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ハーバード大のサンデル教授の講義が話題になっている。
→ ハーバード白熱教室 ( NHKの番組 )
→ 動画
これとほぼ同内容の著作もある。
→ これからの「正義」の話をしよう(サンデル著)
いずれにせよ、世評が高い。Amazon ではベストセラー1位になったこともあるらしい。
私もざっと見てみたが、十分に評価できる。専門家の目からしたら、物足りないが、普通の教養ある人にとっては、とてもよい良書だと思う。
なぜ良書か? 素晴らしい知識が示されているからではない。社会において「物事を考える」という訓練をさせてくれるからだ。現実の世界では、簡単に正解の出ない問題が多い。そういう問題に直面して、どうするべきか? あれこれと頭をひねって考える。そういう思考体験を与えてくれる。これを読んだ読者は、否が応でも、自分の頭で考えざるを得ない。そういうふうに「考える」という体験を与えてくれるという意味で、これは良書である。十分に買う価値がある。
しかしながら、である。この本を読めば、考えることはできるが、正解が示されているわけではない。なぜかと言えば、もともと正解は得られていないからだ。
「こういう場合には何が善か?」
という質問は与えられても、唯一の正解はない。実際、倫理学や法哲学などの分野で、さまざまな学者が「ああでもない」「こうでもない」と議論を沸かせている。そこでは簡単に正解などは見出されない。
それでも、少しでも正解に近づきたいと考えている人は多いだろう。そこで、私なりに、従来の発想を超えた形で、正解を示すことにしよう。正解などはありえそうにない分野で、正解を示そう。
なお、初めにお断りしておくが、以下に示す「正解」は、これまで提出された多くの「正解」のうちから、一つを選ぶことではない。これまでに提出された「正解」とはまったく異なる形で、ほとんど意外な「正解」を示す。「正解」というよりは「超・正解」というべきものを。
それを受け入れるかどうかは、読者に委ねられる。
まずは、サンデルの示した、練習問題みたいな例を示そう。
(i) 列車の運転手の殺人
列車の運転手が、ブレーキが利かないと判明したとき、次のどちらを選択するべきか?
・ 直進して、前方の5人を轢き殺す
・ 待避線に逸れて、待避線の1人を轢き殺す
すると、「後者の方を選ぶべきだ」と考える人が多い。
(ii) 傍観者の殺人
同じ場面で、傍観者がいる。傍観者は、隣に立っているデブを突き落とすことで、5人の命を救うことができる。
・ 何もしないで、5人を死なせる
・ デブを突き落として、デブを死なせて、5人を救う
すると、「後者の方を選ぶべきでない」と考える人が多い。
同じようなことなのに、どうして結論が変わるのか?
→ もう少し詳しい説明
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サンデルは、ここで「功利主義」を批判する。その批判は、妥当である。功利主義というのは、一種の常識(特にアメリカ的な常識)であるから、それを批判することで、常識を覆された感じを受ける人が多いだろう。人々は常識を覆されて、物事を深く考えるように。そこまではいい。
問題は、その先だ。功利主義は批判されたが、ではどうすればいいかを、サンデルは教えてくれない。人々に「考えよ」というふうに示すが、問題提起をするだけで、「正解」を示してくれない。
これでは読者は欲求不満になりそうだ。そこで私なりに、「正解」を示すことにしよう。
以下の話は延々と続くので、最初に目次を掲げよう。
《 目次 》
(1) 真善美。真は科学。美は芸術。善は倫理学。
(2) 倫理学。規範主義と功利主義
(3) マイナスの大小と、プラスマイナスの総計は、異なる。
(4) 無限大のプラスマイナスには、算術が適用不可能だ。
(5) 行為の判断は、責任を取る本人に委ねられる。
(6) 一般的には、法に従えばいい。
(7) 法は規則功利主義。
(8) 社会が決定すれば、責任は社会に分散される。
(9) 社会の決定が正しいとは限らない。
(10) 責任を取れ。マイナスを見失うな。
(1) 真善美。真は科学。美は芸術。善は倫理学。
この世の最高価値は、「真善美」である。真を扱うのは、科学だ。(自然科学や社会科学や人文科学)
美を扱うのは、芸術だ。(音楽や美術や文学)
善を扱うのは? 倫理学だ。(法哲学と重なるところもある。)
「正義とは何か?」という話題は、「善は何か?」という話題と重なるので、倫理学の話題だとわかる。
(2) 倫理学。規範主義と功利主義
倫理学という学問分野は、昔からある。哲学の一分野とも重なる。倫理学では、「善とは何か?」という問題に対して、次の二つの主義がある。
・ 規範主義 …… 「こうするべき」という規範に従うべきだ
・ 功利主義 …… 結果的に生じた利益・不利益によって善悪を判定するべきだ。
規範主義には、「内心の道徳観に従う」というものもある。(カントの義務論など)
功利主義は、「結果を計量的に考える」というものだから、科学主義に近い。そこで、近代では、功利主義がかなり優勢になってきている。ほとんど常識にもなっている。
「最大多数の最大幸福」
「最小不幸の社会」
というのも、基本的には、このような功利主義に基づく発想だ。
しかしながら、そのような功利主義で、すべてカタがつくのか? それに対して、問題提起がなされる。その問題提起が、先の (i) (ii) の問題だ。(サンデルが考えたというよりは、もともと有名な問題らしい。)
(3) マイナスの大小と、プラスマイナスの総計は、異なる。
先の (i) (ii) の問題は、次の不等式で示せるように思える。(0) 1人の命 < 5人の命
しかし、厳密には、次のように欠くべきだ。
(i) 1人を殺す > 5人を殺す
(ii) 1人を殺し、5人を救う > 何もしない
これらはどう違うか?
(0) では、命というプラスの価値のあるものについて、個数で大小が比較される。
(i) では、殺人というマイナスの価値のあるものについて、個数で大小が比較される。
(ii)では、殺人と救助という、プラスの価値およびマイナスの価値という双方の価値のあるものについて、何もしない場合との比較がなされる。
(4) 無限大のプラスマイナスには、算術が適用不可能だ。
では、(0)(i)(ii)について、何がわかるか? こうだ。「命というものは、無限大の価値をもつ。(つまり有限の金で買えるようなものではない。)そして、無限大の価値をもつものについては、算術が成立しない」
仮に算術で書くなら、次のようになる。
(0) 1 < 5
(i) −1 > −5
(ii) −1 + 5 > 0
このような算術は、有限の価値をもつものについては、成立する。しかし、無限の価値をもつものについては、成立しない。どうしてかというと、次の式は成立しないからだ。
(0) 1×∞ < 5×∞
(i) −1×∞ > −5×∞
(ii) −1×∞ + 5×∞ > 0
つまり、「命」という無限大の価値をもつものについては、「損得を計量して考える」という功利主義の算術的な思想は、成立しなくなる。
こういう形で、功利主義の限界が示されるわけだ。
(5) 行為の判断は、責任を取る本人に委ねられる。
では、どうするべきか? どう考えるべきか? ここから先は、私なりの考え方に従う。結論から言えば、「どうするべき」という一般論は成立しない。つまり、正解はない。(正解はない、というのが正解。)……ただし、それだけでは、話は詰まらない。
正解がないとしたら、どうなるか? 各人がどうするべきかは、あくまでも各人(本人)に委ねられる。(重要!)
たとえば、電車の運転手の場合ならば、一般的に「こうせよ」という原理はない。どうするべきかは、電車の運転手本人が考えるべきだ。また、それを見ている傍観者の場合も、傍観者本人が考えるべきだ。では、考えると、どうなるか?
電車の運転手ならば、どちらにしても殺人をすることになる。選択肢は、小殺人と大殺人だ。ここで、対象者はどちらも赤の他人であるはずだ。とすれば、通常、大殺人よりは小殺人を選ぶだろう。より小さな悪を選ぶだろう。……ただし、注意。ここで、小殺人の方が善だということにはならない。どっちみち、業務上過失致死で罰されるはずだ。ただし、小殺人の方が、罰は少なめで済むだろう。そのことまで考えた方がいいだろう。
傍観者ならば、事情は異なる。何もしなければ、自分の行為は善でも悪でもない。一方、介入した場合には、1人殺して、5人救う。小さめの悪と、大きめの善がある。ここで、(3) で述べたような算術は成立しない。
−1×∞ + 5×∞ > 0
という式は、成立しそうでいて、成立しない。では、このようなとき、どうするべきか?
実は、「こうするのが正義だ」という正解はない。あるのは、事後的な裁判だ。この行為をした傍観者あらため介入者を、殺人罪で処罰するべきかどうか?
現代社会では、通常、このような介入者は「殺人罪」として処罰される。ただし、善をしたので、その分、情状酌量される。「死刑」になることはなく、有期懲役になるだろう。懲役5年ぐらいか。
すると、問題は、次のようになる。
「自分が懲役5年になるのを覚悟の上で、1人を殺し、5人を救うか」
これに対する回答は、人それぞれだ。ある人は「そうしよう」と思うし、ある人は「そうしたくない」と思う。たいていの人は、「そうしたくない」と思うだろう。
ただし、である。その5人のうちに、自分の愛する人が含まれるのであれば、どうするか? 「そうする」と思う男性が多いだろう。「愛する女性の命を救うためには、自分が懲役5年になってもいい」と思うだろう。
ここでは、「そのとき犠牲になる1人を殺してもいい」のではなく、「そのとき犠牲になる1人を殺すことの罰を、自分が受けていい」と思う、ということだ。そういう問題になる。
そして、これは、正義の問題ではなく、愛情の問題なのだ。それはあくまで本人の問題である。
(6) 一般的には、法に従えばいい。
決断は個人に委ねられる。ただ、個人に委ねられるとしても、個人にとって、判断のための何らかの「よすが」(頼りにするもの)が欲しくなるだろう。それを与えるのが、「法律」だ。一般的には、「法律」によって、なすべきことの善悪の程度が示される。(悪の程度が、罰の程度で、計量される。)(なお、法に明示されていない分は、判例で補われる。)
たとえば、1人を殺す罪は、5人を殺す罪よりも、軽い。(これは判例で。)
また、5人を救うために1人を殺す罪は、罰されるが、情状酌量で軽減される。
(7) 法は規則功利主義。
では、法とは何か? 法は、「規則功利主義」という形で示されることが多い。つまり、「その法を制定することで、社会の利益が最大化する」
という形の功利主義だ。(詳しくは → Wikipedia )
これは広い意味の功利主義になる。発想は功利主義的だ。
(8) 社会が決定すれば、責任は社会に分散される。
では、「法」ないし「規則功利主義」に従えば、それで善悪はきちんと決まるのか?「イエス」と答えたいところだが、残念ながら、そうではない。
そもそも、法を決めるのは、誰か? 社会だ。(具体的には議会などだが、議会を選任するのは国民だから、「社会」という言葉で示せる。)
ここで、法が間違うこともあるのだが、たとえ法が間違いであっても、法に従った各人が悪いわけではない。それはどういうことかというと、こうだ。
「法に従えば、法を決定した社会に、責任が分散される」
法に従うことで、まずい結果になることもある。しかし、それは、法の責任であり、社会の責任なのだから、法に従う個人が悪いことにはならない。
たとえば、列車の運転士の場合、1人と5人が、次のようであったとしよう。
・ 1人 …… 青春期の若者
・ 5人 …… 余命わずかな 80歳の老人グループ
前者は、「未来があるのに絶対に死にたくない」と思っている希望にみちた若者だ。
後者は、「過去に十分生きたから、いつ死んでもいい」と思っている老人たちだ。
そのどちらの命を奪うのが、小さな悪か? 法ならば、「5人を殺す方が悪だ」という結論を出すだろう。なぜなら、「人ごとに命には軽重はない。老人の命も若者の命も、同じ重みだ」という立場を取るからだ。
しかし、法が正しいとは限らない。
(9) 社会の決定が正しいとは限らない。
法に限らず、社会の決定が正しいとは限らない。アメリカで言えば、「銃器を持っていい」という社会の決定が正しいとは限らない。社会というものは、間違うことがある。特に、政府や議会は、ひどい間違いをすることが多い。その典型は、戦争だ。たとえば、イラク戦争では、ブッシュが「大量破壊兵器がある」という名分で、イラクを攻撃した。しかしながら現実には、大量破壊兵器は見つからなかった。また、「フセインによる虐殺から市民の命を守るため」という名分で、イラクを攻撃した。しかし、イラク戦争の結果、フセインの虐殺をはるかに上回る数の市民が死ぬ結果となった。……正義をめざした結果、最悪の地獄が発生した。しかも、それを、今なお制御できなくなっている。最善をめざして、最悪の結果に至った。
「法に従う」「社会に決定を委ねる」という方法は、自分による責任を免れることができるが、それは事態を最善にすることを意味しない。責任が社会に委ねられることで、個人の責任を免除されるだけであって、「何をするべきか」という問題に対する本質的な回答を与えてくれない。
(10) 責任を取れ。マイナスを見失うな。
では、どうするべきか? ここで、最終的な結論を下そう。「何をなすべきか?」という質問には、正解は存在しない。なぜなら、人間は神ではないからだ。神ならば、何をなすべきかを、事前に知っている。しかし人間は神ではないから、未来を正確に予想できず、しばしば過ちをなす。つまり、何をなすべきかを、知らない。換言すれば、人間は、もともと正解を知りえない存在だ。「なるべく正解を知る」ということは可能だが、「あらゆる正解をすべて知り尽くす」ということは不可能だ。だから、「正解を求めよう」という問題提起そのものが、根源的に間違っている。「善とは何か?」「正義とは何か?」という問題は、人間にとっては根源的に正解がない問題なのだ。
このあとが大切だ。
では、人間は、正解を知りえないのだから、無責任でいいのか? いや、違う。人間は、正解を知りえないとしても、自分のなしたことに、責任を取らなくてはならない。先の例で言えば、
「5人を殺すかわりに、1人を殺したなら、その責任を取る」
「1人の若者のかわりに、5人の老人を殺したなら、その責任を取る」
「5人のうちの1人である恋人を救うために、デブを殺したら、その責任を取る」
こういう形で、責任を取るべきだ。
政治でも同様だ。
「大量破壊兵器があるという名分で、イラク人を殺したなら、その責任を取る」
「イラク人を救うという名分で、イラク人を殺したなら、その責任を取る」
これは、具体的には、次のようなことだ。
「イラクを破壊したことの賠償として、米国政府は、百億ドルを上回る莫大な金をイラクに支払い、その金で、イラクの復興をなしとげる」
仮に、このようなことをなしていたら、今ごろ、イラクには平和が訪れていただろう。米国民としては、莫大な賠償金を払わされるので、たまったものではないだろうが、それでも、米軍に大量虐殺されて国家を破壊されたイラク国民よりはマシである。
問題は、米国には、このような反省がまったく欠落していることだ。あまりにも無責任であることだ。そのせいで、イラクにはいつまでも混乱状態が続く。
結論をまとめて言おう。
「正義とは何か?」という問題には、根源的に正解がない。ただし、正義と悪とが混じっている現象については、正義と悪とを差し引きしたりせず、「正義は正義、悪は悪」ときちんと別々に認識するべきだ。
「独裁者を殺すという善をなしたから、イラク国民を虐殺するという悪は免除される」
というような算術的な差し引きをするべきではない。むしろ、悪を悪としてきちんと認識するべきだ。善をなしたことで悪が免除されることはない、と理解するべきだ。
それはつまり、おのれのなした悪に責任を取る、ということだ。悪は善で免除されない。「総合的には善が悪を上回るから、自分のやっていることは善なのだ」というふうに自己正当化するべきではない。どんなに善をしても、悪は悪として残る。
「正義とは何か?」
という質問に、簡単に答えるなら、こうなる。
「正義とは何かよりも、悪とは何かを考えよ。悪は、正義によって免罪されることはない。どんなに善をなしても、その善によって悪が取り消されることはない。悪をなしたなら、その責任から免れようとするな。その悪を直視せよ」
では、なぜ、そのように言えるのか? 現実の現象は、いずれも善と悪とを含むからだ。たいていは、善が多くて、悪が少ない、と見える。そこで人々は、「悪が少しはあっても、全体として善ならば、それは善なのだ」と考えやすい。そのことで、悪を見失いやすい。悪に対して盲目になりやすい。
それではいけないのだ。善をなすことで、悪を隠蔽してはいけないのだ。悪は善によって免罪されるものではないからだ。(1人を救ったからといって、他の1人を殺す権利は生じないからだ。)
「正義とは何か?」
という質問をなすとき、本当に大切なのは、
「悪とは何か?」
という問題だ。そして、これに対しては、
「悪は、善によって打ち消されることはない」
という点が、最も重要なのだ。
ここまで理解すれば、列車の運転士についても、デブを突き落とそうとする傍観者についても、ポイントがどこにあるかを理解できるだろう。そこにおいて大切なのは、「正義とは何か?」ではなく、「悪とは何か?」なのである。
【 参考 】 戦争と正義
戦争と正義とは、関係が深い。
戦争というものは、一般に、「正義のための戦争」という形を取る。「悪のための戦争」なんて例は、ほとんどない。戦争をするものは、「自分は正義だ」と思うものだ。(さもなくば、戦うことをやめて、あっさり敗北するので、戦争にもならない。)
戦争は、「二つの正義のぶつかり合い」という形を取る。イラク戦争の場合もそうだ。米国の大義と、イラクの大義とが、ぶつかりあった。こういうふうに、正義のぶつかり合いという形で、戦争は起こる。
「『正義のために死のう』という意思を、人々がもつ限り、戦争は地上から永遠に消えないだろう」
と語った人がいる。なるほど。その通りだろう。
だが、これに対しても、先の結論は当てはまる。
人々は、「自らは正義だ」と自惚れなければいいのだ。「自らは、正義をなすが、同時に、悪もなす」というふうに認識すればいいのだ。そうすれば、世界は平和に一歩近づく。
たとえば、こういう例がある。
「米国が広島に原爆を落としたのは、正しいことだ。それによって平和が訪れたのだから」
ここでは、「平和が訪れた」というプラスと、「広島に原爆を落とした」というマイナスとを比較して、前者のプラスが後者のマイナスよりも大きいから、差し引きして善だ、という発想がなされている。
しかし、本項の発想をするなら、次のようになる。
「たとえ平和がもたらされたというプラスがあるとしても、広島に原爆を落としたというマイナスは免罪されない。悪は悪として認識するべきだ」
米国人がその悪をきちんと悪として認識できるようになれば、世界は少し平和に近づく。逆に、「大きな正義があるなら、小さな悪をなしても、差し支えない」と思うようであれば、「また正義のために原爆を落としてやれ」と思って、世界は戦争に近づく。
このような例にうまく当てはまることからしても、本項の結論は妥当であるとわかるだろう。
結局、倫理の問題の核心は、「正義とは何か」ではなく、「悪とは何か」なのである。そして、大切なのは、「悪を見失わないこと」「悪に算術を施さないこと」なのである。そうして事実を直視することで、いっそう真実に近づく。
【 関連項目 】
→ 悪とは何か? : nando ブログ
※ 本項の続編。(次項)
・ 正義とは何かは、みんなで相談して考えよう。
・ 自由についても、みんなで相談して調整しよう。
というようなもの。あくまで共同体主義。
共同体主義とは何かについては、前項で示したとおり。
また、判断を社会に委ねることの限界については、本項後半の (9) で示したとおり。つまり、サンデルの回答は、正解になっていない。
>まずは、サンデルの示した、練習問題みたいな例を示そう。
とあるが、「同じ場面で、傍観者がいる」というのが腑に落ちなかったので、[書評]これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学(マイケル・サンデル)http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/05/post-9b19.html を読むとこうあった。
「例えば、あなたは時速100kmのスピードで路面電車の運転しているとする。その走行中に、ブレーキ故障に気が付く。直進すると前方の工事作業員5人をひき殺すことになるが、横の待避線入れば1人の作業員を巻き添えにするだけで済む。どうすべきか? やむを得ないのであれば1人の方へハンドルを切るという答えもあるだろう。では、第2問。前方5人は変わらずだが待避線はない。あなたは運転手ではなく線路を見下ろす橋にいる。そしてデブ男の後ろいる。デブ男を待避線上に突き落とせば、デブ男1人の死体で電車は止まり、5人が救える。どうすべきか?」
つまり「同じ場面で、傍観者がいる」ではなくて、「同じ場面で、あなたは傍観者である」ということだ。この本もテレビ番組も見ていないが、おそらく管理人さんの表現は誤りであろう。
ここで管理人さんの表現が誤りであるという仮定で、練習問題みたいな例を書き直す。
(i) 列車を使っての殺人
あなたは列車の運転手である。ブレーキが利かないと判明したとき、あなたは次のどちらを選ぶだろうか?
・ 直進して、前方の5人を轢き殺す
・ 待避線に逸れて、待避線の1人を轢き殺す
すると、「後者の方を選ぶ」と考える人が多い。
(ii) 手を使っての殺人
(待避線が存在しないこと以外は)同じ場面で、あなたは橋の上に立つ傍観者である。あなたは、隣に立っているデブを突き落とすことで、5人の命を救うことができる。あなたは次のどちらを選ぶだろうか?
・ 何もしないで、5人を死なせる
・ デブを突き落として、デブを死なせて、5人を救う
すると、「後者の方を選ばない」と考える人が多い。
さらに三つめの練習問題を示す。
(iii) 傍観者が行った手を使っての殺人に対する非難
(待避線が存在しないこと以外は)同じ場面で、橋の上に立つ傍観者がいた。この傍観者が隣に立っているデブを突き落とすことで、5人の命を救った。あなたは次のどちらを選ぶだろうか?
・ 傍観者を非難する。
・ 傍観者を非難しない。
すると、「後者の方を選ぶ」と考える人が多い、はずだ。少なくとも、この割合は(i)と(ii)の間になるはずだ。
要するに「自ら人殺しをしたくない」というだけの話だ。(i)で後者を選ぶ人が多いのは、単に列車を運転していれば、人を殺しても生々しさが薄れるからということに過ぎない(しかも人殺しの数が減る)。
(i)を変形させればそれがよくわかる。
(i') ナイフを使っての殺人
隣の人をナイフで刺し殺せば、残りの5人は命が助かる。何もしなければ、隣の人は命が助かるが、残りの5人は殺される。あなたは次のどちらを選ぶだろうか?
・ 何もしないで、残りの5人を死なせる
・ 隣の人をナイフで刺し殺す
すると、「後者の方を選ぶ」と考える人は、(i)よりも減るはずだ。
(i')と(i)はほぼ同じである。違いは、列車で殺すかナイフで殺すかだけだ。
別の条件を加えて(i)を変形させる。
(i'') 列車を使っての殺人
あなたは列車の運転手である。ブレーキが利かないと判明したとき、あなたは次のどちらを選ぶだろうか?
・ 直進して、前方の5人を轢き殺す。ただし、この5人はあなたがこの世で最も憎む人たちである
・ 待避線に逸れて、待避線の1人を轢き殺す
すると、「後者の方を選ぶ」と考える人は、(i)よりも大幅に減り、ほとんどいなくなるだろう。
別の条件を加えてで(i)を変形させる。
(i''') 列車を使っての殺人
あなたは列車の運転手である。ブレーキが利かないと判明したとき、あなたは次のどちらを選ぶだろうか?
・ 直進して、前方の5人を轢き殺す
・ 待避線に逸れて、待避線の1人を轢き殺す。ただし、この1人とはあなたがこの世で最も愛する人である
すると、「後者の方を選ぶ」と考える人は、(i)よりも大幅に減り、ほとんどいなくなるだろう。
別の練習問題の例を挙げる。あなたはごみ焼却施設をどこに建設するかを決定する権限をもっているとする。
(A) A地区には5人住んでいて、B地区には1人住んでいる
あなたは次のどちらを選ぶだろうか。
・ A地区にごみ焼却施設を建設する
・ B地区にごみ焼却施設を建設する
すると、「後者の方を選ぶ」と考える人が多い、だろう。
(A') A地区には5人住んでいて、B地区には1人住んでいる、ただしB地区の1人とはあなたである
あなたは次のどちらを選ぶだろうか。
・ A地区にごみ焼却施設を建設する
・ B地区にごみ焼却施設を建設する
すると、「後者の方を選ぶ」と考える人は、(A)よりも減るはずだ。
最後に感想を書く。
簡単なことをわざわざ難しくしたがる人や団体は警戒したほうがいい。こんなものは正義の話でも何でもない。単なる著者の金儲けのための話に過ぎない(大学で給料をもらったり、本を売ったり)。政府にも同じことがいえるが、ここでは省く。
逆に難しいことを簡単に説明することは、正義である。そして管理人さんの書く内容には正義が多いということも書いておこう。
「あなたが運転手であったら」
「あなたが傍観者であったら」
という語り口もありますが、別に、矛盾はしていません。私の方は字数を大幅に短くしているだけです。食い違っているわけではありません。
また、著作についてなら、実際に著作を読んでから批評した方がいいでしょう。
凡百の下らない書籍に比べたら、ずっといいですよ。何かを教えてもらうことはなくとも、じっくり考える機会を与えてもらえます。
私としては、この本と巡り会えて、良かったと思います。いろいろと考えることができたので。本項の前後のシリーズも書けたし。
ネットには無料の動画もあるので、お金のない人はそちらを見るといいでしょう。時間のない人は、本を買えばいい。本があることはそれなりに有益です。
あと、お褒めの言葉には、お礼申し上げます。
正義は勝つって?そりゃそうだろう!勝者だけが正義だ!!!!!!
少し長くなってしまいましたね。ですが、僕のこのちょっとした話で、少しでも心を揺さぶられたなら、光栄です。では、さようなら。