前回の記事では、新海誠監督の新作『君の名は。』の感想を書いた。今回の記事では、感想というレベルからもう一歩踏み込むことで、『君の名は。』を観た私たちはこの感動を抱えて、いったいどこへ向かえば良いのか?ということを考えていきたい。今回もネタバレをガンガン入れていくので、要注意。小説版のネタバレも含むぞ。
前回記事はこちら:
映画『君の名は。』に奪われた心を、取り戻しに行く - toricago
<今回の目次>
- 何に感動したのか忘れてしまう
- 2度目の鑑賞に感じる、人間の記憶装置に対する絶望感
- 人間は大事なことをさらっと忘れてしまう
- 些細なことにヒントが隠れている
- 微かに聞こえる心の声に従う
- 『君の名は。』の心震える瞬間を、もう一度だけ
何に感動したのか忘れてしまう
考えないといけないことは色々とある。まず、こんなに映画に感動したことがなかったので、どのように受け止めて良いのかわからない。感動したことは、エンターテインメントと割り切って、そのまま放置して良いのだろうか?映画通や深海信者の人はいったいどうしているのだろうか?
そうやって悶々としていたら、だんだん困った状況になってしまったのだ。何かというと、「そもそも何に感動していたんだっけ?」という恐ろしい疑問符が頭の中で浮かんできてしまったのである。あれれ、映画を鑑賞した直後の信じられないほどの熱量は何だったのか?そのときは、確かに、「コレとコレとコレに感動して、コレとコレとコレが良くて、コレとコレとコレに共感して、コレとコレとコレの視点に刺激を受けて…」と鮮明に語ることが出来たはずだ。もちろん今でも、「あの表情やあの背景描写やあの音楽やあの青春あふれるシーンや…」と表面的に語ることは出来るが、中身がどんどん抜け落ちている感じだ。映画のシーンで例えると、瀧が日記アプリを開いたら、どんどん過去記録が抜け落ちていくところに近い。そんな気持ちになる。
2度目の鑑賞に感じる、人間の記憶装置に対する絶望感
ということで仕方がないので、もう一回観に行ったのだ。しかし、部分的に、1度目の鑑賞時に考えていたことを再現することは出来ても、核心には迫れないような気がしている。結局、熱狂的な熱量が体内に生まれたことだけは覚えているが、それはなんだったのか思い出せない。その正体はいったい何?そんなことを考えながらの2度目の鑑賞は、1度目にグッときたセリフが、今度は自分を絶望させるのだ。
例えば、瀧が「3年前のテレビの記憶が残っていて景色を知っていただけか?それともすべてを妄想しているだけか?」と悩むシーンや、小野寺先輩に「なんて言うか、ぜんぜん見当違いのことをしてるような気がしてきて」「俺、なんかおかしなことばかり言ってて…。今日一日、すみません」と謝るシーン。なんだか私も、「あれ、俺は何を求めて2回も映画を見に来てるんだろう?」という気持ちになった。
さらに、「彼は誰時」以降の感動シーン。
- 「目覚めても忘れないように名前を書いておこう」
- 「君の名前は三葉」
- 「…大丈夫、覚えてる!」
- 「三葉、三葉…。三葉、みつは、みつは。名前はみつは!」
- 「君の名前は…!」
- 「………!」
- 「…お前は、誰だ?」
- 「…俺は、どうしてここに来た?」
- 「あいつに……あいつに逢うために来た!助けるために来た!生きていて欲しかった!」
- 「誰だ?誰だ、誰だ、誰だ………?」
- 「大事な人、忘れちゃダメな人。忘れたくなかった人!」
2度目の鑑賞時は、実際に自分もあんなに熱量を感じていたことの記憶が不鮮明になってしまっていたところだったので、観ていて胸が苦しくなった。
人間は大事なことをさらっと忘れてしまう
夢の内容が強烈であれば、起きた瞬間は鮮明に振り返ることが出来る。でも朝ご飯を食べる頃には、ほとんどが消え失せている。この映画を観て思うのは、夢に限らず、人生において重要なことでも、人間はさらっと忘れてしまうと言うことだ。
- 一昨日の昼食って何を食べたんだっけ?1週間前なんて何も覚えていない。
- 一ヶ月前に読み終えた本の内容を説明しろと言われたら、どれだけ説明できるだろうか?
- 「今朝、読んだ日経新聞にどういう記事が書いてあったか」と聞かれたら?100以上のタイトルから、いくつのヘッドラインを思い出すことが出来るだろうか?
- さっき単語カードで覚えたことなのに、もう忘れてしまった!
- あんなに大きく失敗して、すごく悔しい思いをしたのに、なぜ今はこんなにケロッとしていられるのだろうか?
- 当時はあんなに高い志を持っていたのに、その心はどこに消えてしまったのだろうか?
他にも無限に具体例を挙げていくことが出来る。でも、それを覚えておこう、というのはもしかしたら無理なのかもしれない。映画では三葉が、名前を忘れないように「瀧くん!瀧くん!」と叫びながら山を下っていく。そこまでしても名前をすぐに忘れる。これは暴力的なほど寂しい気持ちにさせられる。
でも、救いがある。映画の中で出てくる「確かなことが、ひとつだけある。私たちは、合えばぜったい、すぐに分かる。私に入っていたのは、君なんだって。君に入っていたのは、私なんだって。」というセリフだ。映画のラストでは実際にその通りになったのだ。これからわかることは、例え重要なことを忘れたとしても、それに出会えば「コレだ!」ということがわかると言うことである。もしかしたらココに集中することが突破口になるのかもしれない。
ただ、そのような瞬間は、もがいて求めて苦しんで、やっと訪れる瞬間なのかもしれない。例えば映画では瀧くんが、彗星や破壊された町の資料を読み尽くしている。理由はわからないが、どこか強烈に心引かれる。大学生になっても、時々思い出す。就職してからも、頭の片隅に「俺は何かを探さなければならない」という違和感をずっと持っている。恐らく、モヤモヤが解消されない苦しい年月だったに違いない。
あるとき並行に走る電車の窓を通して三葉と対面する。いったいその人が誰なのかは分からないが、「!!!」と、瞬時にビビッと来るわけである。そこからの瞬発力は凄まじく、きっと会社に行く途中だったのだろうけど、そんなことはお構いなしに、次の駅で下車して猛烈に走って走って再会する。
ということで、これらのシーンから考えたことを2つにまとめると、人間は大事なことでも悲しいほど簡単に忘れる。「あんなに熱い思いを持っていたのに!」と思っても、それは簡単に蒸発する。
二つ目は、その喪失した記憶の輪郭だけを頼りに、周囲の環境や状況に極めて注意深くあり続け、もし何らかのタイミングが来たら自分の命をかけて爆走することではないだろうか。
些細なことにヒントが隠れている
それでは、周囲の環境や状況に極めて注意深くあり続けるためにはどうすれば良いのか?映画から私が感じたことは、「些細なこと」にヒントがある、ということだ。もしくは「些細なこと」がきっかけとなり、大変重要なことに気付くということ。映画の例で言えば、景観・景色が、胸が締め付けられるように美しい。それが新海監督の映画の見所でもあるのだが、そういう景観・景色というのは日常に溶け込みすぎて、普段はあまり意識することはない。
ただ、ふとした瞬間に、そういう景色に心が癒やされる瞬間は良くある。Wikipediaによると、新海監督は「思春期の困難な時期に、風景の美しさに自分自身を救われ、励まされてきたので、そういう感覚を映画に込められたら、という気持ちはずっと一貫して持っている」ということだそうだ。さらに、小説版『君の名は。』を引用しよう。瀧くんが大人になってからの記述である。
知らぬ間に身についてしまった癖がある。たとえば、焦ったときに首の後ろ側を触ること。顔を洗う時、鏡に映った自分の目を覗き込むこと。急いでいる朝でも、玄関から出てひととき風景を眺めること。それから手のひらを意味もなく見つめること。
チラチラと見える何か。ふと感じる風の冷たさから見えること。満員電車の息苦しさから見えること。毎日見える、ちょっとしたこと。そういうものが見えるのであれば、それはきっと大事にすべきである。そのことについて、ちゃんと時間を取って考えるべきであるし、行動を取るべきなのかもしれない。
微かに聞こえる心の声に従う
周囲の環境や状況、景観や景色というのは、自分の外部へのベクトルである。その逆のベクトルとして、自分の心の声にも敏感でなければならない。しかも、「腹減ったわ!」とか「眠い!まだまだ寝てたいよ」のような、デカい声ではない。とってもとっても小さく微かな声。そんな最小単位の音を絶対聞き逃すまいと、耳を澄ませるのだ。
例えば、大人になった瀧くんが感じていた「俺は何かをずっと探している気がする」という気持ちは、とっても小さい心の声を、なんとか拾い上げた結果なのではないだろうか?もし自分だったら、「まぁいっか、気のせい気のせい」となってしまうと思う。そういう心の声を聞き逃してしまうようでは、いつまでたっても心震える人生を送れない気がしてきた。
『君の名は。』の心震える瞬間を、もう一度だけ
こうやって良い映画を観て、色々と考えさせられて、でもそれもまた、記憶装置からは消えて行ってしまうのかもしれない。でも、そうやって私たちの心はたくましくなっていく。なぜなら、そういう記憶があったという記憶だけは残る。雰囲気だけは残る。その蓄積が、突破口になっていくのかもしれない。
最後に、小説版『君の名は。』で最も心打たれた記述で今回の記事を締めくくりたい。「彼は誰時」シーンの後に、瀧くんが三葉の名前を忘れてしまったことに気付いたところである。
砂が崩れた後に、しかし一つだけ消えない塊がある。これは寂しさだと、俺は知る。その瞬間に俺には分かる。この先の俺に残るのは、この感情だけなのだと。誰かに無理矢理持たされた荷物のように、寂しさだけを俺は抱えるのだと。
ーーーいいだろう。ふと俺は、強くつよく思う。世界がこれほどまでに醜い場所ならば、俺はこの寂しさだけを携えて、それでも全身全霊で生き続けてみせる。この感情だけでもがき続けてみせる。ばらばらでも、もう二度と逢えなくても、俺はもがくのだ。納得なんて一生絶対にしてやるもんかーーー神様にけんかを売るような気持ちで、俺はひととき、強くつよくそう思う。自分が忘れたという現象そのものも、俺はもうすぐ忘れてしまう。だから、この感情一つだけを足場にして、俺は最後にもう一度だけ、大声で夜空に叫ぶ。
「君の、名前は?」