」

 --奉仕に戻ったという意味では、黒田と新井の存在が大きい

 「大きいよね。広島らしい優勝というのは、そういうところやね。昔からおった子が一度は出たけど、自分のお金というものを無視して、こっちに帰ってきて、頑張ってくれている。それは他球団では起こりにくいことじゃないかな」

 --若手の台頭もあった。鈴木が伸びた一年

 「鈴木は入ったときから評価が高かった」

 --鈴木が阪神に入っていたとしても、いまの鈴木になれたか…

 「それはあるかもしれないね。言っちゃ悪いけど、新井は生き生きとプレーしとるじゃろ。やっぱりチームの体質の違いといったらおかしいかもしれないけど、何かあるんだと思うよ」

 --今季を振り返ったときにどの試合がポイントだと思いますか?

 「分からんなあ。ワシは試合見とらんから。気が弱いけえ、五回になると家に帰るんよ。ワシが球場出たらよ、逆転するんじゃ。点が入るんじゃ。だから、みんな『早く帰れ』って顔しよる。負けているときとか、点が入らんときとかな。おりづろうてかなわん」

 --家に帰って、勝ったと知るわけですか

 「勝つとメールがくるから。勝ったわ、と。験担ぎや。めちゃくちゃ験担ぎするけえ。勝つためには何でもする。いとこにも、優勝が決まるときは球場の外で待機しとけと言われとった」

 --(携帯電話が鳴りビートルズの「ハード・デイズ・ナイト」が流れる)若い着メロですね

 「若いことないやろ。ビートルズや。朝晩大変な思いをしながら働いてという曲(注4)じゃろ。犬のように、どうじゃこうじゃというのが、自分のことを言うにはちょうどいいなと」

 --96年に巨人に11・5差をひっくり返される「メークミラクル」があったり、いろいろなことがあった。このままでは優勝できないんじゃないかと思ったことは

 「ワシは反発心が強いんじゃ。ドラフトにしろFAにしろ、絶対に自分らの方法があると思ったし、何かで証明したいという気持ちはいつもあった。でも、25年間かかったということは、証明できんかったということやろな」

 (続けて)

 「ただ、新球場に移って、経営も安定して、いい球場だいうことをみんなに分かってもらった。ここでプレーしてもいいわという選手が集まって、いい球場だと思ってやってくれている。逆に言えばノビノビと相手に見下されることなく、自分たちの球場はこんなにいいんだからいう気持ちでできるのは、大きいと思うよ」

 --昨今、カープ女子も増え、全国的にも人気ですけど、あくまで地元を大切にしている

 「地元というより地域。よう市民球団と言われるけど、その言葉は使わんのよ。『地域球団』と言っている。広島市という部分だけじゃなく、地域全体。福山からいろいろなところまで広げた形で人を集めていかないと」

 --何度もチャンスを逃してきて、今年がある

 「三村(敏之)さんのときはこっちが何か手当てできたんじゃないかと。あそこでひっくり返されんかったら、優勝監督なわけじゃからね(注5)。ただ、今回指揮を執っている緒方にしろ投手コーチの畝にしろ、三村さんの指導を受けている。そういう意味じゃ三村さんの悔しさを教えてもらっていた者が、やってくれたんじゃないかな」

 --阪神はまざまざと力の差を見せつけられた。2003年に広島からFA移籍した金本も監督として苦しんでいる

 「いやいや、違う。広島のような選手、チーム作りを金本が始めた年よ。今年はつらい思いをしとるかもしれないけど、今やっていること、高山とか北條とか、あそこらが4年後の東京五輪のとき、バシッとした感じの主力になるよ」

 --ありがとうございました

 「肩の荷がおりたわ」

★取材後記

 広島番だったのは、1993、94年。山本監督と三村監督を1年ずつ担当させてもらった。当時のチームは91年のリーグ優勝の余韻もあってか、熟成されたというか、若手記者の私には近寄りがたい雰囲気があった。

 そういうなかで気さくに取材に応じてくれていたのが当時、オーナー代行だった松田オーナー。最初に話を聞いたときにはっきりと「ウチは常に3年先を考えている」と言われた。球団全般を預かる者として「3年先」というセリフは珍しくない。ただ、この言葉通りに実行している球団が果たしていくつあるだろうか。人間関係や親会社の都合などで揺れ動き、中身のない計画に終わっている。広島の松田オーナーは「3年先」を確実に実行し続けている希少な存在なのだ。

 自前の選手を育てるという育成方針もそう。軸がぶれることはない。信念を持つ人は強い。決して揺らがず、どのような結果が出ようとも常に前を向く。そして、感激の瞬間を迎えた。おめでとうございます。 (現文化報道部長・畑惠一郎)

松田 元(まつだ・はじめ)

 1951(昭和26)年2月11日生まれ、65歳。広島県出身。広島東洋カープオーナー。曾祖父はマツダ創業者でマツダ2代目社長の松田重次郎、祖父はマツダ3代目社長の松田恒次、父はマツダ4代目社長の松田耕平。広島大付高から慶大進学、米国留学を経て77年に東洋工業(現マツダ)入社。82年に退社し、翌83年に広島東洋カープの取締役、85年にオーナー代行。2002年から現職。

 【注1】2010年オフ、横浜(現DeNA)からFA宣言した内川聖一外野手の獲得に名乗りをあげたが、大分県出身の内川はソフトバンクへ。広島がFA選手の獲得に動くのは初めてだった。

 【注2】外国人選手の1軍登録は4人。投手、野手はそれぞれ同時に3人までで、今季の広島はジョンソン、へーゲンズ、ジャクソンの3投手を登録。ヘーゲンズを中継ぎと先発で使いこなし、やりくりした。

 【注3】河田コーチは1995年オフにトレードで西武へ。2002年の引退後も西武でコーチを務めたが今年、広島に復帰。植田コーチは93年オフにトレードで西武へ。同じく引退後は西武でコーチを務め、08年に古巣に復帰した。

 【注4】「ハード・デイズ・ナイト」(A Hard Day’s Night)は1964年にビートルズが発表した7枚目のシングル。恋人のために働く若者の心情を「犬のように働きづくめ」「犬のように眠りたい」と歌った。

 【注5】広島は三村監督3年目の1996年、首位を独走し、7月6日に4位巨人に11・5ゲーム差をつけた。しかし、後半戦に江藤らが故障で離脱。巨人に逆転され、最後は中日にも追い抜かれて3位だった。

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