特攻準備の証拠、大津空に未配備の爆弾 米で記録写真発見
太平洋戦争中、大津市にあった大津海軍航空隊(通称・大津空)の内部を記録した写真がこのほど、米公文書館で発見された。終戦後にGHQが撮影したとみられ、隊に本来配備されていない実弾が写っている。研究者は「終戦間際、本土決戦に備えて特攻準備が進められていたことを伝える貴重な資料」としている。
大津空は1942年、飛行機の訓練隊として同市際川の琵琶湖畔に開隊、水上練習機などが配備された。戦後GHQに接収され58年に返還、現在は陸上自衛隊大津駐屯地となっている。
戦争遺跡を研究している福林徹さん(68)=亀岡市=が5月、米公文書館で見つけた。うち未公開とみられる写真は2枚で、1枚には九四式水上偵察機の前に多くの実弾とみられる爆弾が写る。米軍が45年10月16~17日に撮影したと裏書きされている。
「本土決戦と滋賀」の著作がある元高校教諭の水谷考信さん(60)によると、GHQに兵器を引き渡す際に日本軍が作成した譲渡目録の記述と写真の飛行機の種類が一致するという。
大津空は45年春、実戦部隊に変わっている。大津空に配備されていないはずの水上偵察機、瑞雲(ずいうん)の機体がある写真も既に見つかっており、「この時期から、沖縄戦や本土決戦に備えて日本本土で特攻隊が編成された。大津空にも出撃に向け兵器が集められていた事実が裏付けられた」と話す。
故城山三郎さんの小説「一歩の距離」は、大津空と、隣接する滋賀海軍航空隊の訓練生が特攻志願する葛藤を描いており、滋賀空の訓練生が「うちに飛行機は全くないのに、大津空にはある」とうらやむ場面が登場する。だが、写真によると、実際は性能が悪い練習機や空中戦には向かない水上機が大半だったようだ。
終戦前に、大津空の教官をしていた福島章さん(89)=大津市=は「45年2月に特攻隊の募集があり、志願したが断られ悔しい思いをした。『特攻隊は練習機に乗り爆弾を抱えて落ちる訓練をしている』と聞かされていた」と振り返る。
大津市歴史博物館の樋爪修館長は「大津空に関する資料は非常に少なく、全容を知る上で貴重だ」としている。
【 2016年08月27日 16時30分 】