大隈崇
2016年9月6日14時28分
■畠山裕子さん「核と人類は共存できない」
――多くの死を見続け、自らの死におびえながら生きる私たち被爆者は、この70年の経験から「核と人類は共存できない」ことを実感、世界に恒久平和と核廃絶を訴え続けてきました――
平和活動を半世紀続けてきた広島市安佐南区の畠山裕子さん(77)は、「私の孫へ」と宛てたメッセージにそう書いた。安全保障関連法が成立し、集団的自衛権の行使を政権が容認する中、こうも書いた。
――戦前と言わざるをえない状況にきていると私は思います――
1945年8月6日午前8時15分。爆心地から約3・5キロの長束国民学校(現・安佐南区)の教室の一番前の机で友達とおはじきをしていた。ものすごい音がし、気づくと割れたガラスで足にけがをしていた。
北へ逃げていく人たちにトマトを渡したことを覚えている。だが、見たはずの、やけどを負いながら歩いていた人たちの記憶はない。「恐怖の記憶を消して生きてきたのだと思います」
被爆した叔母らが亡くなり、翌年1月には弟が4歳で亡くなった。畠山さん自身も、生死をさまよったと後に聞いた。
学生時代から反核運動に参加した。「思想があったわけでなく原爆への怒りだけがあった」。広島市医師会の事務局員として、娘を育てながら会報の編集を担当。8月には「原爆特集」を掲載した。核実験に反対する座り込みにも毎回参加した。「一人ひとりができることをやらねばいけん」との思いで修学旅行生らへの被爆証言を続ける。
山口県で暮らす孫2人が小学校…
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