渤海

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渤海

●渤海(ぼっかい)

高句麗の滅亡後、領内の靺鞨人と高句麗遺民がたてた国。

のちの所謂満州と北朝鮮・沿海州の地域を支配し、唐王朝と並び立つ豊かな国だった。

日本との交流も盛んだった。渤海使者と菅原道真の交流は有名。

唐の滅亡と同時期に契丹族(遼)により滅亡する。

のちの女真族(金)・満州族(清・満州国)は靺鞨人の一派の末裔。

●乞乞仲象(こつこつちゅうしょう)

靺鞨人。高句麗国内の部族だったが、高句麗滅亡により中国・唐王朝の部族になる。

混乱の中、同じく領内部族の契丹族・李尽忠が反乱をおこし、靺鞨人・乞乞仲象もこれに参加する。

唐王朝の則天武后は反乱軍の分裂を図る。乞乞仲象に「震国公」の位を与え、離反させようとしたのだ。

靺鞨人たちはこれに応じず、唐と戦うが敗れ、乞乞仲象は死亡する。

●大祚栄(高王)(〜)(在位698〜719)

乞乞仲象の子。唐に敗れた靺鞨人と高句麗人をまとめ、追撃軍を返り討ちにする。

国家を建設し、「震国王」を名乗る。

713年、唐王朝より「勃海郡王」に任命され、海東の盛国・渤海国の歴史が始まる。

ちなみに「大」が姓で「祚栄」が名。「大」姓は彼の創始。

●大武芸(武王)(〜)(在位719〜737)

大祚栄の子。先代死後すぐに即位・改元。

周辺に出兵して勢力を拡大する。

独自の年号を使用し、唐王朝から独立した。

周囲は全て敵国となってしまったため、友好国を求めて

727年、日本・聖武天皇に使者を派遣した。

●大欽茂(文王)(〜)(在位737〜794)

大武芸の子。先代死後すぐに即位・改元。唐と友好し、文化を取り入れた。

762年、唐王朝より「勃海国王」に任命される。

渤海の最盛期を作り出し、唐・渤海・日本の3ヶ国は交流が盛んだった。

●大元義(〜)(在位794)

姓は大。名は元義。

王族。

大欽茂の子供が死んでいたため即位するが

一族に嫌われ殺される。

●成王(〜)(在位794)

姓は大。名は華璵。先代死後すぐに即位・改元。

大欽茂の孫。

上京龍泉府に遷都。しかしすぐに死去。

●康王(〜)(在位794〜809)

姓は大。名は嵩璘。先代死後すぐに即位・改元。

大欽茂の末の息子。

混乱した王室をおさめ、

日本・唐との友好を深めた。

●定王(〜)(在位809〜813)

姓は大。名は元瑜。先代死後すぐに即位・改元。

康王の息子。

日本・唐との友好を深めた。

●僖王(〜)(在位809〜813)

姓は大。名は言義。先代死後すぐに即位・改元。

定王の弟。康王のの息子。

日本・唐との友好を深めた。

●簡王(〜)(在位813〜819)

姓は大。名は明忠。先代死後すぐに即位・改元(太始)。

定王・僖王の弟。康王のの息子。

すぐに病死した。

●宣王(〜)(在位819〜830)

姓は大。名は仁秀。

大祚栄の弟・大野勃の末裔。

前王とは違う系統の出身。事実上の新王朝創始者。

おろかな権力争いを続ける新羅を攻撃してこれを破り、周辺部族をを配下におさめた。

日本・唐との友好を深めた。

しかし淳和天皇即位後、日本は渤海の使者を追い払ってしまい交流は途絶。

●葬震(〜)(在位830〜857)

姓は大。名は葬震。

宣王の孫。

宣王の業績を引き継ぎ国力をたかめた。

日本・唐との友好を深めた。日本との通好を復活させた。

●虔晃(〜)(在位857〜871)

姓は大。名は虔晃。

葬震の弟。

●玄錫(〜)(在位871〜893)

姓は大。名は玄錫。

虔晃の孫。

日本へ派遣した使者と菅原道真の交流は有名。

●瑋皆(〜)(在位893〜906)

姓は大。名は瑋皆。

の息子。

896年、渤海王子大封裔、新羅使者と争う。

906年、国相の子・烏光賛も唐で問題をおこす。

●定王(〜)(在位906〜926)

姓は大。名は諲譔インセン(字が出ない…)。

王族。

唐が滅亡し、後梁に朝貢。

後梁が滅亡し、後唐に朝貢。

朝鮮半島の新羅が分裂し南方からの圧力は無くなったものの中国も分裂しており後ろ盾は無く、そのぶん英雄・耶律阿保機率いる北方の契丹族(遼)が勢力拡大。

なんとか外交で解決しようとするのだが

925年、ついに契丹の攻撃を受け敗北・人々は高麗に逃亡し

926年、降伏。海東の盛国・渤海は滅亡した。

●国相の子・烏光賛

この頃、中国の周辺諸国は文化移入のため留学生を唐に送っていた。

渤海の国相の子・烏光賛も唐の科挙試験に合格したのだが、

合格名簿で新羅の合格者の下に載せられたため国家間の対立になった。

渤海(再興)

●大光顯(在位930〜934)

姓は大。名は光顯。

渤海王子。

930年、耶律阿保機が死に、攻め寄せた契丹の皇太子が帰国・政争に敗れ後唐に亡命したため

契丹軍が引き揚げ、渤海再興の機会が訪れた。しかし情勢不利なまま

934年、配下の渤海人数万とともに高麗に逃亡。

ふたたび滅亡した。

定安

●烈万華(在位936頃?〜976?)

姓は烈。名は万華。

渤海の大臣一族・烈氏のひとりらしい。

渤海滅亡後、有力者だった烈氏によりまとめられた渤海残党勢力があり、

970年、建国まもない宋(北宋)に使者を送り

「定安国」と名乗っていた。

●烏玄明(在位976?〜986)

姓は烏。名は玄明。

渤海の大臣一族・烏氏のひとりらしい。

981年、宋に使いを送った。

985年、宋は高麗・定安と契丹包囲網を作りつつあったため

契丹は定安を攻撃。

986年、壊滅し滅亡。

彼らは独自の年号を持っていたらしい。

以前の王・烈万華と姓が違うところをみると

この間になんらかの政変があったものと思われるが不明。

後渤海

●大元(在位979〜1003)

姓は大。名は元。

渤海王族。

991年、宋に朝貢。

1003年、遼(契丹)に攻められ滅亡。

興遼

●大延琳(在位1029〜1030)

姓は大。名は延琳。

渤海人。

民衆の苦しんでいる状況に乗じて反乱。

「興遼国」を名乗り年号も制定。

女真族なども合流して反乱規模を拡大していったが翌年鎮圧された。

以後渤海人の影は消えていった。