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負け組から世界に誇る酒蔵へ 「獺祭」ヒットの裏側にある逆転の発想

負け組から世界に誇る酒蔵へ 「獺祭」ヒットの裏側にある逆転の発想

「クロシング」では、思考が交差し「そうか!」「わかった!」「これだ!」に出会う瞬間を目指しています。慶應義塾の社会人教育機関、慶應丸の内シティキャンパス(慶應MCC)が主催する著名で多彩な講師による講演会、夕学五十講を素材に、深い学び、新しい視点、思わぬ発想、意外な出会いを探索します。今回は旭酒造株式会社の代表取締役社長・桜井博志氏が登壇。小さな酒蔵が「獺祭」を世界的にも人気の日本酒へと押し上げることができたのはなぜか? ピンチをチャンスに変えていく逆転の発想について語りました。

(提供:慶應丸の内シティキャンパス)

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慶應丸の内シティキャンパス「クロシング」 > 常識反転のクロシング
2014年11月11日のログ
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旭酒造株式会社 代表取締役社長 桜井博志 氏

30年間で売上を40倍に伸ばした秘訣

桜井博志氏 「獺祭」というのは日本酒でございます。この日本酒という業界は40年間で売上が3分の1まで落ちてしまった、そういう業界であります。 実は私は、旭酒造、昭和59年に父の後を継ぐんですけれども、ということは、私は30年間社長をやっているわけですね。 その30年間社長をやる前の10年間、旭酒造を見ておりますと、40年間のうちの前半10年間で、旭酒造はもうすでに日本酒業界の40年分をいっぺんにやってしまって、売上は3分の1まで落ちておりました。 これはなぜかというと、わかりやすいのは、実は昭和48年が日本酒業界で一番よく売れた年で、旭酒造も一番よく売れた年なんです。 この年にオイルショックがあるんですが、それから日本経済が変わっていくんですね。それで、高度経済成長が終わっていくわけですから。 それまではどういう状況だったかというと、「まじめに努力すれば伸びていける」という時代だったわけですね。ところが、その昭和48年以降は、まじめに努力してるだけでは成長できなくなっていったわけです。 だから、例えば、知恵があるか、立地に優れているか、技術的に優れているか、なにより資金力があるか。これが一番大きいですけれども、こういった競争になっていくわけですね。 旭酒造はそういった競争のなかで負け続けておりまして、順調に売上が3分の1になっているところで、私が昭和59年に後を継いだわけです。 そのあと30年間で、数量で16倍、金額で40倍。実は、直近9月の決算を入れれば、金額は50倍まで伸びております。 そういうことを言いますと、ものすごい経営努力。精緻な将来予測を的中させている。その目標に向いて、夜も寝ずに努力してる。そう考えていただけるわけですけれども、個人的に考えてみると、そんな感じはまったくありません。 あっちの壁にぶつかり、こっちの壁にぶつかり、困ってなにかをやったらまた失敗し、「なんとなくそんなことをやってたら、いつの間にかここまできちゃったよ」という気がしております。 ただし、今になってみると、数字が伸びた合理的な理由は、後付けですけれどもいくつかあるんですよ。 そのあたりを今日はみなさま方にお話して、私どものお話の務めを果たしたいと思います。よろしくお願いいたします。

マイナスをいかにプラスに転化したのか?

01 旭酒造が伸びた理由は単純にこういうことです。山奥の過疎地だから。県内で米が入らなかったから。杜氏が優れていなかったから。そして、結果として杜氏にFA宣言されてしまったから。 「なんだこれ、全部マイナスの話ばかりじゃないか」という話なんですけれども、これが私どもがここまで来れた理由なんですね。 「山奥の過疎地だから」というのは、私はよく「旭酒造の私どもの酒蔵から半径5キロで円を書きますと、人口が300名」と言っています。この前テレビのニュースを見ていましたら、現地調査をやったら216名だったそうで。そんなとんでもない過疎地に住んでおりました。 そうすると、地元で市場がないわけですよね。ふつう酒蔵にとって、半径5キロはけっこう大事なおいしい市場なんですよ。ですが、人口がどんどん減っていくというのは、どうにもならない状況です。 売上は、だいたい山口県岩国市の税務署管内で上から4番目。人口がせいぜい10数万人の地域ですから、そこで売上序列4番目というのは、だいたいご理解いただけると思うんですが、「市場から去れ」「やめたほうがいいよ」と言われるような序列ですよね。 そんなことで、とにかく地元で生きていけないから、県外に出て行ったわけです。それはもう博多であろうと、大阪であろうと、名古屋であろうと、それから北海道の札幌であろうと、どこもかしこもみな行きました。どこということなしに行ったわけですが、結果として、言い方は悪いですけれど、東京市場が引っかかったからなんとか今があるわけですね。 ここで大事なのは、東京市場というのはやっぱりそれなりに競争の激しい市場です。だから、酒蔵はふつうそこまで東京市場に特化しないんですよね。 だいたい酒蔵というのは、地方の名士が多いわけであります。酒蔵としての経営は厳しくても、例えば組合の組合長やってたりとか、それから商工会議所の副会頭をやってたりとか、地元にいるとけっこう大事にしてもらえるので、地元に帰りたくなるわけですけれども。私どもにとってみれば、もう帰ったら飯の食い場がないという状況でございました。 やっぱりこれがいちばん、今になってみると、東京市場を開拓できた大きな理由だと。後ろに下がるところがなかったという、ルビコン川を渡っちゃってたわけですね。そういうところが大きかったんだと思います。

米を手に入れるため全国を探して歩いた

それから「県内で米が入らず」というのは、山口県は酒所とはどなたも考えられてなかったと思うんですね。これは他県のみなさんから見てもそうなんですが、情けないことに山口県内でもそうだったんですよ。山口県内のとくに農業関係者なんかは本当に山口県内の酒蔵に対して非常に冷たいわけであります。 山口県の地酒を全社集めた山口県の県産米の購入数量と、それから灘のある有名な酒蔵1社の購入量、どちらが大きいかというと、灘の有名な酒蔵のほうが大きかったんです。 ですから、山口県の経済連なんかはもう「山口県の酒といえばあそこだ」「なんとか鶴だ」とよく言っておりましたけれども(笑)。そういう状況だったわけですね。 そんななかで、酒は米と水で作りますから、結局私どもはなんとかいい米がほしい。なかなか県の農業関係者からいい米が入ってこないのであれば自分たちで作ろうと思って、自分たちで田んぼも手当てして、ある一時期作りかけたんです。でも結果として、これで3年間、“ケッチン”を食らうわけですよ。 というのは、米を作ると種籾が大きな問題になるわけですね。種籾というのは、遺伝子学的に純粋でないといけないので。そういう純粋な種籾を常に準備しようとすると、やっぱり県の経済連、農協の親玉クラスの組織体がないとなかなか難しいんです。 そこで、私どもは山口県経済連に「山田錦」という米の種籾をお願いしたわけです。最初の年は、春先に頼んだら、「今頃言ってきてもそれは応えられないよ」ということで断られました。それで、その場で翌年の種籾を頼んで帰りました。 これも翌年になってみると「合理的な理由なし」で断られました。ここでやめておけばいいのに、アホですから、もういっぺん頼んで帰ったわけですね。 3年目、やっぱり「合理的理由なし」で断られました。さすがに堪忍袋の緒が切れまして、「もう山口県経済連を通して米を1俵たりとも買いません」ということで啖呵をきって。山口県の酒造組合の事務局の応接間でしたけど、そこから腹立って出て行っちゃったんですね。 そのあと、20数年経っておりますけど、まさにその言葉どおり1俵たりとも買っておりません。 これがなぜよかったかというと、ふつうの酒蔵が買う購入ルートはまったく自分で退路を断っちゃったわけですから、翌年からは、しょうがないから自分で全国探して歩くしかないわけです。 昨年度、私どもが「足らない、足らない」と言いながら、酒米の帝王と言われる「山田錦」を43,000俵手当てしてます。全国生産量38万俵。38万俵のなかの43,000俵、1割強ですよね。これだけのものが手当てできる購入ルートができた理由は、自分たちでやったからです。 あの時に山口県経済連が「山口県の酒のことなんだから、俺たちが一肌脱いでやるよ」って言ってくれたら、おそらくその時の序列のままで来ますから、今がなかったわけです。意地が悪い話ですけれども、あの時に山口県経済連に断られて大正解だったわけですね。

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