戦地での体験や戦火に巻かれた記憶を記録や聞き取りで「伝承」しよう――。戦後71年の夏、戦争を知る世代が少なくなる中、市民による戦争の体験集「孫たちへの証言」に新たに部門が設けられた。戦死した父の日記や手紙をたどり、家族への愛とその無念を知った男性の体験を紹介する。

 東京都品川区の竹山醇(じゅん)さん(83)。父の健(けん)さんが戦地で3年余りつづった日記や手紙が残されていた。

 父は非鉄金属会社勤めだった1939年、33歳で予備役として召集された。大阪から東京に転勤して半年。中国南部の前線部隊で食糧調達や経理を担う主計将校となった。

 小学1年だった竹山さんが覚えている父は真面目できちょうめん。よく手紙をよこした。肺炎や気管支炎を度々患った竹山さんを田舎に移すか迷う母の清子(きよこ)さんに、「気の弱い醇のことですから学校を厭(いと)う様になる」と転校でなく休学を提案。「一年遅れても構わないから裕々と身体第一に」と繰り返した。

 母への告白もあった。召集令状が届いた日は、ちょっとした夫婦のいさかいがあり、健さんが家を留守にしたときだったらしい。「一生涯わすれ得ないでせう。馬鹿な喧嘩(けんか)は清とは一生やるまいと決心しています」

 支えは家族だった。

 戦闘が終わって豚小屋にわらを敷いて寝込むときも、雨のなか水たまりに体を横たえたときも、「唯一の慰めは過去の家庭生活を考え、帰還後再び清との生活に戻り得ることを想像する事」と書いた。

 拡大した戦線が国の財政を圧迫し、戦況は膠着(こうちゃく)状態。父は複数の新聞や雑誌を取り寄せて読み、冷静に日記につづった。「永くなればなるほど日本に不利な様な気がしてならぬ」(40年1月28日)

 軍の場当たり的な作戦に憤りも記した。

 「数日前占領した時は殆(ほとん)ど無血であったのに之(これ)を惜しげも無く捨て再度占領時には四十名以上の死傷を出す。何と云(い)うことだ。義憤を感ぜずには居(お)れない」(40年5月30日)

 「一万余の兵を動かして中支の数十万の兵の牽制(けんせい)が出来ると思う師団参謀辺の常識を疑う」「吾々(われわれ)の社会から見た軍の行動は不可解の連続である」(40年6月11日)

 日本は米英と開戦。度重なるマ…

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