橿原日記 平成27年5月06日

知られざる東アジアの古代王国「渤海」


高句麗の遺民が建国したとされる「海東の盛国」

海東の盛国
■ 最近、渤海国について教えてくれと知人から頼まれ、ハタと困った。渤海国とは、"高句麗遺民が7世紀末に中国東北地区に建国し、沿海州から朝鮮半島北部にかけて版図を誇った大国”であり、”わが国の奈良・平安時代には30回以上も通交使節を派遣してきた国”である。それくらいの知識しか持ち合わせていない己の不勉強さに愕然とした。唐もやっかむ隆盛ぶりで「海東の盛国」と評されたほどの国でありながら、ほとんど何も知らないでいたことが恥ずかしい。

■ 少しは渤海国について勉強しなければならない、と思っていたら、格好の歴史講座が東京で開かれることを知った。「トンボの目」が主宰する歴史講座で、滋賀県立大学の田中俊明教授が「新羅・渤海・唐・日本 − 8世紀前半における東アジア国際情勢」について概説されるという。早速、本日の午後から池袋の豊島区立区民センターに出かけて、教授の講義を拝聴してきた。

講義中の田中教授
■ 渤海国は668年に唐・新羅連合軍に滅ぼされた高句麗の遺民・大祚栄(だいそえい、テジョン)が、30年後の698年に建国した国とされている。そして、15代にわたって文化を爛熟させ繁栄を誇ったが、926年、急速に勢力を強めた契丹の耶律阿保機(やりつあほき)によって滅ぼされ、228年の歴史に幕を閉じた。

■ 渤海は契丹に降ったが、契丹では渤海の国史は編纂されなかった。それに加えて、契丹は渤海の遺物を徹底的に破壊したため、文字で記された遺物として発見されたのは、2人の公主の墓誌または墓碑ぐらいで、その他にはほとんど何も残されていない。そのため渤海の歴史を再構築するためには、渤海が隣り合っていた唐や新羅、日本の記録に頼らなければならない。田中教授によれば、渤海のことを記した基本資料は、『旧唐書』渤海靺鞨伝『新唐書』渤海伝『五代会要』渤海伝『冊府元亀』などが中心で、その他には『三国史記』新羅伝やわが国の『続日本紀』などの国史に断片記事があるにすぎない。渤海が「知られざる国」、「忘れられた国」と呼ばれるゆえんは、そのためである。

建国時に名乗った国名は、「震国」(または振国)だった

■ 7世紀の後半、朝鮮半島の統一を目指す三国時代の新羅は、東アジアの大国・と手を組んだ。一方、隋代からの宿敵高句麗を滅ぼすために、唐も、新羅と連合する方針を固めた。唐・新羅連合軍は、まず660年に百済を滅ぼし、その8年後の668年に高句麗を滅ぼした。高句麗の滅亡は、新羅に朝鮮半島全土の支配権をもたらし、唐にとっては隋代からの積年の敗北の屈辱を晴らし、北辺の安定を確保する結果となった。だが、高句麗の滅亡後、唐と新羅の思惑の違いから連合に亀裂がはいった。唐は平壌(ピョンヤン)に安東都護府を置いて旧高句麗領を統治しようとしたが、高句麗遺民の間から復興運動が起き、新羅がそれを後押しした。

蓬莱と栄州の所在地

■ そのため、唐は高句麗再興の核となりうる王族や有力者を内地に移し、その根を絶つことにした。まず彼らを山東の蓬莱(現在の山東省蓬莱市)と遼西の栄州(現在の遼寧省朝陽市)に強制移住させた。そして、蓬莱からは海路で江・淮以南に、栄州からは陸路で湖北・四川・陝西・甘粛地域へ移すことにした。言わば、蓬莱や栄州は一種の流謫地(るたくち)だった。

■ 栄州には高句麗人だけでなく、高句麗に協力した靺鞨や契丹の豪族たちも強制移住させられていた。7世紀の末になると流謫地で鬱積していた不満が爆発し、696年に契丹人の李尽忠(りじんちゅう)なる者が、唐の栄州都督を殺して反乱を起こした。すると、高句麗の王族の流れを組む乞々仲象(きつきつ ちゅうしょう)や靺鞨族の首長の乞四比羽(きつしひう)が、それぞれ残党を率いて反乱に加わり、栄州を脱出して遼河の東へ逃れた。

東牟山
■ 唐としては、公然と反旗を翻した夷狄を放置して置くわけにはいかず、契丹の降将・李楷固(りかいこ)を大将軍に任じ、討伐に向かわせた。李楷固は靺鞨の乞四比羽を討つごとができたが、乞々仲象には大敗を喫した。この敗戦で、唐は「道路阻絶」を理由に高句麗遺民を追うのを止めた。唐の遠征軍を打ち破った乞々仲象は、重畳たる山波の彼方の東牟山(とうむさん)(標高1229m)の東麓(現在の吉林省敦化県付近)を都として、新しい国を建設し、その国を「震国」(または振国」)と呼んだ。「震」とは東方を意味し、「振」とは復活を意味する。旧唐書』や『新唐書』は建国を聖暦年間(698〜700)のこととしているが、わが国の『類従国史』は文武天皇2年(698)と見ている。

渤海王世系図(*)
■ 初代の王は、高句麗王族の一姓である(だい)氏を継承し、大祚栄(だいそえい)と名乗った。大祚栄は独立戦争の最中に陣中でなくなった乞々仲象の長子とされている。大祚栄は高句麗の復興を唱えて、次第に支配地域を広げていった。彼が死んだ719年には旧高句麗の北半分を領土にしてしまったという。はじめは弾圧することしか考えなかった唐だが、玄宗皇帝は713年、大祚栄が息子の大門芸(だいもんげい)を人質として入れ、朝貢の礼をとることを条件に、震(振)王を自称する大祚栄を左驍員外大将軍渤海郡王として正式に冊封体制に組み込み、唐臣として遇することにした。冊封号の”左驍員外(さぎょういんがい)大将軍”は正三品の軍官であり、この冊封号は第三代の王大欽茂(だいきんも)まで同じくすることになる。

■ 大祚栄の出自に関して、上記では高句麗王族末裔としたが、『旧唐書』は「渤海靺鞨の大祚栄、本は高句麗の別種なり」と記し、『新唐書』はより具体的に「本来高句麗に付いていた粟末(ぞくまつ)靺鞨の者で、姓は大氏である」としている。つまり、渤海国の建設は粟末靺鞨の首領のひとり乞々仲象(きつきつ ちゅうしょう)とその子の大祚栄を中心とした勢力によっておこされたと見ている。

渤海国最大領域
■ 開元7年(719)に大祚栄が死ぬと、その地位は長男の大武芸(だいぶげい)が継承した。大武芸はその名にふさわしい武人で、その治世の間にすべての靺鞨族を支配下に入れようと奮戦したため、渤海国の版図は大きく拡張された。ただ、松花江の北に盤踞する黒水靺鞨族だけは、大武芸に服さず唐に保護を求めた。大武芸は弟の大門芸に黒水靺鞨族を討つことを命じたが、大門芸はかって唐の人質となり親唐的だったのでその出兵の愚を説いて兄を諫めた。その結果、兄弟が相反するようになり、大門芸は唐に逃れて玄宗の保護を受けた。

■ 玄宗は、大門芸に兵を与えて兄の軍を迎え撃たせる一方、新羅に将を送って新羅軍を動かし、渤海国を南から攻撃させようとした。しかし、雪のため行軍が阻止され、唐は渤海との戦いを断念した。このように渤海と唐の対立で一時は本格的な戦争になりそうだったが、この間国交が完全に断絶していたわけではない。前代からの朝貢使節の派遣は行われており、唐側もそれを受け入れている。

■ しかし、唐と渤海の関係が険悪になったことから、唐は新羅と黒水靺鞨部を優遇し、それぞれと同盟関係を結んで渤海を孤立化させようとしした。そのため、大武芸は新羅と対立関係にある日本に目をつけ、後述のように自ら高句麗の後裔であると称して727年に初めて使節を送ってきた。ここから日本と渤海との200余年にわたる国交が始まることになる。

■ 東に西へと征戦に明け暮れた武王大武芸が738年に亡くなり、長子大欽茂(だいきんも)が後を継いだ。大欽茂は57年間も長期にわたって在位したが、彼の時代は平和のうちに国力を充実発展させた時だった。彼は在位期間中54回も遣唐使を派遣して、唐文化の摂取に努めた。その間は戦乱のない時代が続いたので、渤海国は安定した古代王朝国家を成熟させることができた。唐にとっては反逆の恐れのない属国として位置づけることができるようになったため、762年、従来の「渤海郡王」に代わって「渤海国王」の称号を大欽茂に与えることにした。大祚栄が起こした国は、こうして東アジア世界において正式に渤海国と呼ばれるようになった。

■ 727年に大武芸が日本に使節を派遣してきたのは、唐・新羅・黒水靺鞨部との間に挟まれ国際的に孤立に追い込まれたため、それを打破しようとした軍事目的によるものだった。だが、大欽茂の時代には10回を越える使節が日本にやってきたが、それは対等の立場での平和的な王朝儀礼外交であり、それに付随した商業貿易を目的としたものだっだ。日本は、唐文化摂取のための重要な通路として、また敵対する新羅に対する牽制として、渤海との外交関係を利用しようとした。

上京龍泉府遺址
■ 大欽茂の時代に、唐の天宝年中(742〜755)に都を父祖創業の地(旧国と呼んだ)から中京顕徳府(ちゅうきょうけんとくふ)へ遷したが、長続きせず755年頃には上京龍泉府(じょうきょうりゅうせんふ)に遷して、唐都長安を模した本格的な都城を建設した。さらに晩年の785年頃には東京龍原府(とんきんりゅうせんふ)へ遷しているが、この遷都はそこが日本への窓口だった都市であり、日本との国交を重視したためだと推測されている。

■ 第15代哀王(在位906 - 926)の頃になると、渤海国は完全に保守化して、ただ前例を踏襲するだけの国になっていた。それに加えて、支配階級の内部では権力闘争が激しくなり末期状態を呈するようになり、多くの王族や貴族は918年に朝鮮半島に新しく登場した高麗国に亡命するようになった。一方、契丹の耶律阿保機(やりつあほき)は急速にその勢力を強め、侵略の矛先を渤海に向けてきた。太平安楽の夢をむさぼっていた渤海は、契丹の軍勢の前になすすべもなく破れ、926年、哀王は降伏し、228年にわたる渤海の歴史は幕を閉じた。渤海の滅亡は平和な社会が長続きして、防衛体制が不十分だったことによるとされている。

渤海の文化を語る文献や文化財は極めて乏しい

牡丹江右岸の六頭山

■ 大祚栄が震国を建てた時の都は、東牟山の東に位置する現在の吉林省敦化(とんか)の地だった。そこは唐の侵略に備える要害の地だったが、防衛用の城が築かれた程度で、都城と呼ぶほどの物ではなかった。第3代大欽茂の時、都は中京顕徳府に遷され、当初の敦化の地は「旧国」または「旧京」と呼ばれるようになった。中京顕徳府は、現在の吉林省和竜県の西古城跡に比定されているが、本格的な発掘は行われていない。中京顕徳府は都としては長続きせず、大欽茂はまもなく上京龍泉府に遷都し、ここに唐の都長安を手本とした本格的な都城を建設した。

「六頭山古墳群」の標識 貞恵公主墓 貞恵公主墓の墓碑

■ しかし、大欽茂は祖父の創業の地である旧国を常に心の故郷とする思いがあり、自分を含めて王族の墓を敦化に近い六頭山に営ませた。六頂山からは大欽茂の墓と推定される珍陵が見つかっている。さらに1946年には、宝暦4年(777)の墓碑銘を持つ大欽茂の二女貞恵公主(ていけいこうしゅ)の墳墓が発見された。1990年には壁画や墓誌を出土したことで知られる貞孝公主(ていこうこうしゅ)の墓が発掘されている。貞孝公主は大欽茂の四女で、792年に36歳で亡くなった。現在、六頭山のこれらの古墳がある付近は王族の聖域として、「六頭山古墳群」という国家級文物保護単位に指定されている。

貞孝公主墓の墓室 墓室に描かれた壁画

■ 上京龍泉府は、大欽茂が755年頃に中京顕徳府(現在の吉林省和龍市)から遷した都である。当初の都だった旧国(敦化)から北へ約120キロ離れた現在の黒竜江省寧安市に東京城鎮があるが、その近くの渤海鎮が上京龍泉府の都城跡に比定されている。発掘調査によって、唐の都長安城に準じた横長の長方形の都城プランを採用しており、当時は南北約3.4キロ、東西約4.9キロの規模をもつ王城だったことが判明している。

上京龍泉府の城壁 上京龍泉府の復元イメージ

■ 上京龍泉府は外城、内城、宮城の3部分から構成されており、外城の長さは周囲約17.5キロにも達する。1930年代に日本の研究者が発掘調査を行った結果、宮殿は東西幅200m、南北300mほどの広さで、日本の平安時代の寝殿造を彷彿させるものだったようだ。

渤海の五京の位置
■ 渤海は都制として「五京の制」を採用していた。すなわち国の中心部の重要地と周辺国との交通の要衝に都城を置いた。本来の首都である上京龍泉府以外の四京(東京龍原府、南京南海府、西京鴨緑府、中京顕徳府)は外交の拠点であり、いつでも首都になりうる都城だった。しかし、一時的にせよ都となったのは、中京顕徳府と東京龍原府だけである。これらの五京のうち、発掘調査によってその位置が確定しているのは上京龍泉府と東京龍原府だけで、他の三京の位置は確定できていない。

興隆寺の石灯籠
■ 諸般の事情があって、外国人を含め誰でも訪問できる唯一の都城遺址は、龍江省寧安市渤海鎮にある「上京龍泉府遺址」だけだそうだ。それとは別に、上京龍泉府遺址から2キロほど離れた場所に興隆寺という寺がある。この寺は、清の康熙元年(1662))に渤海国の寺院跡地に創建した寺院だそうだが、いちばん奥の三聖殿の内部に大石仏と、その前に高さ6mの石灯籠が置かれている。現在までに残っている唯一の渤海国時代の建造物である。渤海は契丹に滅ぼされた際に徹底的な破壊を受けた。そのため、当時の文化を語る文献は何も残って織らず、文化財も極めて少ない。

■ 発掘された文化財の中には、故意に公表されていないものもあるようだ。大欽茂王776年半ば王妃に先立たれたが、その墓が10年ほど前に六頭山古墳群で発見され、墓誌が出土した。しかし、その墓誌の内容はおろか写真すら現在まで公開されていない。その理由は不明だが、公にできないなんらかの事情があるようだ。

■ 上記では、高句麗の王族の流れを組む乞々仲象(きつきつ ちゅうしょう)が唐に離反して、高句麗の残党を率いて渤海を建国したと述べてきた。しかし、渤海が何民族の国だったのかは異論がある。原因は、基本資料である『旧唐書』と『新唐書』の書き方の違いが大きく関わってくる。『旧唐書』は渤海伝の中で、「高麗の別種が靺鞨の居住地に来て、高句麗の遺民と靺鞨の民とを糾合して渤海国を建てた」と書いている。すなわち、渤海国は旧高句麗国と靺鞨族とによってできた複合民族国家であると言っている。しかし、『新唐書』では、「渤海国は靺鞨族の国であり、高句麗との関係はその王族大氏が、もと高句麗の支配下にあっただけのこと」として渤海は靺鞨族の国としている。

■ 渤海が靺鞨族の国か、高句麗系朝鮮民族が支配したかという問題は、実は現在の国家の政治意識や領土問題に関わってきて、国際的に激しい議論の種になっている。上京龍泉府遺址を解説する石碑には、「渤海国は唐(中国)の地方政権である」と記されているそうだ。これが渤海を朝鮮民族の王朝とみる韓国との間で歴史論争を生んでいる。10年前に見つかった王妃の墓誌の内容が明らかにされないのは、おそらくこうした歴史認識の問題から中国側としては公表を控えているのだろう。

727年から919年までの間に33回も渤海からやって来た使節

■ 『続日本紀』や『日本後記』、『類従国史』、『日本三代実録』、『日本紀略』などのわが国の史書には、神亀4年(727)の渤海使節来朝を皮切りに、919年までに33回も渤海国から使節団が来たことを伝えている。最初の渤海使節は、第2代王の大武芸が、唐・新羅・黒水靺鞨部との間に挟まれ国際的に孤立に追い込まれたため、新羅と対立関係にある日本に目をつけ軍事同盟を結ぼうとして派遣してきた使節である。

渤海・日本間の渡航経路推定図
■ 使節団は寧遠将軍・高仁義(こうじんぎ)を大使とする24人で構成されていたが、沿岸を北流する対馬海流に流されて出羽に漂着した。運悪く高仁義以下16名は蝦夷(えみし)に殺害されてしまったが、残った8人はなんとか死地を脱出して、4ヶ月後に平城京にたどり着き、大武芸の国書と土産の貂(てん)の皮を朝廷に差し出した。大武芸の国書には格調高い漢文で使を通じて隣国との友好を進めたいとだけ書かれているにすぎなかったが、使節派遣の目的が共通の敵国新羅に対する遠交近攻の同盟関係の樹立にあったことは明白だ。しかし、大使が殺害されてしまった以上、所期の目的が達せられたがどうかは不明である。

■ この生き残った8人の渤海使節は、船を破壊され帰国する術を失っていた。そこで、朝廷では彼らを渤海国まで送り届けるため、引田朝臣虫麻呂(ひきたのあそん・むしまろ)を団長とする総勢62名の送使団を結成し、さらに渡航のための船2隻を新造して翌年の8月一行を渤海まで送り届けている。このように来朝した使節に送使をつけて帰国させることが、その後慣例化して810年まで15回も続いている。

■ 762年、従来の「渤海郡王」に代わって「渤海国王」の称号が大欽茂に与えられ、唐王朝の冊封を受けるようになると、渤海は新羅を敵視する必要がなくなり、日本との遠交近攻策を取る必要もなくなった。ところが、その後も渤海と日本の国交は、それまでにもまして緊密に続けられ、150余年の間に27回の渤海使が日本にやってくるという関係が続いている。彼らが日本に求めたものは繊維製品であり、日本が求めたのは多種多様の毛皮である。こうして当初の軍事目的の通交は、経済優先の国交へ変質していった。

■ 919年に二度目の来日を果たした裴チン(はいちん)を大使とする使節が、渤海使としては最後のものとなった。彼が920年に帰国した後、926年には契丹に攻撃されて渤海はあえなく滅亡してしまう。しかし、裴チンは契丹がその後に建てた東丹国(とうたんこく)に残留させられ、外交の経験を買われて927年に東丹国使として来朝している。しかし、朝廷は>裴チンが夷狄の軍門にくだって二君に仕えたことを非難し、そのような使節を派遣してきた東丹国は非礼であると、使節を到着地丹後から追い返してしまった。勘門の役を負った藤原雅量(ふじわらのまさかず)は>裴チンと知古の間柄だった。非情な指令を伝えなければならなかった彼の心情はいかばかりであっただろうか。



[参考・引用文献] 歴史講座レジメ:田中俊明著「新羅・渤海・唐・日本 − 8世紀前半における東アジア国際情勢」、上田雄著『渤海国の謎』(講談社現代新書1104 1992年刊)、濱田耕策著『渤海国興亡史』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー106)

(*)上田雄著『渤海国の謎』より転写

2015/05/09作成 by pancho_de_ohsei return