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ポジ熊の人生記

好きなことを、見てもらえる情報にして発信する、そんなブログを目指しています。

世間で生きるための矯正と「個性を発揮しろ」という難題

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個性を発揮しろとか無茶言うなし・・・

小学生、いや保育園時代から人格を矯正されてきました。自由奔放で奇想天外だった僕は、いろいろな人に叱責され、その角を丸くしていきます。子供が躾されずに成長することは不可能でしょうが、少なからずここで個性というものは死んでいる。

 

社会に出てからは、いよいよ矯正が顕著になります。「ここではこうあるべき」「その年でその考え方はおかしい」などなど。もちろん必要最低限の礼節は学ばせて頂いていると感じます。ですが、矯正の最中で「自分とは、個性とは」このようなことを考えるにあたりジレンマが付きまとうようになりまして。

世間という共同体

広辞苑第6版によりますと、世間とは「人の世、人生、社会、世の中」とあります。

これは日本独特の概念だそうで、つまり共同体なわけです。家族や隣近所に始まり、日本の中の人たちはみな共通意識を持っていて、そこから逸れると阻害される。逆に多くの耳目を、ポジティブな形で集められればそれは名声として轟く。

 

子供の頃はあまり意識していないかもしれません。ですが、実はこの世間に嫌というほど影響を受けて育っています。保育園や幼稚園の同じグループに所属していてもそうですね。みんなが変だということを行えば「変人」になります。それを言葉なり行動なり(いじめを含む)で受けて、傷つき、矯正されていく。

 

小学校や中学校になるとその傾向は顕著になります。同じ流行を追いかけ、似たようなファッションを求める。それはひとえに周囲から阻害されないため、共同の意識へより近づこうと必死になるのです。

 

残酷な話、外見が中庸から大きくそれれば、それが思想的なものでなく身体的なものでもいじめの対象となる。肥満や痩せ体形などですね。僕は肥満でいじめを受けていたので、人と違うことで受ける差別や偏見、悪意を帯びた攻撃を身をもって知っています。人の使わない言葉(例えばその学年で教えない熟語など)を使うような子供でしたから、変わり者として余計にいじめに拍車をかけていた気もします。

 

こうして辛い思いをして成長した子供も、そうじゃない子も、多くが社会へ出ていきます。そこでも矯正の嵐は止むことがありません。最低限の礼儀などは厳しく叩き込まれるでしょうし、それは必要なことだとは思うのですが、「僕は間違っていないと思うんだけどな」なんて心の中で思う案件にも少なからずぶち当たると思うのですよね。

 

ここで皆さんならどう処理していますか。自分の中で「これは自分らしさのひとつなのに、ここまで矯正されなきゃいけないのか」などと理不尽に感じた時です。

 

僕はかつて抵抗していました。それはまるで勢力の弱い反乱軍の戦いのようでした。信じられるのは自分だけ、周りはみな「世間」という名の旗を掲げた正規軍で、圧倒的多数の巨大な力です。当然、負けてしまいましたね。「こういうものなのだろう」なんて、落としどころが理屈じゃないところで納得せざるを得なかった。だって、生きていけませんからね。敵だらけの場所でまともな精神を保てるとは思えない。

 

ここに、一人の「丸い社会人」ができあがるというわけですね。めでたしめでたし・・・なのかなぁ。

 

個性を発揮しろという無理難題

何かにつけて「個性を発揮しろ」という言葉が飛び交います。無茶ですよ、ここまで世間に合わせるように幼少期から徹底的に矯正する社会が、個性を歓迎するはずがないじゃないですか。こんなのは机上の空論です。そんなことを叫ぶよりも「世間完全マニュアル」でも配布すればいい。無駄な自分探しという空虚なものにリソースを割いて、結局見つけられない人を一人でも減らしたほうがいいと思うのです。

 

厭世的になっているのではなく、心の底からそう思う。僕は子供に「個性的になれ」なんて言えない。あまりにも残酷すぎるから。この世界で生きていくためには、いかに周りに合わせて和を以て貴しとなすの精神で上手に泳いでいくか。それがノーストレスで生きていくためのアドバンテージじゃないかなって考えるのですね。

 

自分を肯定するための精神を育むことは必要ですし、認めてあげることは何よりも大事なことだと思います。ですが、荒ぶる個性をそのままにしておいて世間の荒波に放り出すことは、経験上抵抗が強すぎる。だから親御さんというのは「世間様に迷惑をかけるな」って子供に口を酸っぱくして言うのでしょうなぁ。

 

個性ってなによ

個性ってなんでしょう。自分らしさって、一体・・・。

 

もうこれわかんねえな状態です。ほんと、ここ1年くらいは、どれだけ考えても答えは出ないし、晴れ渡る秋の空の如き心境には至れません。今回のエントリを書いた理由は「世間というのは日本における共同体の強固な概念であり、生きていくうえで不可避なのだろう」ということを、今更ながらに痛感したからです。であれば、闇雲な自分探しなどは時間の無駄ではないか、とも。

 

おかしいと思うこともありますよ、世間に対して「え、それはこうじゃないのか」なんて、しょっちゅうです。TVが流す巧言令色で煌びやかな情報にしてもそうですね、「いやいや、裏側ではどんなことになってるか、知ってるんか。全てひっくるめて1だろが」なんて。屈託なくそれを見て笑う同僚をしり目に、僕は心の中でペシミズムを密かに引き起こしている。ほんと、たまーにですがこれを言語化すると、周りは変わり者を見るかの如き白い眼を向けるのです。「ああ、言わなきゃよかった。そういや、これが世間の平準なんだもんな」なんて諦める。こんなことの毎日です。

 

そうしていくうちに、次第に感覚が麻痺するのでしょう。メディアが流す世間一般的な大衆娯楽に流されても流されたことを自覚せずにそれを当たり前の娯楽として受け入れる。自分はこう考える、なんて足かせにしかならないんじゃないか。こういうことを繰り返し繰り返していくうちに、個性なんて概念は没していって、「そもそも個性なんてない」というわけのわかならい場所に落ち着いてしまうものなのかもしれません。

 

個性って何かわかりません、これが結論です。

変な結論ですねw

 

もうすこしだけ、足掻いてみます。

 

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