騎馬民族征服王朝説
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騎馬民族征服王朝説(きばみんぞくせいふくおうちょうせつ)とは、東洋史学者の江上波夫が考古学的発掘の成果と「古事記」「日本書紀」などに見られる神話や伝承、さらに東アジア史の大勢、この3つを総合的に検証した結果、提唱された学術上の仮説で、4世紀後半にユーラシアの騎馬民族が日本列島に入り、騎馬文化を波及させ、征服王朝を立てたという説。この仮説は戦後の日本古代史学界に波紋を広げ、学会でも激しい論争となったが、細かい点について多くの疑問があり、定説には至っていない[1]。東洋史家と日本史家とによって別々に、それぞれの学問分野内部で論じられてきた多くの問題を巧みに組み合わせ、総合的、統一的にとらえられた考古学説であり、日本国家の起源を考えるとき、この「騎馬民族説」を無視することはできない。[2]。「騎馬民族日本征服論」ともいう。
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仮説の概要と根拠
江上波夫によれば、日本の統一国家である大和朝廷をつくった勢力は満洲の松花江流域の平原にいた扶余系騎馬民族であり、彼らのうち南下した者の一部がいわゆる高句麗となり、さらにその一部が「夫余」の姓を名乗りつつ朝鮮半島南部に「辰国」を建て、またさらにその一部が百済として現地に残るが、またまたさらにその一部が対馬・壱岐・筑紫を併せて日本列島に入り、江上によると、当時かれらが直轄支配していた任那に加えて「倭韓連合王国」的な国家を建てたと主張する仮説である。江上は、その勢力が5世紀の初めころに畿内の大阪平野に進出し、そこで数代勢威をふるったとの仮定の上で、従来大和国にいた豪族との合作によって大和朝廷をつくったものであると、持論を展開している[3]。
この仮説の根拠としては、この時期からズボンが着用されだしたとすることや、遊牧騎馬民族の由来によると思われる騎乗などの文化が5世紀頃の日本列島で急速に広まったとするなど、古墳文化後期以降については、それ以前より、より北方的、武人的、軍事的であるということとし、それより前の古墳文化が南方的、農民的、平和的であったことに"断絶"があるという。また、もうひとつの根拠として、崇神天皇の和風諡号が『日本書紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラノミコト)であるが、これこそ任那(ミマナ)を直轄支配していたことを示す「証拠」であると独自の論を展開している。
また、
- 記紀の天孫降臨説話や神武東征神話が、高句麗など朝鮮半島の開国説話と共通の要素を持っていること
- 『日本書紀』の中に高句麗の王を「高麗の神子」と呼びかけ、同じ天孫族としての意識が見られること
- 『続日本紀』に、高句麗の後継である渤海の国王が、渤海と日本の関係を、建国以来の歴史を経て「本枝百世」になったと表現していること。
- 『続日本紀』に、渤海の使者に与えた返書の中で、かつて高麗が日本に対し「族惟兄弟(族はこれ兄弟)」と表現したことにふれていること。
- 『新撰姓氏録』によれば、新羅国王は神武天皇の兄稲氷命の子孫とされ、皇別に分類される氏族があること(江上によれば、新羅や任那の支配者層ももとは天孫族であろうとする)
- 倭王武は、中国南朝宋に対して、使持節都督倭・新羅・百済・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍と自称したが、ここに秦韓・慕韓など過去の地名が見られるのは、過去にわたった支配権を主張したものと見られ、事実過去に辰韓・馬韓を統治した「辰王」という扶余系と考えられる支配者が存在したので、倭の五王はその権益を継承したと考えられること
- 『魏志倭人伝』に「牛馬なし」と記されている事からも弥生時代には日本にはそんなに馬がいなかったと思われる。5世紀、6世紀になると、馬の埋葬事例や埴輪の馬が増えてきている。
- 14世紀の北畠親房の『神皇正統記』に「むかし日本は三韓と同種といふことのありし、かの書をば、桓武の御代に焼き捨てられしなり」とあること
- 高句麗語のなかで現在に伝わっている語彙のなかの半分近くが、古代の日本語と似ているとされていること
- 刀伊の入寇や元寇で見られるように騎馬民族は、その後の歴史でも、たびたび日本列島に武力を伴って侵入をはかっていること
- 征服があったとすれば、騎兵に対して対抗戦術を持たない民族では対応が非常に困難であること
などが、それを傍証するものとして掲げられることがある[要出典]。
仮説に対する反論
反論としては、
- 考古学の成果からみて、古墳時代の前期(2世紀後半-4世紀)と中・後期(5世紀以降)の間には、両者の文化に断絶は見られず、強い連続性がみられること
- 「大陸から対馬海峡を渡っての大移動による征服」という大きなイベントにも関わらず、中国・朝鮮・日本の史書に揃って、その記載はなく、それどころか中国の史書では、日本の国家を、紀元前1世紀から7世紀に至るまで一貫して「倭」を用いており、連続性が見られること[4]
- 騎馬民族であるという皇室の伝統祭儀や伝承に馬畜に由来するものがみられないこと
- 日本列島の王墓とされる大規模な墳墓には高句麗や百済の王陵である積石塚や新羅地域の王墓である双円墳がほとんどなく、これらと日本の前方後円墳では形態等がまったく異なること[5]。つまり、王陵の形態に共通性がまったくないこと。
- 日本独自の古墳形式である前方後円墳は、2世紀後半から3世紀前半にかけての畿内で発生していることが明らかで、朝鮮半島や中国大陸にそれに相当する古墳は存在せず、4世紀から5世紀にかけて最盛期をむかえ、6世紀に至るまで墳形や分布にとくに際だった断絶がみられないことから、日本の王権が畿内を発祥とする土着の勢力である可能性が高いこと、及び副葬品も征服を示すものが皆無であり[6]、関東地方や九州で確かに馬具や轡が出土されているが、これは戦闘用のものではなく、一般の乗馬用のものであったり、また持ち主の社会的地位や権威を誇示する威信財としか考えられず、これをもって征服があったとはいえないこと[7]
- 近世に至るまで日本では家畜の去勢などの遊牧民的な習慣がほとんど無かったこと[8]
- 北方遊牧民のあいだでは短弓の使用が一般的であるが、日本では戦国時代に至るまで長弓であったこと[9]。
- 馬は神経質な動物であり、当時の船による大量輸送は不可能であって、現に13世紀の元寇の際にもモンゴル・高麗連合軍は軍馬をまったく輸送していないこと
- 倭王武の上表文では、「…昔より祖禰みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉して寧処にいとまあらず…(中略)…渡りて海北を平らぐること九十五国…」と記しており、畿内大和を中心とした視点で四方に出兵したという観念が認められ、外部からの征服を主張していないこと。
などがあげられる。
騎馬民族征服王朝説の現在
騎馬民族征服王朝説は、古墳時代中葉の変革を、新しく大陸から渡来した騎馬民族の征服によって説明しようとしたものであり、魏志倭人伝が第三十巻に配される三国史烏丸・鮮卑・東夷伝が記録する、4世紀から5世紀にかけての北方騎馬民族の満蒙から朝鮮半島にわたる農耕地帯への南下、農耕民との混血、既存の文化との混合による建国という、東北アジア世界における大きな民族移動の動きをふまえて構想されたものである。しかし、江上説の仮説の一部である、朝鮮南部に日本の王朝の血筋を求める説に関しては、議論が感情論に陥りやすい。
考古学的には、日本列島における古墳時代中葉の諸変化は、急激な変化ではなく、きわめて漸進的なものという説と、江上説を継承し、大陸の三国時代の終了から南北朝時代の開始の時期の東アジアの民族移動に付随し、5世紀に大量の騎馬文化を持つ渡来人の移住が行われ、騎馬文化が入って河内王朝となったという、水野祐(1952)の三王朝交代説のような見方と、両方がある。すなわち、実際、水野氏は自己の王朝交代説を「穏健な騎馬民族説」としており、上田正昭(1973)も「応神・仁徳両天皇の代を新王朝とする見解は、ある意味では江上説を承認するもの」としている。
前者の説では、倭人たちが5世紀に入って以降、大陸から新しい文物や文化を受け入れたことは確かだが、これは広開土王碑文にみられる高句麗の急激な南下[10]という国際情勢に対応するために朝鮮半島南部の鉄資源の確保を目的とした、大和朝廷の朝鮮半島への出兵にともない、意識的、選択的になされたものだと考える。
神話に関しては、むしろ、大林太良などは、日本の神話伝説をヴェトナムや朝鮮半島、ミャンマー、スリランカなどの神話と比較して、その独立性を指摘[11]しており、また「国生み神話」などにみられるように、記紀では、神話や王権の舞台として島々(大八島)を念頭に置いており、大陸に起源を求めていないことはよく知られている。ただし大林は、日本の建国神話が中国や東南アジアには似ず朝鮮のそれと酷似していることは強調しており、とくに政治性の強い神話については北方系の要素が強いことを承認している。
この説に関する論争の結論ははっきりと出たわけではなく、満州から朝鮮の民族形成史とともに、考古学の研究テーマとして議論が続いている[12]。
脚注
- ^ エンカルタ百科事典
- ^ 小学館「日本大百科全書 6」(1985)
- ^ 江上波夫「騎馬王朝説から四十年」、1992
- ^ 樋口(1983)
- ^ 都出(2000)
- ^ 岡内(1993)
- ^ 大塚初重 『考古学から見た日本人』(青春新書INTELLIGENCE)
- ^ 佐原真ほか
- ^ 後藤守一(1953)
- ^ 高句麗は、427年の長寿王の時代に国内城(現在の中国吉林省集安市東郊)から平壌城(現在は北朝鮮の首都)に遷都している。ただし、長寿王の父にあたる広開土王を顕彰する碑文や王墓は国内城につくられた。
- ^ 『三国史記』には新羅王家の始祖は前漢の孝宣帝の五鳳元年の4月丙辰の日に即位したとあるなど、ヴェトナムや朝鮮半島では中国との関わりから、ミャンマーやスリランカの場合はインド文明のかかわりから自らの歴史の古さを由緒あるものに仕立てあげているが、日本では大陸の大文明との関わりを求めようとはせず、自らの宇宙論すなわち高天原に王権の基礎を求めていることに着目している。大林(1990)
- ^ 大和書房『日本古代史大辞典』(2006)
参考文献
- 江上波夫『騎馬民族国家』中央公論社<中公新書>、1967(改訂版1991.11、ISBN 4121801474)
- 水野祐「騎馬民族説批判序説」『日本古代の民族と国家』大和書房、1975.6
- 吉田敦彦『日本神話の源流』講談社<講談社現代新書>、1976
- 都出比呂志『王陵の考古学』岩波書店<岩波新書>2000.6、ISBN 4004306760
- 大林太良『日本神話の起源』徳間書店<徳間文庫>、1990.2、ISBN 4195990068
- 大林太良『神話の系譜』講談社<講談社学術文庫>、1991.2、ISBN 4061589571
- 姜仁求(著)、岡内三眞(訳)『百済古墳研究』学生社、1984.1、ISBN 4311304463
- 岡内三眞「騎馬民族説について」『古墳時代の研究 13』雄山閣、1993
- 田中琢『倭人争乱』集英社<日本の歴史>1991.7、ISBN 4081950024
- 江上波夫・小貫雅男・佐原眞・陳舜臣・埴原和郎・林俊雄『騎馬民族の謎』学生社、1992.12、ISBN 4-311-20167-2
- 佐原真『騎馬民族は来なかった』NHK出版 1993年9月 ISBN 4140016582
- 江上波夫・佐原眞『騎馬民族は来た!?来ない?!―〈激論〉江上波夫vs佐原真』小学館、1996.1、ISBN 4094600787
- 白石太一郎『古墳とその時代』山川出版社<日本史リブレット>、2001.5、ISBN 4-634-54040-1
- 田辺昭三『卑弥呼以後-甦る空白の世界』徳間書店、1982.1、ISBN 4192224801
- 樋口隆康「鐙の発生」『展望アジアの考古学―樋口隆康教授退官記念論集』新潮社、1983.1、ISBN 4103339020
- 水野祐『日本古代王朝研究序説』塙書房、1952
- 上田正昭『大王の世紀』小学館、1973