ローマ人の物語 (1) ― ローマは一日にして成らず(上) (新潮文庫)
なぜ塩野七生は『ローマ人の物語』を書いたのかを再び問う
なぜ塩野七生は『ローマ人の物語』を書いたのかについては、すでに触れた。塩野自身が語るように「何よりもまず私自身が、ローマ人をわかりたいという想い」が起点だった。だが、さらになぜ「ローマ人をわかりたい」と思ったのかといえば、1960年代の終わりから始めた『ルネサンスの女たち』や1970年『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』などの著作の原点たる地中海世界の根源が知りたいと願ったことがあるだろう。それはなぜだったのか。塩野七生の作家としての原点をもう一度振り返ってみたい。
塩野七生は1937年に生まれた。「七生」の名の由来は誕生日が7月7日であることらしい。東京都立日比谷高等学校(同級生に庄司薫や古井由吉がいる)を経て、学習院大学文学部哲学科を卒業。25歳からだろう、1963年から1968年に5年ほどイタリア遊学し、1968年に執筆活動を開始した。1970年に『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』で毎日出版文化賞を受賞し、これを機会にイタリアへ移住し、執筆の拠点をイタリアにする。現地でイタリア人医師と結婚(後に離婚)、1973年にはフィレンツェで息子アントニオ・シモーネを産んでいる。
作家としての地位は、1980年から81年にかけて出版された『海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年』ごろには確固たるものになっていた。その頃、すでに人気のある著作家でもあった山本七平と「地中海世界の歴史」を語るという対談の企画が上がった。すでに山本と面識があり私的に対話もしていたのだが、塩野のほうが断った。その理由が面白い。『Voice山本七平追悼記念号』(PHP 1992)より。
私はそれを、次のように言って断った。
「とてもじゃないけど、今の私は山本七平のテキではありません。学識でかなわない」
そうしたら、編集者はこう言った。
「じゃあ、いつになったらテキになれますかね」
「ルネサンスを全部終わって、その後でローマ史に入って、そのローマ史も終わりに近い頃まで書いた後なら、はじめてテキになれるかもしれません」
「それはいつ頃ですか」
「今から二十年後」
私たちは「日本人の物語」を描き、向き合っているか?
1982年頃の追憶とすれば、その20年後は、2002年である。その年、塩野七生はきちんと「そのローマ史も終わりに近い頃」の著述を終えていた。『ローマ人の物語』を書き出す以前の若いころから、生涯の著作の計画をもっていたかのようだが、もっと単純に、彼女の脳裏には、「テキではありません」とする山本七平への思いがあっただろう。『ローマ人の物語』の『危機と克服』の第四章「帝国の周辺」では、山本七平への追悼に読める記述がある。ユダヤ地域の反乱の歴史はユダヤ人でありながら、ローマに仕えたヨセフスによる『ユダヤ戦記』に拠っている。
『ユダヤ戦記』は、このような人物が書いた。同胞の破滅の物語である。熱い想いと冷徹な観察眼の統合がもたらした、史書の傑作である。日本でも、格好の訳書が出版されている。出版元は山本書店で、訳文から小見出し、地図、図版に至るまで、編集者の山本七平氏の目配りを感じさせる見事な翻訳書だ。山本書店からは、この『ユダヤ戦記』の他に、『ユダヤ古代誌』『自伝』『アピオーンへの反論』と、ヨセフスの著作の全集も刊行されている。亡き山本七平氏には、現代のイスラエル人が理性的には重要性は認めていても心情的には嫌い抜いているこのヨセフスへの関心が、よほど強かったのではないかと想像する。
塩野七生はここで文学的な筆致で山本七平を上手に描きだしている。山本七平もまた、「同胞の破滅の物語」を「熱い想いと冷徹な観察眼の統合」で描き出した人であった。そしてそれゆえに一部の日本人からは「理性的には重要性は認めていても心情的には嫌い抜」かれることにもなった。山本七平は、フラビウス・ヨセフスという逆説的な人を通して、歴史の前に立ち、その逆説的な精神を『ローマ人の物語』を執筆する以前の塩野七生に伝えていた。
私たち1人ひとりの人生は、小さな時期で見れば安閑であったり、悲劇であったりもする。しかし、それはいずれ大きな歴史のなかに織り込まれる。私たちが日本人であるというなら、私たちは『日本人の物語』を描きつつあるのだろうか。だとしてもそこには、塩野七生が『ローマ人の物語』で描いたように、おそらく正義も悪もない。ただ、結果として見れば物語がある。その物語にどう向き合うのか。
人の精神はただ歴史が人を飲み込んでいく姿を呆然と見ているだけではない。人は歴史を見つめようと起立する精神を持つことができる。歴史を人の物語として学ぶことによってである。『ローマ人の物語』では、私にはそれは、若き日の山本七平の戦地の気づきから、地中海を見つめた若き日の塩野七生につながっていたように思える。歴史に向き合う意識をつなぎ止めていこうとする意志は、歴史を物語の形に変える。