オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
第2の長編、シリーズの転機か――『幻影の手術室 天久鷹央の事件カルテ』
(前巻の記事)
『天久鷹央』シリーズとしては6巻目になりますが、長編『事件カルテ』としては2冊目です。
『推理カルテ』は毎回3~4本の短編からなり、ナンバリングがされていて4巻まで出ていますが、『事件カルテ』はナンバリングなしの模様(ただし、時系列的には普通に『推理カルテIV 悲恋のシンドローム』の続きです)。また、『推理カルテ』と違ってクライマックスを冒頭に先取りで描くことはないなど、フォーマットも異なります。
話の都合上、毎度毎度よく病院で事件が起きることですが、今回の事件の舞台は鷹央たちの務める天医会総合病院ではなく、清和総合病院という別の病院です。
この病院の、手術直後の手術室で、麻酔医が「透明人間と格闘」しているかのような映像が撮影された上、その直後にメスで喉を切られて死んでいるのを発見されました。
さらに、現場の手術室はその麻酔医と手術を受けた直後の患者しかいなかった密室。そのせいで患者に嫌疑がかけられます。しかもその患者というのが他でもない、鷹央や小鳥遊とも馴染みである天医会総合病院の研修医・鴻ノ池舞(こうのいけ まい)だということで……
今まで何度も難事件を解決し、警察を助けてきた鷹央ですが、今回は被疑者が鷹央の知り合いであり、捜査の公平性を保つためということで警察が鷹央の捜査への関わりを拒否。
調査のため、小鳥遊がレンタルで異動させられるというとんでもない展開も。
例によって病院の人間模様も色々、人格に問題のある医者もいて、そういう事情を上手く利用することになったり……
まあ個人的には、メインの密室殺人に関しては、真相の大枠は比較的読みやすかった印象です。
疾患や薬物に関する医学知識を絡めた謎、という今までのパターンへの慣れもあります。
とは言え、短編だと「真相は病気であり、人為による事件はなかった」というパターンもありましたが、さすがに長編でそれは弱いでしょう。
一体どこまでが人為で、誰が何をしたのか、それがポイントです。
その解明に向けて、全編通してバラ撒かれた伏線が最後に収束する様は、さすがに見事な出来でした。
もっとも、情報が不足している部分もないではありませんでしたが。たとえば――これがヒントであるということ自体、若干のネタバレですが――マグカップに「リスのような生物がプリントされ」(p. 198)ているという箇所、その記述だけだと写真なのか絵なのかも分からないんですよね。
――とまあ、細部で気になるところはあるものの、巧みな構成の医療ミステリとして評価できる作品でした。
人の情が分からず論理で武装し、どんな残酷な真実でも突き付けてきた鷹央が、知り合いの鴻ノ池に嫌疑がかかった今回は「助けたい」という感情で動くのも見所の一つ。
次巻からは統括診療部に新メンバーが加わることになりそうで、今巻はシリーズとしても一つの転機になりうるのでしょうか。今後も楽しみです。
――
本作『天久鷹央』シリーズはコミカライズの1巻も今月発売予定、こちらも楽しみです。
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テーマ : 大学生活 - ジャンル : 学校・教育それぞれの王への道――『魔弾の王と戦姫』13~15巻
何しろ最新15巻のあとがきで、ついに「あと2巻で完結」と明言されました。最新巻の展開を見ているとそれだけで終われるのか、と想うところもありますが、しかし大詰め間近なのは感じられます。
(12巻の記事)
12巻はザクスタンと決着した後、最後のわずか3行ほどで「月光の騎士軍〔主人公ティグルたちの率いるブリューヌ・ジスタート連合軍〕は敗れ、ティグルとエレンは行方不明となった」旨が書かれるという、衝撃の引きとなっていました。
敵はガヌロンの部下、グレアスト侯爵です。
かくして13巻は、捕らわれのエレンを救出するべく単身動くティグルの活躍とグレアスト軍との対決でした。
合戦よりも単身潜入してのゲリラ戦(ただし、ティグルの特技である弓の技を見せる場面は少なめ)ということによる見所も色々あったのですが、やはりポイントは、この巻においてついにティグルとエレンが結ばれたことでしょう。
捕虜や人質としてではなく自らの欲望のためにエレンを捕らえ、嬲りものにした(話としての都合というべきか、陵辱の本番には至っていなかったようですが)グレアストの変態ぶりも、それによってエレンが傷付くという道程が、ティグルと結ばれるために必要だったのでしょう。
――とはいうものの、二人の前には依然として社会的な問題が立ちはだかります。
ティグルはブリューヌの領土アルサスの領主、エレンはジスタートの戦姫として公国ライトメリッツの公主を務める立場で、どちらも相手のところに嫁や婿に行くわけにはいかないからです。
それどころか関係を取りざたされること自体、問題になります。
エレンは「自分が愛妾でもいい」等と言っていますが、愛妾というのは男が囲うもの、公国の公主という立場のある女性をそう扱うのも、無理があるでしょう。
そんな未解決問題を抱えたまま、14巻ではティグルが、侍女のティッタにも想いを告げます。
まあ彼女の方は愛妾で決まりのような扱いで、むしろ社会的問題は少ないのですが……
どちらかを選ぼうにも「選べない」というティグルの言い分は率直ですが、誠実であり、そしておそらく、それほど妙なことでもありますまい。
というのも、「愛される側」から見れば嫉妬と独占欲があるので、愛は自分に全て注がれるものであってほしい。しかし「愛する側」から見れば、「一度に愛することができる相手は一人だけ」と限る理由は、それほど明瞭ではないのです。それはやはり愛される側の願望ではないでしょうか。
とは言えもちろん、嫉妬は現実的な問題です。幸いなことに、エレンとティッタは仲も良く、お互いを受け入れているようですが……
こういう本作の状況は、「ハーレムを実現するには何が必要か」を示唆しています。
(1) 複数の女たちを「娶る」ための男の度量と、社会的ハードルのクリア
(2) 女たちが互いに仲が良く、嫉妬による争いを引き起こすどころか、ハーレムに協力的であること
この条件は、本作に限らずハーレムエンドを実現するような作品では多くの場合満たされていることであり、そして実はきわめて現実的なものです。
(1)の社会的ハードルというのは、一夫多妻が認められている社会でも存在します。
複数の妻を娶ることができるのは、やはり相応の社会的地位や財力etc.のある男に限られるでしょうし、そのような男であればこそ、その妻となる女性には様々な条件が求められます。誰を娶るも自由、とは行かないのです。
嫉妬も問題です。ハーレム内部での女たちの争いが大きな火種になることは少なくありません。
正妻と愛妾の区別も、別に「いずれが愛されているか」ではなく、まずもって社会的な区別――より正確に言えば、子供が生まれた時に後継ぎとして誰を優先するか、という問題なのです。(これは女系相続では起こりえない問題です。女にとって生まれた子が自分の子であることは疑いのない事実で、「どの男の子供か」を問題にする必要はないのですから)
まあこれは本作中でもしばしば言われていることで、貴族の結婚は政略結婚が重視されるから、本当に愛する女性を愛妾にするといった事例もあると、再三説明されていますが。
さらに、ティグルの進むべき道の示唆として、かつて三つの国に仕え、それぞれで爵位を賜った「北海男爵」なる人物の逸話が作中世界にあることが14巻で語られ、15巻ではティグル自身もそれを聞きます。
つまり、ブリューヌ貴族であると同時にジスタート貴族にもなれば、ジスタート貴族が戦姫と結ばれることに問題はない――という。
これが西洋中世封建社会の特徴で、「二君に仕える」のは不可能なことでも悪いことでもないのです。
……まあ問題は、一介の「貴族」で話が収まるのか、目指すべきものはその先にあるのか、でしょうけれど。
実際、15巻でティグルはレギン王女から告白を受けます。
ブリューヌの王になってほしい、という要請と、一人の女性としての告白と、二段階で。
最初はそんなことは頭になかったティグルですが、次第に自分が王になったら何をしたいか、何ができるか、考え始めます。
まあそこでもまずは自領アルサスのこと、それに狩りのことが出てくるのが彼らしさで、まだいささかスケールが小さい感はありますが……彼が最終的に何を見出すのかは楽しみにしておきましょう。
今更のような話ではありますが、作者の川口士氏は筋金入りのハーレム作家です。
それも、「途中過程として主人公が複数の女性にモテる」だけではない、到達点としてのハーレムエンドを目指し、そのために上述のような社会的課題を描く作家です。
しかし、それは言うまでもなく、長い道のりです。
俗に「チート」と呼ばれる、反則的に強い能力を持つ主人公が活躍するタイプの話もありますが、社会的課題を「チート」でクリアするわけにもいきません(したとして、それで面白くなった先例を聞きません)。
男の度量を見せようと思ったら、成長プロセスも不可欠でしょう。
ですが、それだけの長い道のりを踏破するのは、それだけの間、読者と編集部に認められ付き合ってもらわねばできないことです。
実際、氏の作品でそれだけの長い道のりを経て円満完結に至った作品は、一迅社文庫の『千の魔剣と盾の乙女』(全15巻)だけです。
まあ、もっと短い巻数で終わった作品の事情も必ずしも一様ではありますまいが、たとえば『銀煌の騎士勲章』のような作品を見ても、ハーレム形成に向けてまだまだ長い道を行く構えはできていたように思えるのです。
ですから、(いささか気の早いことではありますが)『千の魔剣~』に続いて2作目で、それを上回る巻数で完結する大長編となることが見えてきた本作は、やはり祝福に値するものでしょう。
さて本作のストーリーに戻ると、大陸情勢も激動。13巻でグレアスト侯爵軍と戦っている時には同時に、「赤髭」クレイシュの率いるムオジネル軍15万が南からブリューヌへ進軍を始めていました。
14巻は全編、圧倒的多数を誇るムオジネル軍との合戦になりました。
今までは毎回どこかで魔物や竜との戦いがあり、戦姫の竜技、それに竜具とティグルの弓との合体技も使われる……というのがフォーマットでしたが、この巻ではもはやそれがありません。
今まで「恒例の魅せ場」として必ず入れていたものを外すのは、「それがなくてもこの作品は読ませられる」という信頼がここまでの巻で形成されていればこそ、でしょう。
かつてない大軍の侵攻を前にして、ブリューヌ軍は(ジスタート軍を合わせて)国中からかき集めて計6万。その他に装備や練度の低い民兵が4万という、数的には圧倒的劣勢です。
王都ニースは過酷な籠城戦を強いられます。籠城で兵たちが消耗していく描写はまことに厳しく、集団の合戦の中では今までと比べてもとりわけ厳しい戦いであることが伝わります。
もちろん、ただ王都に籠もって守りに入るのではなく、ティグルとしても逆転の策を練っているのですが、相手のクレイシュも名将と名高い人物。こちらの策が見破られていることも早い内に示唆され、いっそうの緊張感を煽ります。
最後はもう裏の掻きあいではなく、ティグルが矢の射程内に接近できるか、大軍を巧みに組織して距離を取るクレイシュが上回るかのせめぎ合いとなり、ティグルの弓のさらなる絶技が炸裂します。
それでもクレイシュを討つには至らず、もう一度攻められれば絶体絶命というところでの、向こうの国の事情による撤退。
魔物ではなく敵将ではここまでのところ唯一ティグルと再戦した相手にして、最後までティグルが完全に「勝利する」には至らなかった相手、という強烈な印象を残していきました。
とは言え、向こうの国の事情が事情だけに、どうやらこれで退場してくれそうではありますが……
そしてブリューヌに平和が戻った15巻では、ティグルが特使として、ふたたびジスタート王のもとに赴くことになります。
第3部では周辺国相手にブリューヌの厳しい戦争を続きましたが、アスヴァール、ザクスタン、ムオジネルといった周辺国についてはそれぞれ「当分ブリューヌに侵攻することはない」という状況に持ち込んだ上で、ようやく物語はジスタートに帰ってきた格好です(なおアスヴァール編は第2部でしたが、その時のティグルとタラードの縁が生きて、アスヴァールはザクスタンとの戦いに専念することになった形です)。
ところが、ジスタートでは心を病んで8年間も幽閉されていたルスラン王子の帰還により、新たな政変が始まろうとしていました。
エレンからの評価は低いものの、その治世の業績を見れば名君と言っていい現王ヴィクトールでしたが、最後に後継者問題で火種を残した格好です。
ルスラン王子を連れ帰ったのは、自ら女王になるという野望を抱く戦姫ヴァレンティナ。
「黒幕」の彼女と対決ムードに入る一方、新たな戦姫フィグネリアも、エレンとの因縁により戦いは避けられない気配。
フィグネリアも元傭兵で、エレンの育ての親である傭兵ヴィッサリオンを斬った張本人でした。
とは言え、彼女たちの間には、たんに傭兵としての仕事で敵として相見えただけ――では済まない雰囲気があります。
やはり、――本人たちがお互いにその点を了解しているのではなさそうですが――両者ともヴィッサリオンの「自分の国を持つ」という大きな夢を受け継いでいる、という近しさが問題になりそうです。
傭兵ながら「国を持つ」という大きな夢を持っていたヴィッサリオンに育てられたエレンと、敵として狩りを斬りながら、密かにその夢を受け継いだフィグネリア。ヴァレンティナも独自に「王になる」野望に向けて動き、そしてティグルも王への道を考え始める――戦姫たちが王都に集い、互いに戦うことになりそうなこの展開は、それぞれの「王への道」の交差でもあります。
それから、今後の展開でただちに活躍があるかどうかはともかく、将来的に一つの鍵となりそうなのが、クレイシュの側近であったムオジネル人のダーマードです。
彼は第2部では密偵としてジスタートに潜入していた時にティグルと出会っており、そして14巻の戦いでは敗れて捕虜になりました。かつてのティグルのような立場となったわけですが(今度はティグルが捕虜を取る側)。
改めて本作の主人公ティグルの周りを見ると、ブリューヌの王女レギン、ジスタートの戦姫たちという両国の要人たちが彼に想いを寄せるヒロインとしていて、そんな立場にどう落としどころを見出すかが課題として突き付けられているわけです。
他方、本作はやはりまずもってブリューヌとジスタートの間に関わる物語で、その他の周辺国にまで同様のヒロインは、さすがにいません。
ただ、将来の国同士の関係と、そこにおけるティグルの存在の大きさを示唆するように、ティグルはアスヴァールの実質的なトップであるタラードとも知己を得ています。するとムオジネルに関しても、王弟クレイシュの側近として目をかけられていたダーマードが重要人物になってくるのではないかと。功績次第で彼が解放され、ムオジネルでの栄達ルートに復帰する可能性は残されているわけですから。
ついでに、彼がムオジネルで人気のある話として、「うっかり者」と言われながら臣下に恵まれ良き治世を築いた王の逸話を放しているのも、様々な「王」像を示しています。
――と、政治情勢とハーレムに絡む話をもっぱらしてきましたが、本作にはもう一つ、戦姫たちの竜具とティグルの黒弓、それに魔物たちに関わるファンタジー要素もあります。
黒弓に夜と闇と死を司る女神ティル=ナ=ファが関わっているのは前々から示されていましたが、14巻ではついに魔物たちの目的が「ティル=ナ=ファを降臨させる」ことだと明らかに。それが文字通り「世界を変える」ことであるのも、女神自身の口から語られました。15巻ではこの件について、ティグルと戦姫たちが文献調査に結構時間を割いているのも、地に足が着いた感じが出ていて良かったですね。
15巻では1巻から登場していた魔物のドレカヴァクがついに戦うところを見せ、それにより魔物たちも一気に退場していきました。死んでも蘇る能力を持ち、三度もティグルたちと戦ったヴォジャノーイもついに……
これ以上魔物の新キャラが現れなければ、残るは他の魔物たちとはいささか目的を異にしているらしいガヌロンだけです(もっとも、ドレカヴァクたちもまだ含みありげな退場ではありましたが)。
本作における人間の歴史と神話の関係は、未だに必ずしも明瞭ではありません。
過去にもこうして「世界を変える」ことを巡る闘争、あるいは実際に世界が変わったことがあったという示唆を考えると、神話から歴史へ、あるいはその逆、という一方通行の移行ではなさそうです。
とは言え、最後はやはり、ファンタジー要素に関わる話で締めるのでしょか。
後2巻、神話と政治とハーレムと、全てを綺麗に収束させてくれることを期待しています。
―――
『魔弾の王と戦姫』はコミカライズも10巻が今月発売予定。そろそろ原作第1部の大詰めです。
漫画版はこれで「完結」扱いのようで、極めて良質なコミカライズだけに残念なところですが……いつか連載再開で第2部も、とはいかないものでしょうか。
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テーマ : 大学生活 - ジャンル : 学校・教育2016年8月の読書メーター
17冊4516ページでした。
まあ漫画が半分くらいの数合わせでようやくこの数字ですけれど。論文執筆期間に入ったとはいえ、洋書の読了がないのも寂しいところ。
以下は抜粋です。
【ライトノベル】
蝙蝠型のホムンクルス・トローと闇の王と呼ばれた幻獣クーシュナを連れ、「幻獣調査員」として幻獣の問題を解決し、記録するため各地を旅する少女フェリ・エッヘナ。彼女が巡り逢う、竜、バジリスク、マメイドetc.の幻獣に関わるオムニバス。切ない話から抜けたオチのほのぼのした話まで様々だが、作者らしく人間の醜さも描くが、他作品のような後味の悪さは控え目。幻獣のことに目がなく、真面目で純真なフェリは可愛いし、ファンタジー世界の幅広い味わいを伝えてくれる作品。ラストの仕掛けも加えて綺麗に締めたが、続きも見てみたいような。
人間の醜さ・浅ましさを描く話、残酷な話もありますが、全体には優しいお伽噺のような読後感が強く、綾里氏の作品としては新鮮でした。良かったですね。
(前巻の記事)
学校に入学したリョウ。アランとの再会、それに魔法使いと人間の隔たりを強く主張するカテリーナ嬢や、苛められてがちな魔法使いシャルロット嬢、リョウに弟子入りを志願するクリスといった級友達との出会い。世界に技術革新をもたらし、家族も次々に変わった1巻に比べると今回はもっぱら学園内での人間関係に終始して話も小規模、展開もやや落ち着いた感じ。とは言え、学校内には要人も揃い、最後で急展開もあって、学内政治が大きな動きに繋がってくるのだろう。友人関係では空回り気味なリョウのハイテンションな語りも相変わらずで楽しめた。
リョウの人生の波乱万丈っぷりは前巻よりも控え目。
まあ、学校生活は彼女が将来この世界でどう生きていくか、道を決めるためのステップ――ということなのでしょう。そうやって「学校を人生のキーポイントとする」感覚に、われわれがあまりにも馴染みすぎて、ことライトノベルではどんな世界観の作品でもとにかく学校を持ち込むきらいはあるのですが。
本作の学校には国中の貴族・王族の子弟が揃っており、政治的にもキーポイントとなりそうですが。
(前巻の記事)
将来の禍根を摘み取るべく奔走するローゼマリー。(ゲームにおいては)後に魔王の器となるミハイルとの出会い、そして彼の抱える秘密。娘に対しても冷徹な父王も登場。ただ全体としては外的に見える事件よりも、レオンハルトとの(今のところ報われぬ)恋愛話が主体。身体は子供、中身は大人でも飛び抜けて優秀というわけではない彼女の想いと奮闘がいい塩梅。しかも、ここまで頑張ってきたことの結果として異国の王に嫁がされる危機……この危機を回避出来るのか。周りでは彼女を巡る男の子達の争いも勃発、彼らも可愛いわ。今後も楽しみだ。
今まで読んできたアリアンローズ作品の中では、結構恋愛色強めな方ではないでした。主人公が子供とは思えない……まあ中身は大人、というのはあるのですが、他方で年月の問題だけではない未熟なところも多く。
「乙女ゲームの世界」で「ゲームに登場するハイスペックなイケメン」だったレオンハルトの、ゲーム中では見せなかった一面なんかも見て、「ゲームのイケメンキャラ」としてではなしにこの人を好きだ、と思うようになる過程が印象的でしょうか。
まあやはり、ゲームのキャラはあくまでゲームとして傍から見るもの、(残念なキャラはもちろん、非の打ち所がない人格高潔なキャラであっても)ただちに現実の異性として好きかというと、話は別でしょう。だから「現実になってみるとゲームの世界もいいもんじゃないな」という方向に落としたり、恋愛とは別の方向で楽しんでいたり、ゲームの非攻略キャラとフラグを立てていたりという話も多い中で、「現実の人間としての相手」との恋愛への心理的道のりを描いているのは、大事なところを押さえており好印象です。
まあ、そんなローゼマリーの想いが報われるかどうかは分かりませんが……
【漫画】
(以前に言及した『北欧女子オーサ』シリーズの第3巻になります 2巻のレビューは抜粋してもいませんがこちらの記事の中に)
今回は日本の各地方を知るべく、南東北、福岡県大川市、沖縄、京都、広島に旅行。日本人でも知らない場所も多く、参考になることも多いのでは。実際、日本の言語・文化は幅が大きい。「一つの日本語/文化」はウソである(琉球語と東北弁は独自言語認定していいと思ってる)。とは言え、もちろんスウェーデン人としての感覚ギャップネタもあり、食の話に多め。言葉や話を「分からない」ネタでも忠実にその言葉を再現しているのは後から確かめたものか、流石に仕事は細かい。今回も楽しめた。
注目すべきは、たとえば下記のようなネタ。
(オーサ・イェークストロム『北欧女子オーサのニッポン再発見ローカル旅』、KADOKAWA、2016、p. 18、クリックで画像拡大されます)
後から人に聞いたのかも知れませんが、2コマ目の住職の台詞、「分からなかった」話を正確に再現しています。
(こちらも抜粋にも入れていませんがこちらの記事に前巻のレビュー)
2年生に進級したあおい。夏の富士山再挑戦を目指し、まずは体力作りということで、今回はほのかと一緒に群馬の妙義山、母と秩父の武甲山を経て、ひなた、ここなと雲取山縦走へ。その他には名栗湖でカヌー乗りや荷物軽量化の工夫といった一幕も。一言言っておくと、太陽が出ていない方が暑くないのはいいが、雨が降ると辛いのは道中休憩しにくいこと。まあしかし、そういう事態の経験も楽しみの内。テントを使わなければ滅多なことで荷物10kgは超えないんだがね。10kg超えると交通機関で料金取られることがあるし……
昴(眼鏡で貧乳の女子高生)は近所の小学生・真潮に頼み事をされる。世界を守るため潜水艦で戦っているが、操縦席に背が届かないから一緒に座って欲しいと…。かくして多摩川から東京湾へ出て大タコと戦う海洋冒険。あるいは女子高生が少年を膝の上に座らせてイタズラしたりタコ責めしたりされたりトイレのないのに困ったりするややフェティッシュな話。作者らしいギャグ基調の中でも彼らの家庭環境に関する暗い要素を交え、潜水艦の狭さ等ギミックにこだわりつつ、壮大なSF設定も1巻で綺麗に回収していて良かった。それと猫。
本作の鬼太郎は人間に育てられていた時期があったり、学校に行ってみたり、金貸しの取り立て屋として働こうとしたりと、かなり人間社会に根付いて生きている。騙されたり失恋してやさぐれたりと人間味も強い。冒頭は牛鬼の復活から始まるのだがそれはすぐに吸血鬼と相討ちになり、中盤はニセ鬼太郎を巡る話になるが、最後はねずみ男&人狼を敵として追い詰める…と、全体を貫く要素は希薄な、繋がった連作風の仕立て。なお本作の猫娘・寝子はかなりの美少女だが、中盤の退場でやや残念。共演の人狼(こっちが元ネタ)とネタ被りという面もあるが。
【学術・エッセイ】
表題の問いに入る前に、歩行とは何か、走行との関係、様々な鳥類の歩き方等を分析。ついでハトの首振りだが、一つの理由が解明されてもそれで終わらず、複数の理由やメカニズムが絡んでいる。さらにカモはなぜ首を振らないのか、他の鳥達の動作の謎…。ヒトの二足歩行の研究から始まったという著者の研究だが、首振り一つでも、奥は深い。なお『鳥類学者、無謀にも恐竜を語る』にも同じ話題があったが、やはり特化している分だけこちらがずっと詳細、いい補足になった。本書の著者はあちらの著者川口和人氏と交流があるという言及も少し。
それぞれ「化け物」と「幽霊」に関する二部構成の論攷。「化け物」「お化け」「化ける」「幽霊」「心霊」といった言葉について、辞書から始まってその日常的な用法を分析、そこにある考え方とその形成史を露わにする。「変身」や「変装」との比較から洗い出す「化ける」の意味はとりわけ興味深かった。決して上からの定義ではなく日常言語としてそのような用法が「しっくり来るか」という観点だからこその、地に足の着いた説得力。後半、「霊」の実体化と疑似科学化に関してはかなり批判的だが、その辺も含めて注目すべき論点は多い。
読んだ本の詳細は追記にて。
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テーマ : 大学生活 - ジャンル : 学校・教育文芸批評と本質論
「本質」とは「何であるか」の答え、あるものをそのものたらしているもの、と言えるでしょう。
そして、たとえば(井筒も挙げる)「花」の例で言うと、「個別的本質」とは「この花」の本質であり、「普遍的本質」とはタンポポもバラもユリもひっくるめた「花」全般の本質です。
(なお、「そもそも“本質”など存在しない」という立場もありますが、その場合にしても「そもそもどんな“本質”について“存在しない”と言っているのか」は問題になります。そして、以下で問題にする話題においては、多くの論者がまさに「本質論」としか言いようのないものを展開しているのであって、そのこと自体が正当かどうかは、脇に置いておきます)
さて――と、そこで私は考えます。
文芸批評において、「文芸というものの本質」あるいは「あるジャンル(たとえばライトノベル)の本質」と、「この作品の本質」を区別できている人は、どの程度いるのでしょうか。
それどころか、まず総論として「文芸とは何か」「当該ジャンルとは何か」「物語とは何か」を論じた後、いわば「ケーススタディ」として「個別の作品を分析してみよう」という展開の批評書をしばしば目にします(あえて名指しする必要はありますまい)。まるでそれが「きちんとした」「学問的」スタイルであるかのように!
もちろん、総論が個別の作品分析に当たって導きの糸となる可能性をただちに全否定はできません。
しかし、全ての作品を同じ切り口で切ることで本当に個々の作品の魅力を取り出せるのか、ましてや古今東西(名作から駄作まで)ありとあらゆる作品に共通するような「普遍的特性」を論じることが個々の作品の特徴を露わにするに当たってどう寄与するのか――そういう疑問を抱かないのだろうか、と思います。
さらに、「どんな作品についても言えること」を個々の作品に適用していくのは、ともすれば「何でもかんでも(強引にであっても)当てはめて回るゲーム」に堕してしまう恐れさえあります。
「ストーリーとキャラどちらが重要か」といった類の議論も、この点の混同に起因しているように思われます。
「ストーリーとは何か」「キャラとは何か」「(一般論として)両者は作品に対してどのような地位を占めるのか」と、「この作品においてストーリーとキャラどちらが本質的か」では、別問題でしょう。
中世以来のイスラーム哲学における基本が理解されていないということは、文芸批評はイスラーム哲学より1000年遅れている、ということです。
しかし、それも驚くには当たらないのかも知れません。
イスラーム世界はムハンマド以来アラビア語で連綿を著述を続けてきた歴史があり、「イスラーム哲学」に限っても中世以来1000年以上の歴史があるからです(そして、現在でも生きています)。
対して、「批評」に該当する活動は古くからあったかも知れませんが、そこに途切れることのない歴史があるかどうか、疑う余地は十分です。要するに文芸批評とは、(少なくとも現代日本で見られるそれの多くは)近代的な出来星の分野ではありますまいか。歴史に1000年の差があれば、後発の方が1000年遅れていても不思議はありません。
しかし――私はもちろん、「個別的本質」と「普遍的本質」の区別というのは、普遍的な説得力を持ちうる話だと思ってここまでを書いています。上では井筒という権威に依拠する形になってしまいましたが、そこはそれ、権威に頼らずとも論じられることです。「花一般を花たらしめるもの」と「この花をこの花たらしめるもの」では、違うでしょう。
が、それがただちにどこででも理解されるものかどうかは、少し話が別。上述のように「まず何らかの普遍的本質を論じ、ついで――前半からシームレスに繋がって――個別の作品分析を行う」スタイルの批評本が多く通用しているということは、文芸批評の世界ではそれが「正しい」ということかも知れません。
私のような者が「いやしかし、その根底にある論理はどうなんだ」と異議を唱えても、「そんなことをごちゃごちゃ言うより、一つでも多くの作品を読んで資料を増やすべき」と言われるかも知れません。
業界ルールあるいは慣例が優先するというのも、よくあることです。
だから私は、いわゆる学問性の基準というやつが普遍的なのかどうか、疑っています。
学際的な研究というやつの難しさもここにあります。
ある分野でその分野の基準に従った研究を重ね、他の分野でも同様にして、二つを合わせればいい――とは限らないのです。
一方の基準で「きちんとした」研究は、他方の基準では評価されないことがありうるのです。
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テーマ : 大学生活 - ジャンル : 学校・教育フィクションを書く意味
これが野心作となるかただの馬鹿の仕事となるかは、結果次第ですが。
まあ、結論部の候補を二つ書いて選んだりしているのを思うと、やはり馬鹿なのかも知れません。
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さて先日、「異世界で言葉が通じる」ことの問題について少し書きました。
この件についてもう少し考えてみましょう。
まあフィクションの世界には、途方もなくハイスペックな天才主人公が溢れているのも事実。
そんな天才ならば、先人の手引きもないまま未知の言葉を話す人々の中に入り、ゼロから言葉を習得していける――という話なら、どうでしょうか。
確かに、そういう設定であっていけない理由はありません(転生ものですが、『転生少女の履歴書』などは実はそれに近い設定です)。
しかし、未知の言葉を習得していく過程というのは、なかなか描くのが難しいものです。
「未知の言葉」についてある程度詳しく設定するのか否か……
さらに言えば、いくら天才であっても、なかなか外国語を母語を同じ感覚で使いこなせるようにはなりません。それでは、言葉遊びや冗談を駆使した会話をするに当たってもマイナスなのではありますまいか。
あえて「カタコトの主人公」を設定する意味があるなら、ともかく。
そうやっていくつかの困難を乗り越えて話を書いたところで、さて、そもそも現実に未知の地で未知の言葉を話す人々と出会い、ゼロから交流を築いた探検家やフィールドワーカーのドキュメンタリーはすでに存在しています。
それをフィクションで反復して面白いのか、ノンフィクションの迫力に勝てるのか、そこを考えないといけません。
「リアリティの追究」と言いますが、現実にあることを写すだけでは、フィクションを書く意味がないのです。
現実的な感覚を備えているのは大いに結構、しかし問題は、どう「フィクション」へと踏み込むかです。
(なおこれは、別に「現実は厳しく思うようにならない、フィクションの世界は優しくてご都合主義」といった安易な対比とは限りません。踏み込む方向は様々に考えられます)
そして、おそらくそれこそが、「創作の才能」に関わる部分なのです。取材して細部を作り込むとかいうのは、言ってしまえば、その上に乗せる装いです。
まあつまり、繰り返しになりますが、フィクションの筋に大して重要でないことはこだわらずに片付ける、それもテクニックの一つです。「説明もなくなぜか異世界で言葉が通じる」であっても、それは一つの手法です(ただし、「それが許される雰囲気の作品に仕立てる」ことこそが一番重要なテクニックになってくるでしょうが)。
――結局、これだけ分析をやってきてようやく分かってきたことの一つですが、「その筋ならば何が重要で、何をスルーすべきなのか」、あるいは逆に「その作風ならばどんな筋が活きるのか」、この見極めこそが肝心要であり、難しいところです。
商業出版作品にも、その辺がちぐはぐに見えるものは珍しくありませんし……
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