アーリーリタイアという選択肢がある。
アーリーリタイアとは、「定年を待たずに退職・引退し、残りの人生を自由に生きる」という生き方のことだ。
私はアーリーリタイアをしたいと思っている。
「したい」と言って出来るものではないのは百も承知だ。アーリーリタイアは、働かなくても残りの人生を暮らしていけるような経済的体力がないと、選択肢として浮上してこない。
リタイアする年齢にもよるが、アーリーリタイアが出来るほどの資産というのは、凡人が一代で築くのは相当難易度が高い。
今では定年退職後も、退職金と年金だけでは生活に余裕がなく、60歳以降も再雇用など何らかの形で働いている人も多い。
そういった、今の私にとっては非現実的な選択肢であることを十分に理解して、「アーリーリタイア」について考えてみたい。
どうすればアーリーリタイアが出来るのか?
ただ「アーリーリタイアしたい」と言っているだけでは、絶対にアーリーリタイアはできない。ただ漫然と、今いる会社で、一生懸命頑張って出世したとしても、アーリーリタイアに耐えうる資産を築くのは難しいだろう。
それじゃあ今私はアーリーリタイアに向けて何かしているのか?と問われても、胸を張って言えるような材料は持っていない。
しいて言えば株式投資だが、今現在のポートフォリオではアーリーリタイアなんて到底語れない。
私はグロース株、いわゆる成長していく企業に投資するタイプなので、投資している会社が数年後、数十年後に大化けして、それこそ数億数十億になればアーリーリアイアも考えられるが、今現在ではそれもとらぬ狸の皮算用だ。
しかしながら、給与のみでコツコツと貯金している人よりも、アーリーリタイアが出来る可能性は高い。というより、収入が給与一本のコツコツ貯金では、アーリーリタイア出来る可能性は限りなくゼロに近い。
老婆心ながら付け加えておくと、ギャンブルでアーリーリタイアを勝ち取ろうとすることはオススメしない。アーリーリタイアどころか、現在の生活レベルを脅かす可能性がある。
リタイア後の生活はいったいどうなるのか
私は「そしがやのリタイア日記」というブログを購読している。
このブログの著者そしがやさんは、、定年まで勤め上げた後、リタイアして、現在は大学に通いながらその生活をブログに綴っている。
アーリーリタイアではないものの、リタイア後の生活を考えるうえで、非常に参考になるブログだ。
そしがやさん自身は大学にも通っており、リタイア後の充実した生活を楽しんでおられるようだが、それでもたまに悩みのようなものを書き綴られる時がある。その悩みは主に以下に絞られている。
- 自分で自分を律することの苦しさ
- 社会に属していないという孤独感
- 経済的な不安
読んでいて、非常に現実感がある悩みである。
確かに、リタイアすれば、毎日が休日のようなものだ。お金を稼ぐ必要もない。何をしたって良い。しばらくは、解放感にあふれた毎日だろう。
しかし、それが365日続くとなるとどうだろう?あまりに潤沢すぎる余暇は、時に人を溺れさせる。
そして、その後に孤独感がやってくるだろう。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは「人間は社会的な動物である」と言った。根本的に人間は、どこかに何かしらの帰属を持っていないと、落ち着かない動物なのだろう。
私は会社に縛られていながらも、組織に帰属することによって精神的な安定を保っている、とも感じている。
その帰属がなくなったら、きっと孤独感を感じるだろう。それは容易に想像できる。
そういう意味で、そしがやさんは大学に属して、社会的なつながりを持っているのは大きい。
アーリーリタイアをしても幸せになれない人
時折、「アーリーリタイアをして幸せになれるのだろうか?」と考えることがある。
そしがやさんのブログを読んだり、その他の情報を咀嚼しながら考えていると、リタイアしても幸せになれない人というのがどういうタイプの人なのかわかってくる。
まずは、自分で自分を律せない人である。要するに、なまけものや怠惰な人間は、リタイアしても幸せになれないと思う。
怠惰な人は、きっと自由になれば、さらに怠惰になるだけだ。束縛から解放されて、何をやっていいかさえわからなくなるかもしれない。
学生時代に、地方から出てきて一人暮らしを始めた友人が、夏休みごろから生活リズムが崩れ始め、そのうち大学に来なくなって結局中退してしまった。今は何をやっているのか知らない。
実家暮らしという束縛から放たれ、誰にも注意されない、誰からも促されない、という状況において自立できるほどに、彼は成熟していなかったのだろう。
加えてもう一つは、「ただ今の仕事に追われる生活から逃げたい」というだけでリタイアを選択する人である。そういう人はおそらく幸せになれない。
「リタイアして何をするか」という設計が出来ていない人は、大海に身一つで投げ出されるようなものだろう。そのうち時間の海に飲まれて溺れてしまう。
暇を持て余さずに時間を潰すには相応の教養が必要
先日、こんなツイートをタイムラインで見かけた。
アーリーリタイアした知人見ると、いろいろなんだよな。慈善事業やったり大学院行ったり資格勉強したりの意識高めから、クルマ、釣り、家庭菜園等々の趣味に行ったり、結局、暇を持て余さずに時を潰すには相応の教養が不可欠と思うので、一般人は労働が一番いいんじゃないかな?
— NKPMとイッパイアッテナ (@KPtan2) September 2, 2016
本当にこの通りだと思う。
リタイアしてもダラダラすることしか想像ができない人は、ある意味、労働していることの方が幸せではないだろうか。(もちろん、適度な休暇を取りつつだが)
それから、「暇を持て余さずに時間を潰すには相応の教養が不可欠」という指摘も面白い。相応の教養があれば、知的好奇心の赴くままに、人生のうちにやりたいことはいくらでも出てくるだろう。
「時間はあるけどやりたいことがない」状況が死ぬまで続くのは、苦痛以外の何物でもない。
私がアーリーリタイアをしたら何をするか?
単なる思考のお遊びだが、「もしアーリーリタイア出来たらどうするか」ということをたまに考える。
おそらく、余裕資金で持って会社を作って、何かしらの事業を始めるだろうと思う。
私は今の会社に対して不満はたくさんあるが、仕事自体は嫌いではない。大型連休の終わりの方になると、「そろそろ仕事したいなぁ」と思うくらいである。
だから、リタイアしても、仕事はしたい。「それってリタイアじゃないじゃん」という指摘はごもっともだが、私にとってリタイアとは「社会的な束縛から逃れること」であり、会社と言う組織に縛られずに働くことは、理想である。仕事は社会的なつながりをもたらし、孤独感を感じることもないだろう。
先日亡くなった大橋巨泉さんは、芸能界において人気絶頂の時に「セミリタイア」と言って、TVから姿を消した。その後は、カナダのバンクーバーに移住しながら「好きな時に、好きな番組に出る」というスタイルで、セミリタイア生活を謳歌していた。
大橋巨泉さんも結局は仕事が好きだったのだろう。
孫正義と柳井正が今でも企業のトップに立ち続ける意味
最近、ソフトバンクグループのトップである孫正義氏が、引退を撤回した。今後10年は社長を続けるという。
孫正義氏や、ユニクロのファーストリテイリング社長柳井正氏などは、もう何世代も遊んで暮らせるだけの資産を持っている。それこそ、アーリーリタイアをすることなんて簡単だ。明日にだってリタイアしても、優雅に暮らしていける。
それでも彼らが仕事を辞めないのはなぜか?私には少しだけその理由がわかる。
「労働をしないこと」が幸せとは限らない。人生を仕事で費やすことを選ぶ人がいても、決して不思議ではない。
私が逃れたいのは、「仕事」からではなく「束縛」からなのだ。経済的な自由を手に入れ、束縛から逃れて、自分のやりたいように仕事をする。それはきっと幸せなことだろう。孫さんや柳井さんは、きっと仕事が楽しくて仕方ないだろう。もはやお金のためではない。人生を楽しむために、仕事をしているのだ。
「生活費を稼ぐための労働」から抜け出したとき、そこからは違う景色が見えるのではないかと思っている。