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置き手紙

探さないでください。

シン・ゴジラと虚構【ネタバレ注意】

シン・ゴジラ

同じ事を繰り返している限り、新しい時代とは言えません

ゴジラvsビオランテ

 1954年。「ゴジラ」の物語は、一人の科学者の死によって閉じられた。
 その巨大生物が去った後に残されたのは、黒煙立ち上る焦土と化した街並みと、そこに為す術無く立ち尽くす人々だった。再び失われた東京にこだまする「ちくしょう、ちくしょう」という嘆きの声。戦後9年目という時期に作られた初代ゴジラには、先の全面戦争の記憶がまだ生々しさを保ったままの姿でそこかしこに焼き付けられている。

 庵野秀明は、多大なリスペクトをこの初代ゴジラに捧げている。彼は「別冊円谷英二」所収「『怪獣』という存在の耐用年数」のなかでこう述べている。

「畏怖の対象として描く怪獣映画の最高峰。怪獣を主役と据える映画に必要な素が無駄なく詰まり、適切に配置されている最初にして完璧な作品」

庵野秀明:「『怪獣』という存在の耐用年数」

 そして2016年。彼の手によって、ゴジラの物語は「シン・ゴジラ」として、現代の日本を舞台に再び綴られることになる。


 この物語は、一人の科学者の死によって火蓋を切られた。
 宮沢賢治春と修羅」とともに曰くありげに置かれた折り鶴、丁寧に揃えられた革靴と意味深長なメッセージのそれぞれが醸すその圧倒的なメトノミーは、彼がどうしようもなく虚構側の人間であることを観る者に示し、不倶戴天の敵同士であった「博士」と「怪獣」は同じ虚構の落とし子として今ここに手を組み交わし現代日本に牙を剥く。暗示されるだけで直接には描かれない、しかし明らかに初代を意識したこの構図は、ストーリーにおける「ひとりの英雄による解決」を否定的に封じ、原水爆の象徴だったゴジラにおける日本の立ち位置を、海洋投棄と原発事故という加害側としての当事者性を以て巻き直す。行き過ぎた科学技術の功罪を吹聴しながら、オキシジェン・デストロイヤー、スーパーX、抗核エネルギーバクテリアといった対ゴジラ兵器を生み出し続けた空想科学の自己撞着は、ついにゴジラそのものを誕生させるに至った。シン・ゴジラは、もはや自然がもたらした災厄ではない。妻を亡くし、葛藤と復讐心に苛まれた一人の老人が自らの意志によって人工的に発生させたものだ。
 牧元教授は知っている。自然はただあるがままで、人間に対し警鐘を鳴らしたりなどしないことを。事あるごとに囁かれるそれが態の良く耳障りの良いおとぎ話の語りであり、本当はそんな虚構に誰も耳を傾けたりなどしないことを。だから彼はみずから引き鉄を引きながら、決して多くを語らない。

 「私は好きにした。おまえたちも好きにしろ」

 この事件は「博士」による、遺留品から解決の道筋まで示された、演出された虚構だ。彼は「日本」を憎んだが、その復讐がもたらしたものは、日本を構成する一般市民という「個人」への攻撃だった。この事件は、まぎれもなくテロ事件なのであり、この物語は、テロリストがもたらした「神」と対峙する物語だ。その結果生み出されたゴジラは、創造主たる人間の業(sin)を背負いながら、自身の細胞のプロトコルに従ってあるがままに変貌を繰り返す。ゴジラは何も主張しない。ただ歩いているだけだ。彼の姿に物語を見出すのはぼくたち人間だ。シン・ゴジラとはそんな映画だ。

ゴジラが存在する空想科学の世界は、夢や願望だけでなく現実のカリカチュア、風刺や鏡像でもあります。現在の日本でそれを描くという無謀な試みでもあります。

庵野秀明:制作発表時のコメント

 なぜ現代日本でそれを描くのが無謀な試みなのかは、もちろん制作費やいわゆる「大人の事情」もあるだろうけれど、それ以上に空想科学である「虚構」に対置されるべき「現実」を規定することの難しさもあるだろう。初代ゴジラという作品は、戦争という大きなひとつの体験に、製作者も観客も直接に結びついていた時代の作品だ。「また疎開か」とぼやく青年、「お父さんのところに行くからね」と身を寄せる母子、焼け跡で「ちくしょう」と繰り返す学生、そして隻眼の孤独な科学者。それらは虚構ではあるものの、見る者の「体験」に結びついていた。
 シン・ゴジラは明らかに3.11を参照した作品だけれど、初代のように市井の人々の嘆きが描かれないのは、ほとんどの視聴者にとって3.11が、先の大戦のような「体験の共有」ではないからだ。L字のニュース速報や、津波で流される車両船舶、避難所の体育館、防災服を着た閣僚である。震災のメタファとして描かれるのは、メディアを媒介とした視聴体験としての現実だ。
 かつて庵野秀明は雑誌インタビューで「僕らの世代(’60年代前半生まれ)の共通体験はテレビかマンガしかない」と語っている。

その前の世代には、圧倒的な共通体験として戦争と戦後があると思うんですよ。あの何もない焼け野原から、日本を復興させるんだという。そういうパワーって、スゴイですよね。だけど、僕らには”魔法の箱”の中にしか語るものがない。

庵野秀明:「ニュータイプ」96年11月号

 この視点は劇中盤、「あれがゴジラか」という矢口の一言に端的に現れる。
 発生当初からゴジラ対応に追われていた彼がはじめて直に対峙するこのシーンには、直接の「体験」とそれ以外を分かつ態度がある。シン・ゴジラの、ゴジラ映画としての価値の一端は、初代の精神を踏襲した上でなお「初代ゴジラはもう作ることができない」という事実に自覚的なところだ。ぼくらのほとんどは、初代ゴジラで描かれたようには3.11を共有できない(その多くが「災害の翌日もいつも通り通勤・通学する人々」であったことだろう)。仮に嘆きを描かれたところで、それは初代の縮小再生産であり、希釈された虚構でしかない。メディア-媒介された現実-は、必ず現実を捨象する。たとえそれが現実に由来したものであっても、それは製作者によって選択された現実の変奏であり、虚構と呼ぶべきかもしれないものだ。虚構が立ち入ることのできない、それを体験するものにしか知ることのない領域。この映画は被写体として、その領域を慎重に避けながら僕らの「現実」であるところのメディアの映像を採用する。ヤシオリ作戦直前の演説場面で隊員達の顔が映されないのは、そのために参照すべき「現実」をぼくたちが持たないからだ。様々な種類の「現実」を取捨選択しながら、この映画の虚構は紡がれていく。現実の鏡像たる虚構として。何かを物語るための虚構として。ゴジラを媒体にこの映画はそれぞれの虚構を語る。
 「ゴジラ」とはそもそも何だろうか。
 初代ゴジラならびに「ゴジラの逆襲」脚本である香山滋は、以下の言葉を残している。

 本来なら、原水爆を象徴する恐怖の姿だから、こわがってもらいたいところ、逆に親近感を生むという不思議な現象をもたらしてしまった。(中略)
つまり、漫画的愛嬌をたたえた「ゴジラ」が可愛くおもえ、どんなに乱暴をはたらいても決して憎めないのである。(中略)
ぼくとしては、原水爆禁止運動の一助のもと、小説の形式を籍りて参加したつもりであったが、これでは全く惨敗に近い。
ゴジラ」を生かして置いては、原水爆を是認することになるし、それかといって、ぼく自身でさえ可愛くなりかけてきたものを、これでもか、これでもかと、奇妙な化学薬品で溶かしたり、なだれ責めにさせたり、今もって寝覚めはよろしくない。よろしくないどころか、屡々夢にうなせれるのである。
 若し書くとすれば、それは、原水爆の象徴としてではなく、別の意味の『ゴジラ』として生れかわらせる外には、絶対に今後姿をあらわすことはない。

香山滋:「ゴジラざんげ」

 引き出しの多さたるやそれはそれは恐ろしい庵野秀明は、おそらくこの文章に触れているだろう。もしそうであるならば、彼の出した答えはなんだったのだろうか。恐怖の対象としてのゴジラを復活させようという試みは随所に見られる。では、そこに込められた意味とは一体なんだろうか。
 「災害の象徴」はおそらく最も率直な見方である。実際に、この映画はあらゆるところで3.11と紐付けられている。この映画が「いま、ここ」のために作られたものであることは間違いない。対応に追われる政府の一連のドタバタ劇は、まさに「現実のカリカチュア、風刺や鏡像」だ。一方で、「怪獣=災害」というモチーフ(「原水爆への内省」が脱骨された米版「godzilla」にそれは色濃く見られる)は、「震災そのものを描けばいいのでは」という野暮なツッコミを、しかし確かに引き起こし、その奥にある「なぜ『ゴジラ』でなければなかったか」という根本的な問いに対する答えを欠いてしまった見方なのではないかと思う。
 今作におけるゴジラの象徴性は、放射熱線を境として大きく二つに分けられる。作中でその表現を担っているのはカヨコ・アン・パターソンだ。放射熱線直後、カヨコは避難中のタクシー内で「ガッズィーラ(godzilla)」と物憂げにつぶやく。そして、次に登場する多摩モノレールの矢口との会話シーンでは彼女は「godizi..いえ、ゴジラ」と意図的に呼び方を改めている。そのトリガーとはなにか。国連による対ゴジラ、ひいては日本に対する熱核兵器使用の決定だ。被曝被害にあった祖母を持つ日系アメリカ人というルーツ、英語の発音時だけ本国イントネーションという時にルー某と揶揄される彼女のキャラクターの必然性は、「godzilla 」と「ゴジラ」の相違を明らかにすることにある。ギャレスゴジラは確かに素晴らしかった。しかしかつての米ソの核実験が「実はあれはゴジラを倒すためだった」と語られるときの白々しさは、日本の視聴者にとってゴジラゴジラたらしめるものが何なのかを浮き彫りにしていたんじゃないだろうか。災害や神の化身である「godzilla」は、核への問題意識を主体的に取り込むことによってはじめて「ゴジラ」となりえる。ゴジラとは、やはり原水爆の怪獣なのだ。そして物語は、対巨大不明生物から対人間である核兵器使用阻止へと軸足を変え、「度重なる使用により太古の眠りから目覚めた」というような怪獣覚醒のためのマクガフィンでしかなかった核兵器を、登場人物達が真っ向から立ち向かわねばならぬ課題として再定義する。そして、そこに芹沢博士の姿はない。彼が最期に背負ったものとは科学者としての責任、核をも凌駕する兵器を生み出した人類に対する責任だった。では、ゴジラを生み出した牧、そして牧を生み出した日本の責任はいったい誰が取るのか。当然、日本であるべきだろう。牧元教授の存在は「一人の英雄による解決」を許容しない。初代ゴジラではスポイルされてしまっていた日本の責任を彼は問う。そして多くの犠牲を払いながら、日本はゴジラを低温停止へと導くのである。
 放射熱線以降、物語のフィクション性が増すのはヤシオリ作戦の荒唐無稽さも然ることながら、現実を徹底的に参照した前半パートとは打って変わった「ありえたかもしれない日本」を描いていることにあるだろう。すなわち虚構である。それはこの映画からのエールであるかもしれないし、単なるエンタメ上の決着のつけ方なのかもしれない。一方で責任というフィルターを通してみたとき、この「ありえたかもしれない日本」は、「そうあらねばならなかった日本」でもあるんじゃないか。
 この映画は矢口とカヨコの責任の取り方についての会話で終わる。政治家の責任の取り方は自身の進退だという矢口に対し、カヨコは牧の言葉を引いて「好きにしたら」という。カヨコがいなくなった後、矢口はひとり「しかし今はまだやめるわけにはいかない」と続ける。壊滅した国の復興。それが政治家の肩書きを飛び越えたところにある矢口の決心、個人としての責任の取り方だ。自身の属する集団の罪を問われたとき、その構成員たる個人はどうするべきか。牧元教授は、日本の罪を問いながらも「好きにしろ」といった。その結果はいずれ、誰もが引き受けなければいけないものなのだから。「好きにしろ」とはそうした皮肉でもあるのかもしれない。
 矢口は「日本、いや世界はゴジラと共存していくしかない」という。映画は「現実対虚構」というキャッチコピーでありながら、主人公である彼は理想という虚構を最後まで胸に抱えながら現実と戦い続けた男だ。「日本はまだまだやれる」 それは虚構であるかもしれないが、その想いこそが矢口を動かす。彼の言葉をどう受け取るべきか。好きにすればよいのである。どうせ現実はありのままなのだから。それでも、矢口は「最後まで、諦めず」希望を口にし続ける。人間には、そうした物語が必要だと知っているからだ。
 ゴジラとは、人間が心が生み出す虚構ー恐怖、罪の意識、責任ーそうしたものの形象である。ゴジラとの共存とは、それらを引き受け、それでも前に進むということだ。そして、そこには希望という虚構があっていいということを映画は教えてくれる。牧元教授でさえ、最期には希望を遺したのだから。