ギリシア神話の英雄として日本でも有名なヘラクレスが、生涯にわたって愛を捧げた妖精の亡骸を誇ったとされる世界遺産のアマルフィ海岸―。
山と山に挟まれた小さな有無と出会ってできたこの入り江の起源は古く、古代ローマ帝国が崩壊の危機に瀕していた4世紀ごろ、南イタリアの海辺の町メンフィの人々が戦火から逃れて住みかを構えたのが始まりとされています。
6世紀末には司教座(カテドラル:カトリック教会の各教区の中心となる教会)が置かれるまで発展しました。その発展の礎となったのがアマルフィ人が備えていた商才を活かした貿易です。
背後が切り立った山で耕地を持たなかったアマルフィですが、海に囲まれ、中東、アフリカ大陸に近いという地理上のメリットをフルに活用し、諸国との海洋貿易を積極的に行ったのです。北アフリカでは木材を売って、その対価として特産品である黄金を得て、今度は黄金を元に、ビザンチンで香辛料、貴金属製品、高級織物などに替えてイタリアに戻り、アドリア海の都ラヴェンナから船でポー川を船で遡り、パヴィアまで運んで巨万の富を築いたのです。このイタリア、アラブ、ビザンチンを結ぶ「三角貿易」で発展したアマルフィは、839年にナポリの属国から独立し、中世イタリアで最初の海洋共和国として名を挙げることになりました。
当時の繁栄を今日に伝える町が、石造りの大階段、その上に鎮座するオリエント風のファサード(建物の正面をなす外観)、頂上に頂くモザイクをはじめ、その壮麗さで見るものを圧倒するドゥオモです。10世紀末に建立されたこのカテドラルは、左背後に9世紀に建てられた別の教会を従えるという複雑な構造になっています。聖アンドレア以前の守護聖人であった聖母マリアに捧げられたこの教会は6世紀頃の初期キリスト教教会の跡に建てられ、現在はドゥオモの歴史を伝える博物館となっています。
この博物館の柱廊の玄関の左側で観光者を待っているのが、13世紀に貴族の墓として造られ、アラブ様式と南国の木々の作りがエキゾチックな「キオストロ・デル・パラディーソ」いわゆる「天国の回廊」です。司教アウグスタリッチョによって1266年から1288年にかけて建設された天国の回廊は2本の円柱に支えられたアーチが交差する形になっています。派手さはありませんが、差し込む日差しによる白く輝く壁やアーチ、それらが織りなす影の濃淡、そして中庭部分に繁る緑のコントラストが美しいです。
アマルフィを訪れる際に是非見ておきたいものの筆頭はドゥオモと天国の回廊ですが、街の喧騒を離れたムリーニ渓谷にある紙の博物館も見逃せません。農業に適した土地を持たないアマルフィが唯一製造できたのが豊富な水源を活かした紙であり、かつては40近くもの製紙工場が存在していました。
紀元前2世紀に中国で発明された紙はシルクロードを経て、10世紀にはペルシアからエジプトへとその製法が伝えられました。これらの地域と貿易が盛んでアマルフィにも時を同じくして髪の製法が伝わったと考えられており、13世紀になるとアマルフィのムリーニ渓谷は紙の製造地として定着しました。
海洋共和国として栄華を誇ったアマルフィでしたが、その豊かさは外部からの侵略の対象となり、12世紀前半にノルマン王国の支配を受けて以降は再独立の機会がないまま衰退していきました。それでも、アマルフィの商人は後発都市のピサ、ジェノヴァに対抗し、交易の世界ではその地位を保ち続けていました。
しかし、13世紀後半に南イタリアの覇権をめぐってアラゴン家とアンジュー家の争いが起こり、アラゴンの支配が決まるとアマルフィ人の商業の自由権が剥奪されてしまい、アマルフィは歴史の表舞台から徐々に消えてゆくことになったのです。
海洋共和国としてのアマルフィは早熟に終わってしまいましたが、海の世界で果たした役割は非常に大きいものがありました。長距離の海洋貿易に大型船の建造技術は欠かせませんが、アマルフィは11世紀に当時世界最大規模となる造船所を擁しており、商船とガレー船(人力でオールを漕いで進む軍艦)を建造していました。
11〜14世紀にかけて編纂された海洋記録は航海におけるルール作りが66章にもわたって細かく記されており、貿易品の簒奪を狙う海賊が跋扈していた海洋世界の秩序を求めた先達となりました。また航海に欠かせない羅針盤を完成させたのもアマルフィ人だったとされています。
アマルフィの街を探索すると、海洋共和国としての当時の名残りをいたるところで見ることができます。陶器店の軒先には方位地図をモチーフとしたタイルがかかり、古い建物の壁にはアマルフィ、ヴェネツィア、ジョノヴァ、ピサという呼んだ四大海洋共和国の紋章があったりします。もっと知りたい方には博物館「アルセナーレ」があります。