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ジャスダックさんといい、ルネッサンスさんといい、のび太さんといい、随分、ハイレベルの投稿者が増えてまいりました。アーカイブでお馴染みのヨッシーさんも、投稿を再開されて見えますし、きっと、たくさんの投稿者によって、この板も充実していくに違いありません。
「生命の世紀への考察」を主題にしている私が注目したのは、やはり、「システムの崩壊現象/パラダイムの転換期」を取り上げた「のび太」さんですね。
そういうグループがあるのですね。素晴らしい。どんどん投稿してください。
>御本尊と言っても解釈を誤れば御本尊という偶像崇拝になる。うちのグループでの仮説のひとつとして先生の仰られた『黄金の三年間、創価学会の発迹顕本をたのむ』とは、弘安二年十月十二日からのイノベーションなのかもしれない。(投稿者:のび太 投稿日:2016年 9月 5日(月)13時50分5秒)<
まったく、その通りだと思います。個人的に私は、「弘安二年十月十二日の本尊」は、「広宣流布の暁には」という“創作された本尊”だと捉えています。外からも、内からも、そういう指摘が出ています。ことの是非は、今後の研究に委ねるとしても、“偶像崇拝になりかねない”という指摘は、まさに我が意を得たりです。
常々、思っていることは、「御本尊」と言っても、私たちがそれを“体内”に取り入れているのは「意味」でしかありません。根本尊敬の当体として「御本尊の意味」を取り入れているのです。それが「一念(即)三千」の御本尊です。これを別の言葉で言い表せば「信心」です。「根本清浄」です。その意味で、先般、「根本清浄」の考察を投稿させて頂きました。御義口伝の第三段でさかんに出てくる「清浄」です。
それはつまり、御本尊と言っても、それを崇拝する人間の側に「御本尊」があるということになります。厳密にいえば、御本尊を根本尊敬の当体として崇め敬う人間と、「一念三千」の当体の御本尊とのその間、あるいはその全体に御本尊があるということです。だから、主題は、それを信じるむしろ人間です。人間のための宗教です。
根本尊敬ですから、一点の曇りがあってもいけません。例えば、マジックで墨の薄いところを補修したというのもいけません(笑い)。「意味」ですから、「事」も「儀」もありません。その「南無妙法蓮華経を中心にした十界本有」の当体の「意味」だけが意味を持ちます。
以前に投稿させて頂いた本幹終了後の先生の言葉の「それは難しく言うと意味連関といって……」(そこまでしか本幹では流れませんでした)の「意味連関(いみれんかん)」です。「言葉」は国によって違うことはありますが、「意味」は万国共通です。「清浄」も、「生命尊厳」も、共通であるはずです。
>高等宗教として万人に通用する普遍性を堅持して、一宗一派の灰汁を抜く<
ためには、この「御本尊」の“意味”をいま改めて整理しておく必要があるのではないでしょうか。むろんこれは、私めのモノローグではありますが。
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