今回の「お言葉」を通じてわれわれが知ったのは、象徴天皇制とは何であるのかについて、われわれがいかに何も考えてこなかったか、ということだったのではないか。「戦後の天皇制は象徴天皇制であり、そこにおいて天皇が何であるのかは憲法と皇室典範に書いてある」というのは常識であった。穏健な保守派は、このシステムを戦前レジームによって歪曲された古来の天皇制を「権力なき権威」という本来の伝統に復帰させたものとして評価する一方、共和主義を志向する左派は、政治的権能を一切持たないと規定されながらも、天皇の存在が否応なく持つ政治的性格を批判し、また事実上人権を奪われた状態にある天皇をその身分から解放するべきだとしてきた。「良き伝統」なのか「悪しき遺物」なのか、象徴天皇制についての首尾一貫した見解は、この二つのいずれかの見方におおよそ収斂する、というのも常識であった。
しかし、われわれは常識のなかに胡坐をかいて思考停止に陥っていたのかもしれない。いつものように、今上天皇の言葉は穏やかであった。にもかかわらず、「象徴とは何か」を語るその姿に、私は一種の烈しさを感じ取った。皇太子時代から長年考え続けた「象徴としての役割を果たす」こととは、ただ単に天皇が生きていればよいというものではなく、また摂政が代行しうるものでもない。文字通り「全身全霊をもって」国民の平安を祈り、また傷ついた人々や社会的弱者を励ますために東奔西走しなければならない職務である、という御自身の考えがはっきりと打ち出されたのである。
そして、この見解は、天皇が高齢や病気のために弱ったときには、祈りと励ましが同時に衰弱し、したがって天皇によって象徴される「国民の統合」が弱体化することを含意しよう。ゆえに、体力の限界を迎えた天皇は、その位を去らなければならない、という結論に至るわけである。
なぜ今、それを実行しなければならないのか。生前退位の意向表明には、安倍政権による改憲プロセスを食い止める意図が込められているのではないかという見解が、囁かれている。安倍政権と熱心な支持者たちの戦後民主主義に対する敵意は明らかであり、その表面化に対して、天皇・皇后夫妻は慎重だが明白な態度表明を行なってきた。
ゆえに、改憲勢力への牽制という見方はおそらく間違っていない。しかし、「お言葉」に接して感じたのは、「憲法はどうなるのか」という問題よりも一層深刻な危機に対する警鐘である。「国民の統合」の危機が現に存在し、それが、今上天皇が象徴の任を果たすことが困難になってきつつあることを証明している、という切迫感が今回の意見表明を決断させたのではないか。というのは、このような異例のメッセージは、「個人」の考えとして表明されたとはいえ、皇室典範等の改正という政治的行為を要請するものであり、象徴天皇制の枠組みを踏み越えるものだったからだ。憲法遵守を誓う今上天皇がかかる「ルール違反」を冒さねばならないほど、危機への切迫感が強くなった理由を考えるためには、戦後の象徴天皇制の歴史と構造を参照せねばならない。
天皇制の存続と戦力の否定を規定する戦後憲法が米国の構想した対日政策においてワンセットであったことは数々の歴史研究が示しているが、象徴天皇制もまた、戦争が終結するはるか前に米政府内で構想されたものだった。E.ライシャワーが「(日本人に対し)大変な権威を持つ傀儡」として天皇を戦後日本の復興と西側陣営への組み入れに役立つものと名指したのは1942年9月のことであり、実際にこうした指針に沿って戦後日本の設計はなされてゆく。マッカーサーが強く自覚していたように、戦後日本の民主化とは、天皇制という器から軍国主義を抜き去り、それに代えて「平和と民主主義」という中身を注入することであった。対米従属構造の下に天皇の権威があり、さらにその下で営まれるものとして戦後民主主義は規定されていた。してみれば、象徴天皇制とは、大枠としての対米従属構造の一部を成すものである。
戦後70年余という月日は、この構造を表面化させると同時に、その変質を露にさせた。それは、天皇制を存続させたアメリカの真意(善意でもなければ敬意でもなかった)が明らかになってくるとともに、冷戦終焉後の世界で、かかる構造が日本の国家指針であることの合理性が失われた(拙著『永続敗戦論』を参照)ことによってである。にもかかわらずこの構造を護持しようとするこの国の支配層にとって、今や精神的権威は天皇ではなくアメリカにほかなるまい。アメリカの国益の実現のために粉骨砕身しているかのように見える彼らの姿は、「国民の統合」を上から破壊するものである。あるいは、沖縄の声を無視した基地建設の強行も、同じ作用をもたらしている。
このような状況下で「お言葉」は発せられた。敗戦国で「権威ある傀儡」の地位にとどまらざるを得なかった父(昭和天皇)の代に始まった象徴天皇制を、烈しい祈りによって再賦活しつつ、時勢に適合しなくなったその根本構造を乗り越えるために何が必要なのかを国民に考えるよう呼び掛けた。もしもこれに誰も応えることができないのであれば、天皇制は終わるだろう。現に国民が統合されていないのならば、「統合の象徴」もありえないからである。われわれはそのような岐路に立っていることを、「お言葉」は告げている。
※本稿は『週刊新潮』8月25日号に掲載された原稿の転載です。
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