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詩をもつこと ―シモーヌ・ヴェイユと現代― ――労働者に必要なのは、パンでもバターでもなく、美であり、詩である。 今から約100年前のパリに生まれ、わずか34年でその生涯を閉じたユダヤ系フランス人の哲学者、シモーヌ・ヴェイユ(1909‐1943)の言葉である。 人間を「モノ化」する風潮が蔓延する昨今、多くの人々が「生きづらさ」を抱え、自らの生に希望を見いだせずにいる。そのような閉塞感ただよう現代において、ヴェイユの言葉は独特の響きをもって――決して多くはないが、しかし確実に――読み継がれている。 ヴェイユは、失われた実在(リアリティ)が喚起されるような出来事を「詩をもつこと」と言い表すが、そこで言われる「詩」とは一体何なのか。 長年、ヴェイユ研究に携わり、『シモーヌ・ヴェイユの詩学』(慶應義塾大学出版会)の著者として知られる今村純子氏に、その深意をうかがった。 今村 純子 氏(思想史・芸術倫理学)
今村 大学生の頃からヴェイユを読んでいましたが、出会い直したのは大学を卒業して就職してからです。ヴェイユが「工場日記」に「疲れた、疲れた」と記しているように、日々の生活に忙殺され、自分を失ってゆくような状況において、それこそ救命ブイのようにしてヴェイユを読んでいました。その後、哲学研究の道に進むのですが、「シモーヌ・ヴェイユであったら、自分を賭けられるのではないか」というような思いでした。
今村 ヴェイユの言葉は、さほど洗練されたものではないです。同時代でしたらサミュエル・ベケット(1906‐1989)のような作家たちのほうがはるかに優れているでしょう。それにもかかわらずヴェイユの言葉が私たちを魅了するのは、彼女のごつごつ、ざらざらした言葉には、間違いなく彼女自身が映し出されているからです。まったく面識のないシモーヌ・ヴェイユという人が、読み手のすぐ隣にいる。いや、読み手の心のうちに住んでいる。それは言葉の洗練さとはまったく別次元のものかと思います。 ――ヴェイユが労働者に必要だと言う「美」、「詩(ポエジー)」には独特の響きを感じます。何を表すのでしょうか。 今村 「美」や「詩」という言葉自体は世の中に飛び交っていますね。これらは人を酔わせる甘美な言葉です。ヴェイユが述べる「美」と「詩」はこれらとは位相を異にするので、彼女がこれらの言葉を発する、いわば海底の深さにまで潜らないと、これらの言葉をつかむことができないかと思います。「労働者に必要なのは、パンでもバターでもなく、美であり、詩である」というヴェイユの言葉は、前後のコンテキストから切り離されています。ですので、この言葉をどう受け取り、どう表現するのかが問われるわけですが、これはなかなか難しいものです。しかし、そうであるにもかかわらず、たえず受け取り手自身の言葉の発語への欲求を駆り立てるのです。そして実のところ、そのことが、最も大切なことなのではないかと思います。 (次ページへ続く) 1 | 2 |
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