今年(2016年)の二月頃、下北沢で成田大致と待ち合わせし、ぼくの好きな喫茶店でコーヒーを飲んだ。ちょうど夏の魔物のメジャー第2弾シングル「東京妄想フォーエバーヤング/ダーリン no cry!!!」が出たばかりで、「東京妄想フォーエバーヤング」はぼくが作曲したものだったから、打ち上げ、というほどのことではないが、「発売おめでとう」という気持ちで、お茶でもしようや、ということになったのだ。
 コーヒーをすすりながら他愛のない話をした。件のシングルは、最近よくあるオリコン何位以内に絶対入る!みたいなのを公約にしていたもので、実際に言っていた順位(何位だったかは忘れた)に入ったものだから、それでぼくは「次はどうするの?何位を目指すの?」なんてことを彼に尋ねた。そうすると、成田大致は「ファーストアルバムを作りたいんです」と言った。あ、ちょっとここで注釈。そうは言ったが、彼のはなし言葉は青森弁のイントネーションが漂っていて、気持ちがいい。その会話が持つ晩夏の蒼い稲穂が風にそよぐようなグルーヴ感こそが彼の持ち味なので、ここからは彼の会話を脳内で青森訛りに変換して読んでほしい、よろしく。そう、彼はそう言った。そして「ロックバンドのファーストアルバムを作りたいんです」と続けた。ぼくは「ロックバンド?」と一瞬思った。彼がやっているのは総合エンターテイメント、アイドルもパンクもオタクも特撮もプロレスもミックスした、そういうノンジャンルな表現だと感じていたから。でも待てよ。そういうあらゆるジャンルや表現を無節操に取り込む獰猛で腹をすかした音楽を「ロック」と呼ぶんだっけ?と考えるまでもなく感じることができたので、ぼくは「いいねえ」と彼に返した。だが、成田大致「ロックバンドのファーストアルバムを作りたいんです」と、曽我部恵一「いいねえ」の間には、一瞬のブランクがあった。そのことに彼は気付いていただろうか。

 

 成田大致と出会ったのは、ぼくが曽我部恵一BANDの活動を精力的にやっていた頃、青森の<クオーター>というライブハウスで。終演後、話しかけてきた笑顔がまぶしすぎる高校生が彼だった。実はぼくは笑顔がまぶしすぎる奴が苦手である。その時の彼の全てを信じているような笑顔が、ぼくのハートにはちょっと痛かった。
 彼はぼくの音楽のファンだと言った。何年かして青森ロックフェス・夏の魔物の第一回が開催されることになり、ぼくにも出演オファーが来た。ああ、あの少年か、と思った。あの笑顔がまぶしい。
 で、ぼくは青森に向かった。2006年のキラキラした夏のことだ。
 彼も地元で組んでいたWAYBARKというバンドで出演していたが、筋金入りのロックの人たちが居並ぶ中では、お世辞にもかっこいいとは言えなかった。でもやっぱり彼のがむしゃらなまっすぐさは、ぼくのハートに痛かったんだ。
 その初年度のフェスは大荒れだった。というか大笑いだった。警備をやってたのは身内と思しき人たちで、おじいさんなんかもいた。おそらく、ロックフェスに携わった者はほぼいなかったんじゃないか。というより、ロックフェスに実際行った人間も少なかったのでは。そんな感じだから、タイムテーブルは予定より押しまくり、アーティストのケアもでたらめ。そんな穴だらけの「ロックフェス」だった。そしてぼくはそこにいた。最高だった。東京に戻って、いろんな人に「穴だらけのロックフェスがあって最高なのよ」と話した。青森ロックフェス・夏の魔物は街のウワサになった。出演したみんながぼくみたいに話したのだろう。バンドをやろう、ライブをやろう、曲を作ろう、ロックスターになるのだ、そんなことを自分が自分に決定した瞬間の、気持ちだけが数千マイル上空へと翔び立つような感覚を、体が覚えていたのかもしれない。その穴だらけの「ロックフェス」が思い出させたのかもしれない。
 それからぼくは何度となくそのフェスに出演したが、規模が色々と変わっても、最初の「ハートに痛い感じ」は残ったまんまだ。結局、成田大致の、あの笑顔の高校生のイベントなのだろう。

 フェスは毎年開催され、そっちが軌道に乗っていく中で(決して儲かりはしていなかったようだが)、彼はバンドを連れて上京した。しかし順風満帆とはいかなかった。苦しんで、もがいている成田大致の表情がアタマに残っている。いろんなことがあったみたいだ。よくは知らんが。それで、いろんなことが散り散りになったようだった。この頃に、下北沢で対バンした。ぼくもいろいろあって大変な時期だった。ひとのことは、心配する余裕もなかった。ライブが終わって、成田大致と少しだけ会話した。「いつか曲を書いて欲しい」と言われた。相変わらずの笑顔だった。傷だらけだった。「なんだかなあ・・・」とぼくは思った。

 プロレスみたいなことを取り入れてライブをしているという話を聞いたりした。そのうち<DPG>というバンドが出来上がっていた(2013年のことだ)。ユニット、というのだろうか。ぼくにとってはなんでもバンドだ。いろいろ複雑なことをやろうとしているように見えた。うまくいくといいな、と思っていた。だけどぼくにも心の余裕はそんなになかった頃だ。
 2015年、メジャーデビューが決まったというニュースを見た。ネットのニュースだったかツイッターだったか。名前も<夏の魔物>になっていた。デビューシングルの曲たちをYouTubeで見た。「恋愛至上主義サマーエブリデイ」は作詞・後藤まりこ、カップリングの「どきめきライブ・ラリ」は作曲・大森靖子という、キレキレの才女を軸に据えたポップで、ワチャワチャしてて、お金もかかっていて、おお、大致がんばってんな、と思った。ちょっと嬉しかった。彼のいろいろがカタチになり始めたことを感じていた。
 そして、その次のシングルの曲の依頼がぼくに来た。気付けば長い付き合いになっていて、彼が欲しいものがぼくにはわかったから、すぐに曲はできた。ぼくが作曲して、山内マリコさんが作詞して、BIKKEくんがラップした曲が「東京妄想フォーエバーヤング」だ。好きな曲だ。アレンジはIOSYS所属のARM。いい仕上がりだった。ビデオも元気いっぱいで、「めちゃイケ」のエンディングテーマに選ばれた。ひとのことなのに、すごく嬉しかった。そこで、冒頭に書いた喫茶店の風景につながっていく。

 それからは成田大致率いる夏の魔物の旅は少しづつ加速度を増したように思える。何かがうまくいけば、何かがうまくいかない、そんなこともたくさん繰り返されたんじゃないかな。それでも、何歩かは前に出ているような、そんな理想的な旅であることを祈っている。笑顔が笑顔であるように。友だちが友だちであるように。傷が傷であるように。

 

 夏の初めに成田大致と下北沢で待ち合わせをした。同じ喫茶店。アルバムが完成したという。「おめでとう」とぼくは言った。例のロックバンドのファーストね。ダムドのファースト、エンケンのファースト、頭脳警察のファースト、ラモーンズのファースト、ピストルズのファースト(あ、これはファーストしかないか)サニーデイのファースト、そういうバンドの全てが詰まってる系のやつね。ぼくはにっこり笑った。
 できたばかりのCD-Rを取り出しながら「曽我部さんにぜひライナーノーツを書いて欲しいんです」(青森イントネーションね)と成田大致。「え?」とオレ。やっぱり一瞬の間が空いてしまった。
 
 そんなわけで、この文章を書いた。こんなライナーノーツでいいかい?

 

曽我部恵一



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