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【予告編】君の背中に翼はあるか 作者:黒川杞閖
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忘却の階段①

「イツキ、学園祭でステージに出ないか」
 夏のはじまり、大学構内図書館前の木陰にて。小木蜜朗はベースの入った楽器ケースを背に言った。
「え? 嫌だ」
 彼の友人の川原伊月は、それをためらいなく断った。その淀みのない口調に、ミツロウは思わず足元の小さな段差につまづきそうになってしまった。
「な、何でだよ!」
「嫌だよ。だって人前で歌うってことは、大勢が楽しめる曲が適切だろ? 僕の好きな歌を歌ったところでみんなは楽しめないし、みんなに遠慮した選曲をしたら、今度は僕が楽しくないし」
 イツキはミツロウに背を向けつつ、ぶつくさとつぶやいた。
「何より、恥ずかしいじゃないか」
 イツキは自分のギターケースを胸に抱え、ひょい、とベンチに腰掛けた。その顔は、文句たらたら恥ずかしさ二倍増しといった風情で、彼は口先を尖らせて耳殻を赤く染めている。
「ミツロウだって知ってるだろ。もう人前で歌うのはやめたんだってば。そういうの、やりたい人でやればいいじゃん」
 イツキは頬をふくらし、そっぽを向いてしまった。
 ミツロウはイツキの真正面に立ち、イツキの抱えているギグケースの頭を押さえた。そんなミツロウをイツキはぎっとにらみ上げたが、彼はあまり意に介している様子もない。それどころかケースの頭と遊びながら、どこかふざけたような軽い調子で言い出した。
「そんなこと言われたってさ、困るんだよ。俺とお前、もう弾き語り同好会としてエントリーしちまってるんだからさ」
 イツキの顔がこわばる。対してミツロウは照れたように笑っている。一瞬遅れて、イツキの口から抗議の声がこぼれた。
「はあ?」
「いやあ、お前に言ったら絶対に止められると思ったからさ」
 そこでミツロウはようやくケースから手を離して、自身の掛けているショルダーバッグをごそごそと漁り始めた。木漏れ日が、彼の掛けているセルフレームのメガネにきらりと反射する。イツキは目を見開いたまま、親友のにやつく口元と落ち着かない手の動きを、交互に見ていた。
 しばらくして、ミツロウがバッグの底から角の折れたプリントを取り出した。いわゆるコピー用紙にカラープリントがなされたもの。おそらくワープロソフトで作ったのであろうそれには、何だか素人っぽい、安いフォントが踊っている。いかにも、実行委員会と名前の付きそうな人たちが作ったような出来映えである。ミツロウはそれを自慢げに広げると、イツキの不機嫌な顔の前にずい、と突き出した。案の定、そこに書かれている文字は……。
「楊柳大学学園祭、最終日特別ステージイベント……」
「ほら、会場、枝下音楽堂なんだよ。おもしろそうじゃないか?」
「……」
 枝下音楽堂。
 その単語は、イツキの目を引いた。ミツロウに言われるまでもなくだ。
 音大でもない大学に似つかわしくないその建物は、イツキたちの入学よりもずっと昔――この大学が創立されたころに、ある音楽家の寄付によって建てられたという。その物珍しさから、音楽堂はこの大学の名物のひとつになっている。ここまでは、誰でも見られるパンフレットや公式ホームページに書かれている内容だ。問題は、そこから先である。
 ――枝下音楽堂。
 その単語が示す場所は、イツキにとって特別な意味を持っていたし、彼の親友は無論、そのことを知っていて彼をステージに誘っている。これはイツキのために用意された、まったく逃れようのない罠だった。イツキは得意満面の親友をもうひとにらみする。すると親友はますます得意げな顔になって、イツキの神経を逆撫でするのだ。当然、これはわざとである。
 ミツロウはプリントをイツキに押しつけ、両腕を組んだ。彼は鼻を鳴らしながら話の続きをする。
「せっかくの機会だろ? イケてるユニット名もつけようと思ってんだ!」
「ごめんそれだけはやめて」
 話の続き、あえなく却下。
 イツキは立ち上がる。ギグケースをひょいと肩に掛けると、そのままの勢いでミツロウの胸に拳をつき、握らされたプリントを無理に矢理にと押し返した。
「とにかく! 僕は出ない。誰か代わりを立ててよ。ミツロウならそれくらい、簡単に見つけられるだろ」
 ミツロウはプリントを受け取り、メガネの奥の目を皿のようにしてイツキを見つめる。彼はきょとんとした顔で、ひとり憤慨しているイツキに答えた。
「ふーん、そうか。じゃあ、お前とは秋までお別れだな。ステージの代役見つけて、そいつと練習して、テストもあって、授業では新しい実験も始まって……ああ、ミツロウさんってばとっても忙しくなるから、きっとイツキカワハラに付き合っている時間なんてなくなるだろうなー」
 ミツロウはさらにしわになったプリントを伸ばしつつ、にやにやと笑っている。
「……」
 対するイツキは不機嫌そのものであることは言うまでもない。彼はただ黙りこくって、ぺらぺらとよく動くミツロウの口を疎ましく思うことしかできなかった。また、自分のそんな心持ちを把握しているであろうミツロウ自身のことも、イツキは毎度憎々しくおもっているのである。
 だが。
「まあいいか。イツキだってなけなしのコミュニケーション能力を振り絞って、きっと俺の代わりに放課後付き合ってくれる人間を見つけるに違いない。うん、苦手を克服しようとするその姿勢、俺は評価するぞ」
 だが、イツキにとってそんなミツロウは親友であることに変わりはない。彼はいつもイツキのことを考えて話を持ちかけてくるのだし、今までそれに従って悪いようになったことはほとんどなかった。今回だって、きっと彼なりに思うところがあっての誘いなのだということくらい、イツキは理解していた。しかし、しかしだ。その、ミツロウのとった行動のただひとつの例外が、イツキの心に重石のようにのしかかっているのだ。ミツロウとイツキが過去、共に被ったダメージ、損害、嫌な想い。ミツロウの例外、ただひとつの失敗。もちろんイツキは歌が好きだし、ミツロウの誘いにも乗ってやりたかった。ただ、それが――。
「……」
「おっ? もしかしてその俺代理のやつを引き込めば、それって弾き語り同好会の新メンバー?」
 それが、人前で歌うことでなければ、だ。ミツロウとて、それを忘れたわけではないだろう。
 しかし、イツキは葛藤していた。
 枝下音楽堂。すべては、その言葉のせいだ。
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