「今度、ここにパピーが来るんやで~」
ある日の朝。
昨日と何ら変わりのない博多温泉劇場の食堂で、朝食の卵焼きをつまみながら僕に話しかけてきた秋恵姉さんは、相変わらず昨日よりもご機嫌な様子だった。
「パピーって、誰ですか?」
入れたばかりのインスタントコーヒーで、昨日よりも増した睡魔をゆっくりと鎮火させながら、姉さんと同じ目線で聞き返す。
食事中、僕たち福岡芸人が配膳係として周囲に突っ立ている姿を目にした姉さんが、すぐに「私がいる時は座って話し相手になること」というローカルルールを制定してくれたおかげで、僕は姉さんの正面に座ることができていた。
「なんや、大はパピー知らんの?」
「はい、たぶん」
「コンバットとかター坊ケン坊は知ってるやろ?」
「わからないですけど、聞いたことないですね」
「あれ? 福岡事務所に顔出してへんのかなあ?」
「さあ……」
僕たちよりも先に博多温泉劇場の舞台を踏んでいた3人なら知っているかもしれないが、それよりもパピー問題を解決する方が先だろう。
パピーとは一体誰なのか、そこがハッキリしない限りは相槌も打ちづらい。
「おはようございます~」
「おはよう~!」
「おはようございます!!」
そこに、牛柄のパジャマを着た美樹姉さんが現れた。
それは全身を覆うタイプの、ヨチヨチ歩きの乳幼児に親が喜んで着せるようなコスプレ風の寝間着で、これは昨夜開かれた、美樹姉さん主催のパジャマパーティーの名残だ。
言い忘れたが、目の前の秋恵姉さんも黄色いヒヨコの格好をしたままだった。
「なあ美樹、今度パピーがここに来るんやで」
「ええっ!! ホンマですか?」
美樹姉さんの朝食を準備している僕の背後で、ふたりの会話が始まった。
今のリアクションを聞く限り、これはなかなかの大ニュースに違いない。
「元気にされてるんですか?」
「電話の声は元気そうやったで」
「私、久しぶりですわ」
「ウチもやで!」
「でも、何しに来はるんですか?」
「それは……アレちゃうの……?」
「あ、そうか……」
そこから急にふたりとも小声になったので、聞いてはいけない案件だと察知した僕は、さりげなく蛇口を大きく捻った。
水流というノイズの向こうから漏れてくる空気感に耳をそばだて、いま洗う必要のない食器を水に潜らせながら、美樹姉さんの朝食を配膳するタイミングを見計らう。
これぐらいの気配りは物心がついた頃から四六時中、親父の顔色を伺わなければならない食卓に座ってきた僕にとって、造作もないことだった。
家族に気を遣わせる親父のことは好きになれなかったし、人の顔色を伺うなんて特技を身につけてしまったことを虚しく思ったこともある。
しかし、この特技があったからこそ、僕は芸人として生き残れた。
気が滅入ることの方が多かった家に生まれ育ったからこそ、僕は今でも憧れの芸人を続けていられるのだろう。
このことに気がついたのは随分と先だったし、ようやく好きになりかけた頃、親父はこの世を去ってしまった。
こんな簡単なこともわかっていなかった僕が、パピーを知っているわけがない。
「大はパピーのこと、知らんのよな?」
「はい、知りません」
秋恵姉さんに返事をするのと同時に、僕は美樹姉さんの朝食を配膳し終えた。
今日も僕の特殊能力は絶好調のようだ。
「なあ美樹、パピーってこの劇場に来てるやろ? だってここ、進兄さんのアレちゃうの?」
「そうですけど、来てはないと思いますよ」
「嘘やん!」
ということは、博多淡海さん関連の人なのか。
「進兄さんの時、私らずっといましたけど会ってないですもん」
「そうなんや。顔ぐらい出してるかと思った」
「福岡の子は誰も知らんのとちゃいますか?」
「で、パピーって誰なんですか?」
ようやく会話に合流できた僕に向かって、秋恵姉さんは思いっきり口角を上げながら答えた。
「そりゃあ、男前やで。なあ、美樹」
「姉さん、私に何言わせますのん?」
「だって男前やんか」
「そ、そうですね。男前というか、ダンディーかな」
「そう! ダンディーやねんな」
意味深な笑みを浮かべながら会話を連ねるふたりの口から、正解を聞き出すのは時間がかかりそうだ。
まだ全ての雑用が終わっていなかった僕に、この迂回路を通っている時間はない。
どこかに抜け道はないものか。
「パピーって、芸名ですか?」
「芸名ちゃうよ。パピーは……何でパピーになったんやったっけ?」
「秋恵姉さんがパパって呼んでたからですやん」
「そうや! パパがパピーになったんや」
「なんですのん、パピーって」
「ホンマやね!」
何がそんなに面白いのか、朝から腹を抱えて爆笑しているふたりを見ていると、昨夜のパジャマパーティーが否応なしにも思い出される。
おふたりがコスプレをしただけで、結局、いつもの部屋飲みと何も変わらなかったパジャマパーティー。
「大にも、ちゃんと紹介するからな」
「めっちゃ、ええ人やで。」
いつの間にかパピー問題の先送りが決まっていたことを悟った僕は、それ以上の追求を止めた。
パパということは、おそらく姉さんたちの後援者というかスポンサーというか、芸人に食事を振る舞い、帰り際にタクシー代と称してお小遣いをくれるような、いわゆる「タニマチ」と呼ばれる人のことだろう。
なんとなく岡田真澄さんのような洋風の、裕福そうで優しそうな老紳士が頭に浮かび、そんなパピーと姉さんたちのパジャマパーティーを想像しては、この世界も大変だなあ、姉さんたちも必死なんだなあと、僕は勝手に心配した。
数日後の昼下がり。
僕は食堂のイスに座ってぼんやりと外を眺めていた。
端から見れば休憩しているようにしか見えないだろうが、これも僕に任された仕事のひとつだ。
視線の先は、劇場の裏口に設けられた数台の駐車場スペース。僕はこの時、駐車場の受付係として食堂にいたのである。
一日一回、五百円。
そんな一律料金を徴収するために僕は配置されていたのだが、さすがに現金を扱う仕事なので普段は劇場側の誰かが担当していた。
しかし、みんな忙しくて駐車場にまで手が回らないという時に限っては、いつの間にか僕が駐車場係をやることになっていた。
とはいっても、裏口の駐車場は関係者専用みたいなものだったから、そこまでの出入りはない。
ただ心苦しかったのは、先輩方を訪ねてやって来る知り合いや、仕事関係の車からもキッチリと料金を徴収しなければならなかったことだ。
劇場側からすれば請求して当然の駐車料金、たかが五百円かもしれないが、されど五百円である。
請求された方の大半は一様に「吉本だから仕方ないか」という苦笑いを浮かべて払ってくれたが、このシステムは芸人さんから相当の反感を買っていた。
というのも、普段から博多温泉劇場は招待券を極端に出し渋っていたのである。
さすがに今は様変わりしているが、昔は劇場や営業先の公演に出演者の知り合いは無料で入れるというのが当たり前だった。
しかし、博多温泉劇場では座長さんや看板さんの頼みならともかく、たとえば秋恵姉さんや美樹姉さんが、知り合いが来るから入れてあげてと頼んでも、正規料金で入場券を買わされていたのである。
芳しくない客席を知っているからこそ、招待券に関しては表だって文句を言わなかったが、駐車場代に関してはみんな怒りを露わにしていた。
たった五百円かもしれないが、わざわざ訪ねて来てくれた知り合いに払わせるのは申し訳なかったのだろうし、それ以上に、招待券は用意できない、たった五百円の駐車料金も無料にできないとなると、芸人としての面子が丸潰れだ。
もちろん、不振にあえぐ劇場側からすれば当然の措置なのだろうが、出演者の知り合いもそう毎日、何十人も来るわけではない。
数日に一度、多くても四、五人程度だったから、入場料と駐車場代を足しても一万円ちょっとの売り上げだろう。
経営者としては確保すべき金額かもしれないが、これで芸人さんの博多温泉劇場に対するモチベーションが著しく下がっていることの方が、僕にとっては大問題に思えた。
「さすがの吉本も身内からは金取らんで!」
劇場側の誰かが出演者の知り合いに駐車料金を請求しているところを見かけると、そう声を荒げる芸人さんもいた。だから、僕だったのだろう。
忙しいなんていうのは建前で、劇場側も気まずかったから、それでも駐車場代は徴収せねばならなかったから、僕が選ばれたのだ。
払わせるなという芸人さんと、なんとしてももらってこいという劇場側の板挟み。
それを解消できると見込まれての抜擢だと自分を奮起させてはいたが、それでもやっぱり、下っ端の僕には荷が重い。
数ある雑用の中でも駐車場係は憂鬱で仕方なく、外を眺めながら誰も来ないでくれと願うしか、その攻略法は見あたらなかった。
そんな思いも虚しく、今日は一台の車が入ってきた。
見慣れない佐世保ナンバーのセダンだが、これは誰の関係者だろう?
「パピー!」
バック駐車を見守っている僕の視界に、裏口から出てきた秋恵姉さんが飛び込んできた。
姉さんの後ろには美樹姉さん、浜根兄さんも続いている。
どうやら、この前言っていたパピーという人が来たらしい。
しかし芸人からこれだけの人気を誇っているのだから、パピーはよっぽどのタニマチなのかもしれない。
それだったら、駐車料金もポンと払ってくれるだろう。
「元気にしてたん?」
ドアが開き、秋恵姉さんの問いかけとほぼ同時に車を降りたパピー。
しかし、パピーの姿は僕の想像と全く違った。
岡田真澄さんの要素など微塵もない。遠目から見ているけれど、それだけは断言できる。
なぜならば、中肉中背のパピーは、サイドに毛はあるものの、頭頂部はスキンヘッドという、サザエさんの波平さんと全く同じ頭をしていたのである。
人を見た目で判断してはいけないが、パピーから駐車料金を徴収するのは気が引けるなあと、僕はそれだけを心配しながら、嬌声が上がる駐車場を眺めていた。
この人が、やがて僕の師匠になるなんて。
駐車場係と客という立場で、僕と寿一実さんは出会った。