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秋晴れさん
おはようございます。
>また、螺髪様の文面を読んでの感想ですが、仏教史を見ると、人本尊時代があって、法本尊時代があり、人即法、法即人(順番は分からない)、人法一箇となっていきます。本尊から人が消える?という表現でいいのか?分かりませんが、これでは、時代に逆行しているように思います。そうか、この際に末法の御本仏、日蓮大聖人を止めて、久遠実成釈迦牟尼仏とする?!?
また、螺髪様のお書き込みは、ゆくゆくは、本覚思想に傾倒していくかのような懸念があります。思想が漫然となりそうな.....。(投稿者:秋晴れ 投稿日:2016年 9月 6日(火)00時52分48秒)<
http://6027.teacup.com/situation/bbs/55688
「根本清浄」というところに力点を置き過ぎていることによる錯誤、とのご指摘かと思います。確かな基準がないとのことなのかも知れません。この50年、60年くらいならいいかもしれない。だがそれはやがて、誰しもが仏であるとの本覚思想に陥らないかとのご指摘かと。
「系譜」を言い表していないことの表現欠落かも知れませんね。ご指摘の言葉をお借りするなら、人即法、法即人の「人」の部分です。別の表現を使えば、「師弟不二」というところになるでしょうか。決して度外視しているわけではないのですが、まったく表現できていないのもまた事実です。それは、別の言葉を使えば、「寛、昇、達には、伝説のご先祖の戒様以来、連綿と続く上野家のDNA……」等々の系譜(この言葉が適当かどうか?)の欠落でもあります。
池田先生が「私は、仏法を知って創価学会に入ったのではなく、戸田先生という人間を知って創価学会に入ったのだ」(趣旨)とされて見えることからも重要な処かと思います。
言葉や文化を乗り越えるために、この「根本清浄」は便利な言葉かなぁとも思ってもみましたが、仰るように捉え方によってはどうにでも解釈できる曖昧な言葉です。漫然となりそう、というのもうなづけます。ただ、根本清浄が「久遠の生命」であることには、疑いを持ってはいません。いやー、表現するというのは難しい。
ところで、秋晴れさんは登場当初、私も絡みましたので記憶に残っているのですが、その時は、初々しい青年(男女は不明)でした。いつの間にこんなに教学力を身に付けてしまったのかと(笑い)。善きかな善きかなです。
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