挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
【予告編】君の背中に翼はあるか 作者:黒川杞閖
4/4

忘却の階段③

「まあ、ともあれイツキちゃん。何かやろうぜ」
 イツキの手が、ミツロウの隣に置いていたギグケースにかかったそのとき。イツキが、手を止めた。
「ああ、うん……。あれ、ちょっと待って」
「どうした?」
「宣伝なら、ミツロウが歌った方が注目浴びられるんじゃないの?」
「お前は俺に死ねと言っているのか?」
「うん」
「……」
 不安の裏返し。イツキはベーシストへのささやかな復讐を済ませると、彼の肩を乱暴に叩きながら楽器の支度を再開した。イツキがギターを構えて再び声を掛けるまで、普段おしゃべりなはずのミツロウは神妙な顔で押し黙ったままだった。イツキはそんな彼に笑いながら何度も謝り、どうにかこうにかその気にさせる。そんなやり取りも。ふたりにとってはいつも通りだった。やがて楽器の準備も整い、ふたりは互いに顔を見合わせる。ベースを構えたミツロウはベンチに座り、それと向き合うようにギターボーカルのイツキが立つ。それが、ふたりのいつものスタイルだった。
「とりあえず、いつものでいいかな?」
「おう、いつものにしよう」
 その言葉を合図に、ふたりの演奏は始まった。
 イツキが息を吸う。
 森の奥、観客のいない演奏会の始まり。イツキのいちばん好きな歌を、ミツロウの最も弾きやすい曲を、ふたりは呼吸を合わせて紡いでいく。ふたりの音楽は所詮アマチュア、しかも学生の演奏でしかないものではあるが、「好き」を最高に楽しんで行われるそれには、心をやわらかくするような不思議な力があった。イツキの高い声はどこまでも心地よく伸び、空へ空へと昇っていった。それをいちばん間近で聴きながら、ミツロウは思う――本当に、彼が人前で歌わないのは残念なことであると。
 悲しい。悔しい。ミツロウは、普決して口に出さない思いを弦に乗せ、それをごまかすように乱暴にはじいた。
 声。音。木々。西日。湿気。不在。そんなものたち。いつもの事象に囲まれて、彼らはふたりでひとつの曲を奏でた。
 ――数曲を終え、ふたりはひと息つくことにした。演奏後の会場に聞こえるのは、観客の拍手や歓声ではなく、演者たちの談笑のみ。ふたりの舞台を遠巻きに見るものはあっても、わざわざ拍手をしに来るものはない。はずだった。
「――ミツロウ、ちょっと飲み物……」
「もう、おしまいなの?」
 だが、その日だけは様子が違った。
 演者ふたりが驚いて振り返ると、ベンチからわずかに離れたところに設置された縁石にちょこんと腰掛ける、ひとりの少女の姿があった。小柄な彼女は膝下丈の白いワンピースを身につけ、つばの大きな水色の帽子を目深にかぶり、その下からウェーブの掛かった長い髪をのぞかせている。年のころはどうやらイツキたちと同じ二十歳前後。どこかの学部の学生だろうか。
 呆然とする彼らを意にも介せず、少女はゆっくりと腰を上げる。彼女は白いワンピースについたほこりを払うように、パタパタと手を動かした。ひとしきりの動作を終えると、少女はちょこちょことふたりに歩み寄ってきた。彼女は身構えて顔をこわばらせるイツキの前にぴたりと立つと、彼の顔を下からのぞき込むようにしげしげと眺めながら言った。
「残念、もっと聴きたかったのに」
「……」
 少女は、どんぐりのような丸い目でじっとイツキを見つめている。イツキとは軽く十センチは身長差があるだろうか。イツキが彼女の視線から逃げようと身じろぎすると、彼女も懸命に後を追う。逃げる。追いかける。逃げる。追いかける。逃げる。……そんなことをしばらく繰り返すうちに、少女の頭を覆っていた帽子が、風にふわりと舞ってアスファルトの上に落ちた。
「あっ、大丈夫……?」
「……」
 慌てるイツキをよそに、少女は特に驚くでもなく――単純に、反応が遅れただけなのかもしれないが――その場に立ち尽くしていた。彼女は変わらず、大きな目でイツキを見据えている。イツキは再度、身じろぎする。しかしそれは、彼女から逃げようとしてのものではなかった。思わず唾を呑む。イツキは、この少女とは初対面だ。だからこそ――彼は、少女に尋ねずにはいられなかった。
「……君は?」
「密。拝島密」
 少女――拝島密は、帽子を拾い上げながら淀みなく答えた。
「あなたは、誰?」

 昨日の晩、変な夢を見たんだ。
 何か、大勢の人が階段昇ってる夢でさ。みんなのっぺらぼうなの。
 でも、ひとりだけきれいな女の人が混ざっていたんだ。その人だけが階段を下っていて。
 僕の見間違いじゃなければ、あの人は……。
 あの人は、この女の子によく似た、翼のない天使だった。

評価や感想は作者の原動力となります。
読了後の評価にご協力をお願いします。 ⇒評価システムについて

文法・文章評価


物語(ストーリー)評価
※評価するにはログインしてください。
感想を書く場合はログインしてください。
お薦めレビューを書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ